37【路地】三


 何度かアラームが鳴るのを聞いた。


 起き出して止める前に音は止み、止まった、と思えばまた鳴る。


 聞き覚えのある音は間違いなく自分がスマホに設定したものだが、よくよく考えてみれば、鳴っているのは目覚ましではなく着信音なような気もする。

 メッセージの到着を告げる通知音、アプリ通話の呼び出し音。

 滅多に鳴ることのないメロディは誰からの着信に設定したものだったか。

 暫くするとそれらも聞こえなくなり、代わりに聞こえてくるのは重低音。

 まるで地の底から漏れてくるような低い低い囁き声。

 自分の身体の奥から響いてくる、血液の流れる音。


 覚醒は不意に訪れた。


 弐朗は勢いよく顔を上げ、脳天を突き抜ける痛みと目の回る感覚に慌てて両手をつく。

 その手に触れる、畳の目。顔を上げた時にも、頬から畳の剥がれる感触があった。頬に触れてみればくっきりと畳の跡が残っているのがわかる。

 ずきずきと軋む痛みは外部ではなく頭蓋の中にある。脳味噌が絞られるように痛い。


 寝覚めの良さには自信のある弐朗も、何がどうしてこんな場所にいるのかすぐには理解できず戸惑いが隠せない。

 そもそもここはどこなのか。

 わかるのは屋内であるこということぐらいだ。


 漸く目が慣れ、離れた場所からの薄い灯りで周囲の様子が見えてくる。

 広い空間、畳、柱、板の引き戸、障子。

 光源は障子の向こうにあるらしく、畳の上に格子状の薄い影ができている。

 奥まったところに仏像らしきものがあるのに気付けば、嗚呼、どこかの寺の本堂なのかとわかりはするものの、それがどこの寺なのかは勿論わからない。


 頭部に違和感があるのはこぶでもできているからか。

 何かにぶつけた、何かが落ちてきた。もしくは殴られた。

 外傷云々よりも頭痛が酷い。頭部強打による脳震盪のうしんとう、意識消失。頭痛と眩暈はその症状に違いない。

 違和感のある部分に触れてみれば、案の定見事に瘤ができている。

 濡れた感触も髪のごわつきもないことから頭が割れてはいないことを確認し、弐朗はひとまずほっと息を吐いた。


 改めて状況を確認する。

 頭部に瘤。手足に拘束はない。ブーツは履いておらず、足元は靴下、背負っていたボディバッグは近くにない。


 誰かが昏倒した自分をここに運び入れたのだ。

 誰が。


「起きたか」


 不意に障子越しに声を掛けられ、弐朗は声の発生源から距離をとり首を傾げる。

 若い男の声だ。聞き覚えはない。

 自分をここまで運んだ人物だろうか。

 通りすがりに助けてくれた恩人か、それとも、不意打ちで昏倒させてくれた犯人か。

 どう答えるか悩みながらも、弐朗は畳の上をゆっくり尻を滑らせて移動し、板戸を背中につけ「誰スか」と短く問う。

 礼を言うのも罵るのも、相手が誰かを確認してからだ。

 弐朗の問いに障子の向こうの男は短い息を吐き、すぐには言葉を返してこない。

 そのまま黙っているつもりなら、と、弐朗は畳み掛けるように矢継ぎ早に問いを重ねる。


「ここどこスか。今何時ぐらいか時間わかります? 俺と一緒にいた二人、見てないッスか? スマホと、荷物も。背負ってたバッグがあったはずなんスけどー…」


 問いながら、弐朗は「失礼だったかも」と遅れて自省を始めていた。

 自分を攻撃した人物がここに運び込んだのなら、拘束もせずただ転がしておくのはおかしい。頭部への一撃以外、特に痛め付けられた様子もない。ご丁寧にブーツを脱がしていることを思えば、攻撃してきた人物と、自分を運んだ人物は別人なのかもしれない。


 しかしそれは間をあけて返ってきた男の一言で打ち消される。


「悪かったな、いきなり殴って。咄嗟に手が出たっつぅか……。嗚呼、お前の荷物はここだ」


 やはり自分は殴られて昏倒し、ここに運び入れられたのだ。

 そして障子の向こうにいる人物がその犯人。


 男は障子の向こうでビニール袋を漁っているらしく、がさがさと乾いた音が聞こえてくる。


 弐朗は悩んだが好奇心には勝てず、膝を滑らせて障子の前まで移動し、隙間を開けて向こう側の様子を確認する。


 障子の向こうは屋外だった。

 開けてすぐの階段には声の主と思わしき男が背中を向けて座っている。

 短く刈り込んだ黒髪に、頭部に巻かれた包帯、汚れてくたくたになったフード付きのミリタリーコート。傍らには弐朗のボディバッグとビニール袋が置いてあった。


「あの。俺、なんで殴られたんスかね……。路地の写真撮ってただけなんスけど」


 弐朗の問いに、男は「色々事情があんだよ」とだけ返し、ビニール袋から取り出した惣菜パンを右手と口を使って開けている。コートの袖口から覗く左手は怪我でもしているのか、指が使えないほど分厚く包帯が巻いてある。


 男は惣菜パンを齧りつつ弐朗に振り返る。

 男は顔の半分にも包帯を巻いていた。包帯は所々血で汚れている。

 声から成人男性を想像していたが、改めて顔を見るとぎりぎり十代にも見える。


 弐朗にボディバッグを投げ返しつつ、「お前、」と若干困惑気味の声で男が言う。


「阿釜総一さんと何か関係あんのか。親戚とか、そういう」


 いきなり飛び出した父親の名前に「なんで」と思うと同時に、バッグ、スマホ、財布、学生証、氏名、緊急時の連絡先、割と珍しい苗字の血筋ー…と頭の中で連鎖するものもあり、弐朗は「父親ッス」と答えながらその場で正座し、バッグを抱える。


 先代、父親と愉快な仲間たちは揃って京都を出禁になっている。稲荷神社で虎之助はそれを危惧し、自分たちの素性は明かさないほうが無難と言っていた。弐朗は今になってその意味を身を以て知る。初対面の男が父親を知っているという事実に、絶対ろくでもないことしてるに違いないという確信が持てるのがつらい。


「息子」

「息子ッス。あのぉ、親父とはどういう……」

「あー…何回かボコボコにされたことがある。生意気だとか調子乗ってるだとか言われてな。お前の親父と、仲間の人らに。あんま見掛けねぇ苗字だからまさかなとは思ったけどー…息子か。そういや同い年ぐらいの子どもがいるとか言ってたか、あのオッサン。何で修学旅行生があんな時間にあんな場所うろついてんだよ」

「その節は先代連中がご迷惑をぉ……。って、エ、何で修学旅行って。あ、旅のしおりか。えっと、あそこには狂いを、」


 言いかけて、「そういやこの人使い手なのか?」と今更疑問に思った弐朗はその場で索敵をしてみるが、どういうわけだか索敵が通らず、目の前の男の気配は勿論、周囲の気配も一切読むことができない。

 目元を隠して集中してみても、小刻みに繰り返してみても掠りもしない。


 そんな弐朗の様子に、「索敵なら無駄だぞ」と缶珈琲を飲みつつ男が言う。


「結界内だからな。中からも外からも索敵は通らねえ。あー…、そうだ。お前の財布から三千円借りた。今手持ちがなくてな」


 ついでのように告げられた三千円強盗発言に、弐朗は「この人、わりといい人なのでは」と真顔で思う。

 弐朗なら何も言わずに有金全て抜き取って終わりだ。

 そう、根岸にやったように。

 しかし男は馬鹿正直に申告してくる。念のため財布を確認してみれば、確かに三千円程度減っているが、根岸の財布から分配した万札や小銭はそのまま残っている。


 金銭目的にしては控え目な金額に、いよいよ男の目的がわからなくなる。

 弐朗は一度は無視された質問を再度繰り返した。


「えっと、それで。……どちらさまッスか。事情って何スか。何で俺、拉致られてんスかね」


 男は空にした缶を横に置き、弐朗に振り返って真っ直ぐ視線を向けてくる。

 弐朗はそれを「誰なんだ」としげしげ見詰め返すが、やはり見覚えはない。


 暫く押し黙った後、男は首を傾けながら言った。


「……連中の仲間じゃねえんだよな。修学旅行できてんだし。そもそも阿釜さんの息子が何であいつと一緒にいるのか、そこがわかんねえ」


「北沢。北沢きたざわ鉄平てっぺい


 男の口から名前を聞いてなお、すぐには理解できない。

 弐朗は魚卵のような目で、男ー…根岸の探し人、北沢鉄平を見詰めてしまうのだった。

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