25【怪鳥】二

 先程までの肌寒さから一転、オーブンの中にいるのかと錯覚するほど空気が熱い。

 午前の太陽は高い位置で燦々さんさんと輝き、秋晴れなのは間違いないが、どう考えても秋の気温ではない。


 弐朗は虎之助に加勢すべく駆け出すが、売店を出た途端、鴉に群がられすぐに前も後ろもわからなくなってしまう。

 頭や手を鋭い嘴に突つかれながら、弐朗は怪鳥と男子生徒に向け大声で叫んだ。


「なんでこんなことすんだよ!? 何が目的だテメェッ! お前なんだろ、あちこちで使い手襲ってる奴って!! このデカい鳥なんなんだ説明しろコラァ!! あと俺らはただの修学旅行生だっつのッ、そこンとこわかっててやってんのか、オイ!?」


 しかし弐朗の罵声に答えが返ることはない。


 途中、口に入った鴉の手羽先を噛んでしまえば、口いっぱいに芳醇な生ゴミの風味が広がり胃液が逆流しそうになる。

 群がる鴉を手当たり次第に追い払っても、彼らは次から次へと湧いてくる。

 とにかくこの鴉の群れをどうにかしなければ、怪鳥に俄雨を撃つこともできない。


 その時だった。


 ぽつ、と頬に水滴が当たり、顔の近くで熱い蒸気が噴き上がる。

 群がっていた鴉が喚き声を上げながら一斉に飛び立ち、弐朗の視界が俄かに明るくなった。


「おおーーー、たのしーー!! すごい! ご神水ぱわーすごい!! しゃらんらーー!!」


 頭上から水滴と共に刀子の声が降ってくる。

 見上げれば、売店の屋根の上に立った刀子が、踊りながらペットボトル片手に参道に向かって水を振り撒いている。


 弐朗の脳裏に滝場での鴉の一件が過ぎる。

 理由はわからないが、この水はどうやら鴉たちに効くらしい。

 人間が飲んでもいい、有難いご利益のある水だ。何か厄を払うような効果があるのかもしれない。

 水を浴びた鴉たちは逃げるように山の中へと飛んで行く。

 刀子が遠慮なしに水を撒くおかげで、至る所で鴉から蒸気が上がり、狭い参道はすぐに湿った湯気で真っ白になった。

 ドライサウナがスチームサウナになる瞬間だ。

 弐朗は中途半端に中身の残っているペットボトル二本を取り出し、滝から汲んだ一本を刀子に向けて「これも使ってヨシ!」と放り投げる。

 そしてもう一本は自分で一口飲んで喉を潤してから、親指で飲み口を塞ぎつつ突っ込んでくる鴉に向け振り撒いた。

 ご神水は効果覿面てきめんに鴉を怯ませ、戦意喪失した鴉は一羽、また一羽と山の中へ消えて行く。

 水を浴びていないにもかかわらず動かない鴉は、揃って売店の屋根を見上げており、刀子の凝視に縛られている。


 鴉を払った弐朗の視線の先、石段の低い場所で、虎之助が狛狐に背を打ち付け倒れ込んだ。

 抜刀していた錆前は取り落としたか、蒸発したのか、手には持っていない。

 虎之助を弾き飛ばした怪鳥は石段の上できゃたきゃたと乾いた声を上げて笑っている。


 弐朗はすかさず虎之助の腕を掴んで石段から引き摺り下ろし、石鳥居の陰へと引っ張り込みながら「ダイジョブか、どっかやられたか」「どうなんだアレ」と状況を確認する。

 虎之助は至近距離で熱風を浴びた所為か、前髪が縮れていた。顔も鼻先や頬が赤く焼けており、右掌はべろりと大きく皮が捲れている。


「掴まると焼かれます。距離があるとあの熱風と刃物みたいな羽でどうにもこうにも。あれは無理ですよ」

「無理とは!?」

「捕獲も処理も無理です。下手するとこっちが殺られますね」

「まじかッ……。じゃ、じゃあどうする。逃げんの?」

「は? 誰が」


 短く吐き捨てた虎之助が、ぱ、と真上を見上げる。

 クソ、とどくく声が漏れた。


 石鳥居の上には、いつの間に移動してきたのか、怪鳥がいた。

 怪鳥が首を傾けると、くく、と面の赤丸も小刻みに回る。


 顔面に熱が篭もると同時に目の表面が粘つき、弐朗はすぐに瞼を開けていられなくなった。

 眼球の水分が持っていかれる。

 鼻の奥が乾く。

 頭の上でワッチキャップの繊維がめろりと溶けた。

 手に持ったペットボトルに穴が開き、漏れ出た水は水溜りを作ることなく、石畳の上で蒸発していく。


 目を閉じた一瞬に何かに強く突き飛ばされ、弐朗は石鳥居の陰から参道へと転がり出た。


 顔面に感じた熱が薄れて漸く、目を開けることができる。


 弐朗を突き飛ばしたのは虎之助だった。

 その虎之助が石鳥居の横で仰向けに倒れている。

 怪鳥が膝を押し込むように虎之助の腹に乗り、虎之助に翼の付け根を掴まれ揉み合っている。怪鳥を掴む虎之助の両手は遠目に見てもわかるほど赤く焼け爛れている。


 弐朗が駆け寄ろうとすれば、虎之助が「上ッ!」と鋭く叫んだ。


「こっちは! 抑えときますからッ。……長くッ、は、もちません」


 上、と虎之助が顎で示した先には、鴉まみれの社の前で突っ立って参道を見下ろしている男子生徒の姿。


 弐朗は変形した空のペットボトルを投げ捨て、勢いをつけて石段を駆け上がる。

 石段の真向かい、売店の屋根で、刀子が「みんなー! こっちをみるのです!」と鴉の気を引こうと声を掛けている。

 ただ、それでも全ての鴉の動きを縛ることはできていない。

 刀子の凝視を回避し群がってくる鴉は、両手に握る俄雨で切り捨てた。


 鴉に遮られる視界の中、ちらりと覗いた明るい青緑色。

 既視感に弐朗は顔を上げ、男子生徒を見る。


 男子生徒は片足を引き、赤幕の掛かる社の柱を回り込んで横の通路に逃げようとしていた。

 柱に添える手とは逆の手に、何やら細長い、赤い模様が入った棒を持っている。


 この距離なら怪鳥の起こす風も、群がる鴉も邪魔にはならない。

 弐朗は柱に触れる男子生徒の手の甲目掛けて俄雨を撃った。

 黒い雫型の刃が二振り、男子学生の手の甲を貫通し、そのまま柱へ突き立つ。


「エッ、……わッ!? ちょッ」


 鴉が騒ぎ立てる中、男子学生が初めて声を出した。

 その瞬間、弐朗の脳内で既視感がばちりと音を立てて弾け、引っ掛かっていたものの正体が記憶の底から浮かび上がってくる。


 清水の寺院、胎内めぐり。

 深く切られた、白く柔らかい指の背。

 ミント色の靴下。

 女子生徒の怪我について説明する、少年の声。


 すぐ近くに居たのだ。


 目の前の眠たい顔の男子生徒は、確かに、弐朗の何人か後に胎内めぐりに入り、出口では真横で靴を履いていた。そして何食わぬ顔で他の観光客に状況を説明しながら、弐朗が女子生徒に治療を施すのを眺めていたのだ。

 その面の皮の厚さと舐め腐った振る舞いに、弐朗の腸が煮えくり返る。


 手の甲に刺さった黒刃を抜こうと、男子生徒が棒を持つ手で俄雨を握る。

 弐朗はそのタイミングを狙って大きく手を引き、俄雨の刀身を前後に伸ばした。伸びた刃先は更に深く柱に突き立ち、刀身を握った男子生徒の手の平を浅く切る。

 男子生徒が反射的に手を離せば、持っていた棒が乾いた音を立てて石畳に落ちた。


 弐朗は残り数段の石段を蹴って跳び上がり、俄雨を握る手を大きく振り被る。


「うわッ!? まッ、まってまって、待って! ストップ! 下の、襲ってるのやめさせるから! とめるって! いや、俺別にあんたらに用があるわけじゃー…ッ!」


 男子生徒が慌てた様子で手を振っている。

 弐朗は「遅ぇんだよクソ野郎!」と脳内で罵りながら、俄雨を強く握り込みそのまま腕を振り抜いた。

 男子生徒に突き立てるつもりだった刃は、握り込む自身の掌を切り、代わりに拳が男子生徒の頬にめり込む。


 鈍い音がした。


 殴り飛ばした勢いを以ってしても、男子生徒の手の甲を貫いて柱に深く突き立った俄雨が抜けることなはい。

 男子生徒はそのまま柱に頭をぶつけ、もたれるようにずるずると崩れ落ちた。

 殴った拍子に歯で口内を切ったのだろう。男子生徒の口端から血の混ざった唾液がぼたぼたと零れ落ちる。

 何度か小さく痙攣を繰り返した男子生徒は、少しの間をあけ、片手を柱に縫い止められたまま白目を剥いて気を失った。

 

 弐朗は男子生徒の頭頂部を見下ろしつつ、しまった、と呟いた。

 石段の下からは、未だ、怪鳥が暴れる大きな羽音が聞こえてくる。


「アレやめさせてから気ィ失えよなッ、このクソミント!」


 男子生徒は「やめさせる」と言ったが、それを実行する前に殴ったのは他の誰でもない、弐朗だ。

 弐朗は自分の不手際は棚に上げ、石畳で失神している男子生徒のミント色の靴下を罵りながら地団駄を踏んだ。

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