44【彼誰】四

 弐朗はさわらの下から抜け出すとすかさず距離をとり、北沢へ振り返る。


 うつ伏せに倒れた北沢の、すぐ隣に根岸が立っている。

 そして北沢の背には、羽を畳んだ叫鬼が鉤爪を食い込ませながら座り込んでいた。

 叫鬼は黒面の赤い二重円を小刻みに動かしながら北沢を見下ろしている。

 北沢に群がっていた鴉の内、数羽は叫鬼と北沢を囲むよう地面を跳ねているが、大半は木の枝や灯籠に留まって境内の様子を窺っている。


 根岸が背中を曲げて北沢の左手を拾い、軽く引っ張り上げる。

 北沢の手の平から覗いていた切っ先は今は完全に刃の部分が露出し、既に手の平で握っても隠し切れない。

 根岸はその切っ先の付け根、柄の部分に指を掛け、更に槍を引っ張り出そうする。


 弐朗は咄嗟に俄雨残り二振りの内、一振りを根岸の手元を狙って撃ち込んだ。

 俄雨は根岸ではなく北沢の手の平に刺さり、北沢の血刀に掠って硬い音を立てる。

 俄雨が露出している槍の柄を擦った瞬間、北沢の身体は叫鬼を乗せたまま電流が走ったように大きく揺れ、噛み殺せなかった鈍い呻き声が上がる。


 北沢のうつ伏せの顔は血管が破れ血に塗れており、顔色は白を通り越して土気色だった。激痛をこらえるために食い縛った歯の隙間から、血が泡になって吹き零れている。

 

 根岸に駆け寄って突き飛ばすか。

 北沢に駆け寄って治療を施すか。


 逡巡する時間は長くない。


 弐朗は俄雨を手に駆け込むと、背中に乗っている叫鬼もそのまま、北沢の背骨目掛けて俄雨を突き刺し、骨の手応えを感じる深さまで一気に押し込んだ。

 北沢の身体は突き刺された衝撃で揺れたが、それは単に身体を押されて揺れただけであり、切っ先に俄雨が掠った際の痙攣ほど大きなものではない。


 「分離」では、血刀を抜くには最期の一振りを見定める必要がある。

 もし、根岸が引き抜こうとしているあれがー…抜くことも戻すこともできなくなってしまったあの血刀が、北沢の最期の一振りなら。

 抜いてしまえば北沢の身体はたないかもしれない。

 なら、何よりも優先するべきは、血液の確保。造血。

 背中からなら胸椎きょうついが一番造血が見込める。


 根岸はそんな弐朗を見下ろしながらも、北沢の手の平から血刀を抜く動作を止めることはない。


 北沢は抜刀も納刀もできないと言っていたが、根岸は実にあっさりとそれを終えた。


 根岸の手に、百八十センチはありそうな長柄の黒い槍が握られる。

 飾り気のない素槍は一見するだけではただの棒のようにすら見える。


 どの時点で手放していたのか、北沢は既に意識がなく、根岸が手を離せば俄雨が突き立ったままの血の気のない左手が鈍い音を立てて石畳に落ちた。


 弐朗は血の気が引くのを感じながらも二度目の抜刀を行い、意識のない北沢の背に追加の俄雨を二振り突き立てるが、北沢からは何の反応も返らない。

 裂けた着衣の隙間から手を差し込んで背に触れてみれば、微かだが鼓動を感じる。心臓は動いている。首に触れれば脈動、血の流れも感じ取れる。

 北沢の首に触れたついでに鴉に突かれ穴だらけになっている顔にも俄雨を刺し、とりあえず一命は取り留めたと判断して漸く、弐朗は顔を上げて根岸を見る。


 根岸は新しい玩具を手に入れた子どものような顔で槍を眺めている。

 見上げてくる弐朗と目が合えば、根岸は短く槍の柄を握って切っ先を弐朗に向け、言うのだ。


「これ、北沢センパイの血刀だ。遠目に見たことはあったけど、こんな感じだったんだあ……。へえ。抜こうと思えば他人の血刀も抜けるもんなんですね」


 そんな話、聞いたこともない。


 血刀は、使い手が自分の身体から抜くものだ。

 抜刀し実体化している血刀ならまだしも、本人ですら抜けなかった血刀を何の補助も無しに抜き取って得物として扱うなど、あり得ない。


 見下ろしてくる根岸の目が、好奇心で生き生きと輝いている。

 反比例するかのように、向けられた切っ先は光沢のない黒一色。


 嫌な予感しかしない。


 二度の抜刀で血が減っているからか、それとも得体の知れない根岸の圧に飲まれたか。

 弐朗は蛇に睨まれた蛙のように固まり、根岸が槍の切っ先を動かすのをただっと見詰めていた。

 自慢の反射神経はミリも反応してくれない。


 試し切り、否、槍だから試し刺しをされるのだと弐朗が遅れて察した頃、背後でグラスの縁を撫でるような硬質な音が響き、北沢の背に乗っていた叫鬼が飛び退って弐朗の後方へ顔を向ける。

 根岸もつられてそちらへ顔を向ければ、弐朗は漸く硬直が解け、背後で聞き覚えのある幼い声が名乗りを上げるのを聞く。


「十九が一振り、童鬼。呼ばれてみればなんとも面妖めんような場に御座りまするな。如何いかに。まあよい。このわわを虚仮こけにした報いは重う御座りまするぞ、叫鬼! 覚悟は出来ておりまするな? さあさあいざ尋常に勝負!」

「わわさん、違います。阿釜さんを拘束するのが自分の仕事です」

「なにゆえ。京を荒らすうつけ根岸とそれに使われるたわけ叫鬼を排すことこそが我らの務めにそうろうぞ。いづれにせよ、あれを野放しにはしておけませぬ。わわは叫鬼を懲らしめまするゆえ、阿釜なにがしの相手はさわら、お主に任せ申した」


 根岸の足の間から覗いてみれば、あちこち血塗れのさわらが竹刀袋を手に立ち、その傍らに顕現した童鬼がやいやい文句を言っているのが見える。

 さわらは弐朗が北沢の治療をしている間に刺さっていた俄雨の大半を自力で抜いたようだ。手の平から指の又までがぱくりと裂け、指もばらばらと地面に落ちている。地面に突き立てていた俄雨は、今は全て地面に放り投げられていた。


 根岸に「行っていいよ」と告げられた叫鬼が、無邪気に鳥の鳴き声で笑いながら鴉羽を広げて上空へと舞い上がる。

 向かった先では童鬼が白鞘を手に仁王立ちで待ち構えている。


 叫鬼がいなくなったからといって弐朗の状況は大して変わらない。

 意識のない北沢を置いて逃げるわけにはいかず、かといって担いで逃げるのを根岸が見過ごすとは思えない。

 面倒臭いことに、暗示に掛かったままのさわらもいる。


 手持ちの俄雨を全て根岸に刺して伸ばし、枷をつけてからならワンチャンあるか?

 駄目だ。あの槍はリーチがある。この距離で行動を起こせばそのまま刺し貫かれてこっちが終わる。そもそも俄雨は中距離で本領発揮する投擲型、槍相手にどう立ち回ればいいのかわからない。

 仮に俄雨で槍を凌げたとしても、無防備な北沢を攻撃されてしまえば意味がない。


 せめて北沢さんが起きてくれれば、二人がかりで根岸を抑え込むことができるかもしれないのに。


 後方で繰り広げられる十九二振りの大立ち回りを眺めていた根岸が振り返る。


 弐朗は咄嗟に北沢を背に隠すように体勢を変え、まともな対応策も思い浮かばないまま根岸と向かい合う。

 「刺されたらそのまま槍掴んで離さないだけだ」「心臓と頭にさえ刺さらなきゃなんとかなるかも」といった、一か八かのまともではない案ならあったが、槍を掴んだところでそこから先どうするかは全く考えられない。


 弐朗を見下ろす根岸の目には先ほどまでの好奇心はなく、侮蔑にも似た冷たさが滲んでいる。


 いや、と弐朗はすぐに思い直した。


 根岸の視線は弐朗を通り越し、後ろで倒れている北沢に向いている。

 弐朗には殆ど興味を向けていない。


 根岸は北沢を蔑んでいる。

 理由はわからない。

 定食屋で北沢のことを話していた時には好意的にすら受け取れた態度が一転、今は肌で感じるほどの悪意に満ちている。


 弐朗にはやはり、根岸が何を考えているのかさっぱりわからない。

 数時間腰を据えて話を聞いた後でも、この得体の知れない一年生が何を考え、どうしたいのか、理解できる気がしないのだ。

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