23【狐社】八

 弐朗が有り難いご神水を拝受はいじゅして野点傘のベンチに戻ると、そこには唐丸と刀子が仲良く並んで座っていた。


 唐丸はご神水で淹れた珈琲を飲みつつ、刀子の一方的なおしゃべりに張子の虎の如く無心で頷いている。

 弐朗が鴉を片手に掲げて「そろそろ行くッスか」と声を掛ければ、唐丸は胡乱な目を、刀子は丸く見開いた目を向けてくる。


「……行くんか。もう行かなあかんのか。て、あれ。自分、どっか怪我しとん? 袖口、血ィついとる」


 唐丸に指差され、弐朗は手元を確認する。

 確かに左手首、白いパーカーの袖口が血で汚れている。


「いや、別にどこもやってねッスけど。あ、これ鴉の血か? 石投げたからなァ。妙に大人しいし、打ちどころヤバかったのかも」

 言いつつ弐朗は目の前に鴉を持ち上げ、まじまじと観察した。

 鴉は死んではいないが、暴れることもなくひたすら大人しい。石を当てたのは頭か胴だったが、そのどちらからも出血はない。

 が、よくよく見れば、木の枝のような足首に細い切り傷がある。紙で切った時のような、薄く浅い傷だ。そこから滲み出た血が、持ち運んでいる際に弐朗の袖に付着したのだろう。

 座っていた刀子も立ち上がり、弐朗がぶら下げる鴉の尻を触りながら「うもう! うもう!」と大いにはしゃいでいる。

 弐朗は刀子に「持ってて」と鴉を預け、先ほどボディバッグに突っ込んだばかりの滝水入りペットボトルを取り出した。

 傷口を確認するにしても、治療するにしても、まずは洗わなければならない。

 この社のご神水は延命長寿、健康全般に効果があるという。ならばここで使わずしてどこで使うのか。


 弐朗は刀子が胴を持つ鴉の足を引っ張り、傷口に滝水を掛けてやる。


 傷口に水が触れた瞬間、じゅ、と音がした。

 熱したフライパンに水を入れた時のような音だ。


 途端に手元が水蒸気に覆われ、それまで大人しかった鴉が激しく暴れ始めた。

 鴉が刀子にくちばしを向けるのを見た弐朗は、思わず鴉の横っ面を引っ叩き、地面に叩き落としてしまう。

 鴉は地面に落ちると一頻り喚いたが、すぐに羽をばたつかせて体勢を立て直し、一目散にその場から飛び去って行った。


「おわ……、な、なんなん。びっくりしたぁ。え、まさかお湯掛けたん?」

 真横で見ていた唐丸は呆気に取られて仰け反っている。


 弐朗は刀子の手を取って怪我がないか確認しながら「そこの滝から汲んだ水ッスよ!」と否定し、片手に持つ蓋の開いたペットボトルをまじまじと見る。

 あの残念な滝から水を汲んだのは自分だ。

 水に何も細工していないことは自分が一番わかっている。

 なら、鴉のほうに何か問題があったのか。


「お湯じゃねえよなァ?」

「おみずだねえ。からすさん、じゅわって。じゅわって」

「してた! 湯気っぽいのも出た。あの鴉が熱かったとか?」

「ううん。なまあったかかったけど、あつくはなかったです! よずみせんぱいへの供物くもつ、にげちゃった。おいかける?」

「ンー、ついでで捕まえただけだし、いいや。報告だけするわ。とりあえずトーコ、怪我ねえな?」

「ないです!」


 「五体満足です」と大の字で無事をアピールする刀子に「ならばヨシ!」と指差し確認を返していれば、弐朗の制服のポケットでスマホが必殺仕事人のテーマを鳴らす。


 この着信音を設定している相手は一人しかいない。

 ヨズミだ。


 弐朗は「とりあえず先進もうぜ!」と刀子に声を掛けてからスマホを手に取り、「はい! 弐朗ッス!」と元気よく応答する。

 弐朗が歩き出せば唐丸ものろのろと立ち上がり、社に居た虎之助も合流し三人で後ろをついてくる。虎之助が「唐丸さんまだついてくるんですか」「無理しなくていいんですけど」と若干迷惑そうに呟いているのが聞こえる。


『うん。私だ。とりあえずキミは無事そうだね。他の二人はどうかな?』

「ウッス。色々あったんスよ。また鴉に襲われたり、例の怪鳥っぽいのと遭遇したり! でも俺含めて全員大丈夫ッス。あ、あと、なんか怪鳥追っかけてる一般の人も途中から一緒になって。ゲーム実況やってるto-maさんって人ッス」

『ゲーム実況? 嗚呼、ゲームのプレイ動画を投稿している人たちか。有名な人なのかな? そっちも気になるが、先に伝えておきたいことがある。今キミたち、どの辺りに居る?』

「今ッスか。えと。稲荷神社の、なんか健康とか長寿にご利益ある社ッス。茹で卵食べれる。そこから更に頂上目指して歩き中で」

『なるほど。わかった。じゃあ、やはり頂上だ。先程から、稲荷神社の頂上付近に大きな気配が留まっている。酷く目障りなー…、灯台、いや、明滅状態というか、これは昨日も掴んだ気配だな。消えたり、現れたり、隠密のオンオフを繰り返しているようだ。キミたちが怪鳥に遭遇したというなら、頂上に居座っているのはかもしれない』

「エッ!!?」


 弐朗は思わず大きな声を上げ、慌てて口元を覆う。

 スマホを耳に当てたまま後ろを振り返れば、三人が揃って弐朗に視線を向けてきている。

 弐朗は少し悩んだ後、「トラ、ちょっとこっち!」と手招きして虎之助を近くに呼んだ。


「なんですか。通話相手、ヨズミ先輩ですよね」

「そう! つか、先輩が、今から上がる頂上に、さっきの怪鳥がいるかもって言ってんだけど」

「はあ。始末ですか。また捕獲しろとかそういう注文ですか」

「お前動じねえな? 話早くて助かるけどさァ。待ってろ、確認すっから!」


 弐朗がすまほに向かって「先輩、今トラにも伝えたんですけど、」と伝えれば、ヨズミは『聞こえていたよ』とからから笑い、続ける。


『まずはそれが何か見極めてくれるかな。それが人を襲うようなら、可能なら捕獲、無理そうなら処理してくれて構わない。可能なら人払いをー…、嗚呼、それは此方の御大にお任せして良いそうだ。一般人は入れないよう、頂上付近に結界を張る根回しをして下さるらしい。今、一般人と一緒にいると言ってたが、ええと、ゲーム実況動画の……ドリムクの名前が「ティ、オー、ハイフン、エム、エー、アットマーク、SPO素材販売放置中」でアカウントが「@tomacom」のto-ma氏で間違いないかな?』

「多分そうッス!」

『ふむ。結構なフォロワー数じゃないか。厄介だな。で、その彼だが。途中で撒くことはできそうかい。キミたちと一緒だと、結界を通れてしまうかもしれない』


 やりとりを隣で聞いていた虎之助が、「走って置いて行けば一発ですよ」と無の顔で言えば、ヨズミが『シンプルでいいね』と何故か爆笑しながら了承してくる。

 虎之助はヨズミの笑い声が収まるのを待って、「というか先輩、」と更に言葉を続ける。

 弐朗は耳元に当てていたスマホを離し、声が届きやすいよう虎之助の顔前に持ち上げてやった。


「お偉いさんが根回しできるんなら、捕獲も現地の人にやってもらったらどうですか。観光客の俺たちが出張る必要ありますか?」

『ん? キミたちがその「現地の人」だよ』

「結界張れる術師が居るんじゃないんですか」

『嗚呼、それは神社の関係者さ。頂上の気配が神社内で無法を働くようなら自分たちで処理もするだろうが、ただだけで手を出すわけにはいかないだろう? そこは信仰の地だ、信者だろうが異教徒だろうがあやかしだろうが、来る物拒まず、門戸は常に開かれている。ただ、敷地内で使い手が襲撃された件には気を揉んでいらっしゃったようでね。だからこうして手を貸してくださるらしい。本来、此方京都の古い方々は人同士のいざこざにはあまり口出ししないそうなんだが、使い手に関しては、自分たちあやかし寄りだということで良くしてくださるんだとか』

「つまり、結界までは張ってやるから後は自分たちでなんとかしろってことですか」

『まあそういうことだ。で、今その辺りで一番頂上に近い使い手はキミたちしかいない。これでいいかな?』


 虎之助は「よくはないですけど」と言いつつスマホを押して遠ざけ、納得のいっていない顔をしている。

 弐朗はスマホの向こうのヨズミに了解を告げ、「私も今からそちらに向かう。無茶はしなくていいよ」と労いの言葉を頂いて通話を切った。


 無茶はしなくていいと言うが、関わらなくていいとは言わないのだ。

 ならば行くしかあるまい。

 言われなくても頂上には行くつもりだった弐朗である。


 弐朗は隣で仏頂面を隠しもしない虎之助の腰を強く叩くと、後方、また遅れ始めている刀子と唐丸に振り返って声を張った。


「トーコ! 今、上のほうで怪鳥っぽいのが出たって! 今行けばいるって!」

「!! なんですと! それはたいへん、いかねばみねばみねるば!」

「急ぎましょう」

「はしらねばとまさん! ささのはたべたべなばあいではないですぞ!」


「えッ」


 弐朗が迫真の演技で走り出せば、刀子も自動追尾ミサイルのようにそれを追って走り出す。両手を前に出し追い立てるようにして走るのは刀子のいつもの走り方だ。

 虎之助は「唐丸さんも早く」とまるで感情の籠ってない声で急かすが、勿論一切待つつもりはない。愕然としている唐丸を置いてさっさと走り出す。


「まッ、ま、待って、そんなん無理、ちょ、置いてかんといて!! おいこら!! うそやろ高校生ども!!?」


 稲荷神社の参道、秋枯れの木々の狭間に唐丸の悲痛な叫び声がこだまする。


 弐朗は「とまさんサーセン」と心で謝罪したが、振り返ることはしなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る