16【狐社】一


 阿釜弐朗の朝は早い。


 弐朗は平日休日問わず、スマホに設定した目覚まし時計が鳴ると同時に起床する。

 目覚めはすこぶる良く、寝惚けることも殆どない。どんな状況であろうと覚醒と同時に跳ね起きて活動できるのが弐朗の強みだ。

 これだけ目覚めがよければ遅刻とは無縁のようにも思えるが、そんなこともなく、弐朗は普通に遅刻する。起きてからテレビを見ていたり支度に手間取ったり登校時間を勘違いしていたり忘れ物を取りに帰ったりすることで、早起きの甲斐なくまんまと刻限に間に合わなくなるのだ。


 五時四十五分に設定したアラームが数秒も鳴らない内に素早く止める。

 弐朗は見覚えのない天井を見上げて何度か瞬きしてから、すぐに「嗚呼、修学旅行だ」と思い出し、身体を起こしてわしわし頭を掻いた。

 周囲には小豆色のジャージを着たクラスメイトが四名、布団を剥いだり毛布を足元に押しやったりしながら思い思いの体勢で眠っている。

 そこに刀子の姿は無い。

 弐朗は昨晩から続く納得のいかなさを持て余しつつ、のろのろと朝の支度を始めた。


 昨夜、弐朗は普通にホテルへ帰った。

 刀子はあのまま旅館に泊まっている。

 弐朗は自分も刀子と一緒に泊まる気満々で居たが、ヨズミに「じゃあ刀子クンはこちらで預かるから、キミはホテルに戻って先生方に事情を説明しておいてくれるかな。朝には返すよ。団体の動きやロビーの様子を確認して、戻るのに支障無さそうであれば連絡を入れてくれ」と言われてしまえば、「旅館に泊まる」という選択肢は残されていないも同然だった。


 用を足して顔を洗い、歯を磨く。寝起きの髪はいつも通り、毛先があちこちに跳ねてまとまりそうもない。まだ同室の面子は誰も起き出す様子がないのを確認してから、弐朗は小豆色ジャージのまま部屋を出た。

 ロビーの椅子に座りながらスマホでグループメッセージを送れば、少ししてヨズミから「わかった」という短い返信と、刀子から「おはよう」の文字が入った気味の悪いオブジェが揺れているスタンプが送られてきた。虎之助は寝ているのか返信する気がないのか、安定のスルーだ。

 朝六時台のロビーはまだ出て行く客も少なく、全体的に人の気配が薄い。忙しなく動いているのは従業員だけなのだろう。少し離れた宴会場で朝食の準備をしている音が聞こえてくる。朝食は確かバイキング形式だった筈だ。和食と洋食どちらをメインに皿に盛るか考えながら、弐朗はスマホゲームのデイリーをこなして小一時間ロビーで刀子を待った。

 朝食時間ぎりぎりにホテルに帰ってきた刀子は、ジャージ以外はきっちり支度を整えていた。

 七時開始のバイキングでは、寝癖頭の担任、宇田が「ローストビーフあるといいな。一人何枚までいけるかな」と生徒以上に浮かれていたが、残念ながらお目当てのものはなかったらしく、代わりのようにカニカマボコを幾つか皿に盛っていた。

 朝食を済ませた後は各々部屋で制服に着替え、いつでも出られる準備を整える。

 八時十五分に全クラス揃ってホテル前の駐車場に集合。

 学年主任から本日の旅程について細かい説明を受けた後、クラス毎にバスに乗り込み、二日目最初の目的地、伏見ふしみの稲荷神社に向かう。


 今日も今日とて窓側の席を刀子に譲りながら、弐朗が「旅館どうだった?」と刀子に問えば、刀子は「たのしかった!」と両手を顔の前で開きながら満面の笑みで答え、何がどう愉しかったのか身振り手振りを加えてダイナミックに昨夜の出来事を聞かせてくれる。

 それを聞きながら、何故自分はそこに居なかったのかと悔やむ一方、刀子が愉しめたならそれでいいかという安堵感もある。

 今夜は食い下がって俺も旅館に泊めて貰えばいいだけの話だし!

 虎之助が嫌がろうが無理矢理泊まってやるんだと意気込む弐朗を乗せ、団体バスは紅葉こうようの京都を緩々進む。


「泊まりたきゃ泊まればいいじゃないですか」


 約九時間ぶりに顔を合わせた後輩は、弐朗の予想を裏切り、興味の無さそうな顔でそれだけ言って話を終わらせた。


 クラスの集合写真を終え解散した後、弐朗と刀子は稲荷神社の敷地内で、合流予定の後輩、端塚虎之助を探した。

 ドリムクのメッセージは既読スルーの虎之助も、電話を掛ければ渋々出る。

 電話に出た虎之助は私鉄の最寄り駅から神社に向けて移動中だったらしく、弐朗が「コンビニ正面から鳥居ふたつくぐった先の手水舎ちょうずしゃに居るから」と告げれば、電話を切って十分足らずで姿を現した。

 弐朗は白いパーカーの上に制服を着込み、ワッチキャップ、ボディバッグ、足元は履き慣れたワークブーツ。刀子は今日は制服の上から黒のカーディガンを一枚重ね着し、がま口ポシェットにハイカットスニーカー。虎之助はワイシャツの上に制服、鞄類は持たず手ぶらで黒地に白のラインが入ったスニーカーを履いている。

 三人とも、いつもと変わらない恰好をしていた。


 弐朗が開口一番「今日は俺もお前らの旅館に泊まるからな!」と宣言したその回答が、肩透かしな「泊まりたきゃ……」である。


 虎之助は手水舎で手を洗い、軽く振って水を払ってから目の前の石段を登り始める。

 弐朗と刀子は既に手水てみずは済ませていたため、それを追うように虎之助を両側から挟んで歩きつつ「今日はあんま機嫌悪くねぇの?」だの「おなかいっぱいでみたされてるの?」だの「美味いモン食えたか?」だの言いたい放題言う。

 すると石段を登り切ったところで虎之助が振り返り、頭一つ分以上低い位置にある二人の脳天を見下ろして言うのだ。

「朝から鬱陶しい家族の顔見なくて済んで清々してるっていうのはありますけど。先輩たちがそれ続ける気なら、煩わしいんでやめてもらっていいですか。時間限られてるんでしょう。さっさと観光始めたらどうです。まずどこ行くんですか」

 虎之助の尤もな言葉に刀子は「たしかにたしかに!」と頷き、弐朗のボディバッグを勝手に開け、中から折り畳んだ冊子を取り出して広げながら言う。


「かぎりあるいのちをたいせつにしなくてはですからね。われわれは表参道をあるいて、いまはここ、外拝殿のまえにたっています! おくにみえるのが本殿です。まずは本殿で御賽銭をうち、おとなりの授与所でおまもりなどをかいましょう! ひとつめの御朱印ぽいんともここです。そのあとは「これぞ京都!」な、たくさんの鳥居をみにいきます! ずぁっとならんでるやつです。そしていしをもちあげるちゃれんじをします! もちあげたときにおもったよりもおもいかかるいかで、ねがいごとがかなうかどうかわかるそうです! ここにふたつめの御朱印ぽいんとです。あと、べつの神社だけどかっこいい龍の御朱印もいただけます! そのあとはおやまのてっぺんをめざしてひたすらのぼります。とちゅうでみっつめの御朱印ぽいんとがあるのと、ごりやくありそうなおやしろがたくさんあるので、それらをぜんぶちぇっくします。おめめの神社におくすりの神社、こぎつねまるゆかりの神社! どれもいかねばならぬ。もちろん、御神水でゆでたありがたいゆでたまごもたべます!」

「全部見て回るのにどれぐらい掛かるんですか」

「われわれのあしならがんばれば一時間半! いけるとおもいます! いまが九時でー、十一時には拝殿まえにしゅうごうなのでー。二時間あればよゆうですとも」

「むしろ一時間で踏破してやろうじゃん? 地獄の親父キャンプで鍛えた足は伊達じゃねぇってな! そうと決まればまずは授与所だ! 行くぞ!」

「われにつづけ! ふぉろみー! わー!」


 弐朗が刀子の背をぽんと叩けば、刀子は螺子を巻き終えた人形のようにいきなり走り出し、本殿に賽銭を打ち込んでそのまま授与所へと突撃して行く。

 弐朗も走ってそれを追い掛けるが、虎之助は授与所には用がないのか、急ぐ様子もなく本殿の賽銭箱に五円玉を放り投げてバチバチ柏手を打っている。

 弐朗が刀子に追い付いた時、刀子は観光客でごった返す授与所の前、少し離れた場所に立ってはいたが、視線は更に奥の鳥居へと向いていた。


 何を見ているのかと弐朗も横に並び、刀子の視線の先を追う。


 狛狐に赤い鳥居。紅葉の隙間から差し込む、午前の眩しい日差し。

 その先にある石段の上から、オリーブ色のモッズコートを着た女が大きく手を上げ、こっちにこいと手招いていた。

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