36【路地】二
ごもり、と頭蓋が地面を叩く、くぐもった鈍い音が響く。
俯せに倒れた男はそのままぴくりとも動かなくなった。
弐朗は思わず飛び
黒い塊は男の上で立ち上がるが、やはり動作からは衣擦れの音ひとつしない。
立ち上がって初めて、それが人で、しかも自分と然程年の変わらない細身の少年であることがわかる。
少年の上半身は陰に隠れており、かろうじて輪郭がわかる程度。
足元は黒いスラックスに、黒いワークブーツ。これも光の届かない場所に立っている所為で黒に見えているだけかもしれず、正確な色は判然としない。
いきなり降って湧いたように感じた少年だが、どうやら長屋の屋根から飛び降りただけらしい。瓦屋根の上をどうやって音も立てずに近付いてきたのか。今、目の前で動いていても少年は全く音らしい音を立ててはいない。
弐朗は「地元の使い手か?」と気配を読もうとするのだが、少年は隠密しているらしく、姿は見えるが全く気配を掴めなかった。
少年が男の手から何かを摘み上げ、じゃらりと地面に垂れ下げる。
それは鎖のついた犬用の首輪だった。散歩用のリードではなく、係留を目的にした鎖のように見える。ただ、鎖の先にぶらさがる首輪には、今は何も繋がれていない。
弐朗が呆然と見上げる先で、少年は今更のように男の上でゆっくり両腕を広げて見せつつ緊張感のない声で言う。
「着地、十点満点~。あー、ごめんね。これ、俺が目付けてた狂いなんだよね。色々聞きたいこともあるし、このまま持ってくつもりなんだけど……。知り合い? 何か都合悪かったりする?」
弐朗が「あ、ダイジョブです」「気配がしたから気になって覗きにきただけで」「お疲れ様です」と両手を振りつつ答えれば、少年は「ならよかった」と軽く受け流し、何事もなかったかのように男の上から下りる。
その動きのついでに手にした鎖と首輪を男の背広で拭い、首輪についたタグを裏返して「エリンギチャンだな」と呟くと、少年は弐朗のことなど気にも留めずマイペースにごそごそし始めた。
何をしているのかと弐朗が見守る先で、少年は男の背広を脱がし、その背広で路地に落ちている潰れた雑巾のようなものを拾い上げて包んでいる。
そして男の首に犬の首輪をつけると引っ張り上げながら弐朗に振り返り、きょとんとした様子で首を傾げた。
「なに? まだ何か用あった? 帰っていいよ」
「え、いや。用っていうか。口止めとかしとかなくていいのかな、と。いや、俺も同類なんで言いふらしたりとかはないんスけど。あんまりアッサリしてるから。ここの後始末とか一人でダイジョブスか」
「そっちが五条坂にいた時から気配掴んでたから、お仲間なのはわかってるよ。入口にいる奴等もね。片方は使い手じゃないっぽいけど……。こっちに近付いてくるから、何するつもりなのか様子見てた。ほっといたらそのままお片付け始めそうな勢いだったから、あ、ちょっと待って待って〜ってね。後片付けはそこの住人がやるから大丈夫」
「え。あ、そこの家の人、関係者ッスか? 索敵には引っ掛かんなかったスけど」
「ンー? 詳しくは知らないけど、そうなんじゃない。ここ、奥まってるからこういうの片付けるのに使わせてもらってるんだよね。住んでるお爺さんも承知の上」
半分暗闇に飲まれた少年が指先を向け、玄関灯を灯している長屋を示す。
弐朗はその言葉に、なるほど、この路地、この辺りで使っている仕事場だったのか、道理で入りづらい雰囲気なわけだと納得し、用は終わったとばかりに鎖を引いて男を引き摺って行く背中に、「あの」と質問を投げかける。
「聞きたいことって。狂いに何聞くんスか。話せるんですか?」
問われた少年は暗闇の中に男を引っ張り込みながら、「理由」と短く答え、完全に姿が見えなくなってから、笑いを含んだ声でこう返してきた。
「なんで犬食べてたのか、聞いてみたくて」
そんなことを聞いてどうするのか。
狂いの行動にどんな理由があろうと、それが狂いを正常に戻すこともなければ、狂い化を抑制する手掛かりになることもない。
狂う理由は人それぞれ、
弐朗はそれ以上掛ける言葉もなく、袋小路の先へ溶けた少年を見送ると後退りするように路地を後にした。
背中を向けた瞬間、少年が音もなく真後ろに立ちそうで嫌だった。
背後を気にしながら路地の入口まで戻れば、虎之助と根岸が「狂いじゃなかったんですか」「おしゃべりしてたよね?」と怪訝な顔を向けてくる。
「イヤ、狂いは狂いだった。犬食ってた。ここ、仕事場だったみたいで地元の使い手が狩りにきててさ。しゃべってたのはその人と。狂いと後始末はその人に任せてきたから、まあ大丈夫だろ」
「仕事場って何? どゆこと」
「ここの人らがどう呼んでるかは知らねェけど、狂いを追い込んだり誘い込んだりして、処理する場所。捕獲とかな。人目につくとこでやるわけにゃいかねぇだろ」
「へえ。何ヶ所ぐらいあるの。目印とかは? 誰でも使っていいの?」
「そんなの地元の使い手に聞かなきゃわかんねぇし。お前が気配隠さずに普通に生活してりゃ、キーチさんとか、キーチさんじゃなくても他の誰かが教えてくれたんじゃねえの。自業自得」
「つまり俺は初プレイのゲームでチュートリアル読まずにいきなりフィールドに出た的な……? SPOだと義務のこなし方わかんないからいつまでも権利が貰えない的な?」
「お前開拓民かよ。どこ
「用が済んだならとっとと帰りませんか」
弐朗がスマホを取り出す気配を察し、虎之助は間髪入れずに移動を促してくる。
雑談に興じるなら旅館に帰ってからやれ、と言わんばかりだ。
おっといけねえ、危うく馴れ合うとこだったぜ、と我に返る弐朗の横で、根岸が「ちょっとぐらいいいじゃん。ねえ、センパイ」と同意を求めてくる。それを真顔でやり過ごし、弐朗は手にしたスマホを掲げてカメラを起動しつつ誤魔化すのだ。
「これはチゲェし。そゆんじゃねえし。路地の入口をトーコにも見せてやろうと思ってだな。写真撮るんだよ」
路地に向けてスマホを構える弐朗に、虎之助は「さっさとしてくださいよ」と呆れたように溜息を吐き、根岸は「俺もスマホあったら撮ったんだけどなぁ」と恨みがまし気に呟いている。
そんな二人に「すぐ済むから先歩いといて!」と声を掛け、弐朗はスマホの画面を見詰めながらシャッターを切った。
しかし灯りのない路地入口はどう角度を変えても上手く写らない。
仕方なしにライトを点けてみるが、露骨な照明は途端に路地の侘び寂びな雰囲気を台無しにしてくる。
弐朗は仕方なしに薄暗いまま路地入口の写真を何枚か撮った。
写真の写りを確認すべく画像フォルダを開き、何枚かスライドで送る中で、弐朗はふと、あることに気が付いた。
肉眼の時には気にならなかったが、路地の入口に何か写っている。
この距離にいて視認できない筈がない。
スマホを構えていたから気付かなかったのか。
画像をピンチアウトしてみれば、写っているのがスニーカーであることがわかる。
くたくたに履き潰され薄汚れたスニーカーが、道路と路地の境界となる門構えの陰に、ごみ袋か何かのように適当に置いてある。
なんでこんなところにスニーカーが、とスマホから顔を上げた瞬間、弐朗は視界がぐるりと回るのを見た。
すぐ近くで「う?」と、酷く気の抜けた声が聞こえる。
それが自分の発した声だと気付いたところで、続く言葉はない。
あ、これは、と思った時には弐朗の身体は前のめりに傾いており、遅れて頭部に衝撃がやってくる。
踏ん張ろうと踏み出した先で地面がぐぬりと沈み、バランスを保てない。
何かに掴まるべく慌てて手を突き出すも、身体を動かせているのかどうかもよくわからない。
実際には、手は愚か、指先一本動かせないまま、弐朗は白目を剥いてその場で昏倒した。
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