28【狂狗】二

 弐朗の視線の先、斜め後ろで、ブレザーの少年が背中を向けて屈んでいる。

 そしてその少年を飛び越えるようにして突っ込んでくる、大型の黒い狂い。


 少し離れた場所では、抜刀したヨズミと虎之助が驚いたような顔をしている。


 弐朗は咄嗟とっさに女生徒から手を離し、体勢を整えようとするのだが、腰に差した白鞘の太刀が邪魔で動きがもたついてしまう。

 どうにか太刀を抜き取りはしたものの、自身の血刀を抜刀する間もなく狂いに飛び掛かられ、弐朗はそのまま勢いよく背中から押し倒された。

 玉砂利が跳ねる。衝撃に息が詰まる。

 すかさず喉笛に食い付いてくる狂いに、弐朗は片手に持ったままだった白鞘を横に構えて噛み付かせる。狂いはくわえた白鞘を奪おうと顔を引き、弐朗は柄と鞘を両手で掴んで抵抗する。

 少しだけ息が吐けた。

 その一瞬に、弐朗は目だけを忙しなく動かして状況を確認する。


 刀子は女生徒の肩を押して弐朗と狂いから距離をとっている。

 ヨズミからは「そのままだ、弐朗クン!」という指示。

 それとは別に、初めて聞く声が「太刀から手を離すなよ、持ってかれる!」と叫んでいる。


 近くで見れば、狂いは口しかない犬のようななりをしていた。

 最早人の原型は留めておらず、弐朗が分離を試した青年の面影は微塵みじんもない。

 その体長は弐朗の倍、三メートル以上あり、し掛かってくる身体はずしりと重い。俄雨で縫合して一時間も経っていない肺の継ぎ目が、ひちひちと聞こえる筈のない音を立てている。

 顔の真上で、狂いが白鞘を噛んだまま大きく頭を振るう。

 堪える腕の、関節が軋む。


 噛んでいるのは鞘だ。

 なら、鞘を噛ませたまま抜刀して、刃をこいつの横っ面から突き刺してやるか?

 錆前を折った太刀だ、狂い相手でもそれなりにやり合えるんじゃ?


 弐朗は思いつくまま柄を掴む右手を横に引いて抜刀しようとするが、どういうわけだか太刀は全く抜ける気配がない。まるで溶接でもしてあるかのように固く、金属の触れ合う音すらしないのだ。

 太刀を白鞘に納刀したのは弐朗であれば、納めた時の状態はわかっている。自分達の血がついたまま納めた所為で、血が固まっているのかもしれない。が、それにしてもこれほど強固に抜けないものかと、疑問も湧く。

 いずれにせよ抜けないのであれば、せめて奪われないようこのまま押し合い圧し合いを続けるしかない。


 弐朗は両腕に力を込め、足で狂いの腹を押し上げながら、太刀から手を離してなるものかと必死に抵抗する。

 暴れる狂いの口から血混じりの唾液が零れ、弐朗の顔に掛かる。腑中の酸味や腐物のい混じる臭いに込み上げるものがあったが、根性でそれを飲み下し、弐朗はヨズミの言葉を信じて「そのまま」を維持することに徹底した。


「先輩、動かないで下さいよ」


と、今度は聞き馴染んだ後輩の声が頭上から降ってき、弐朗は視線を上げようとしてー…すぐに目を閉じた。


 顔の上から大量の赤い液体が降り注いだからだ。


 弐朗は目を閉じ、口も閉じ、呼吸を止めてただ硬直したまま白鞘を掴んだ手を上げていた。


 温度のある粘ついた液体が顔を伝い、耳、顎、鎖骨へと落ちていく。

 帽子を被っているため髪の大部分は守れても、はみ出ている分はことごとく浴び、不快に顔面に張り付いてくる。

 すぐに、胸の上にどちゃりと重い固まりが落ちた。

 次いで身体全体を押し潰すように分厚いものが覆い被さってくる。


 弐朗は思った。

 あ、これ、肺ちょっと傷口開いたな?

 トラの奴、俺の真上で狂いの首、叩ッ切りやがったな?


「派手にやったね、トラクン!」

「……ヒッデェ。せめて横に落としてから切るとかすりゃいいのに」

「そんな余裕なかったんで。……ところでアンタ誰ですか」

「あー…」

「とーこはぴんときました! そのぶれざー、こちらののぶしこさんとおなじでざいんとおみうけします! いいなー、とーこ、せーらーもすきだけどぶれざーもきたかったなー。おにいさんはのぶしこさんのおともだちだー?」

「ノブシコ? 嗚呼、野武士、ね。はいはい。で、潰されてる帽子の奴、助けなくていいんですか。固まってますけど」

「おっとそうだった。トラクン、退けてやってくれ。というかキミ、右手折れてるじゃないか。だから左手で応戦してたのか。私は今から掃除屋に連絡するよ」

「……まさか。あの人ですか」

「そうだよ。ポロクンを捕獲した時にも近くにきててね、彼。キミたちとは別のグループで通話してたんだが、「仕事ができたら呼んで下さりやがれ」って言っていたから。玉砂利の下まで染み込んだ血を自分たちで洗い流すのも手間だし、お願いするとしよう。儲けさせてあげないとね。持ちつ持たれつってやつさ」

「ところで、こいつの腕ェ……」

「こちらです! とーこがもってます! 勇者さまご一行をつかんではなさない、みわくのはんどくん甲と乙です! ぱぴっとまぴっと!」

「安心したまえ、くっつければ元通りさ。そこで提案なんだが、キミ」

「……はぁ」

「いざ尋常に、腹を割って話そうじゃないか! 包み隠さず正直に話してくれるなら、キミたちが誰であれなんであれ、彼女の腕は元通りに治すと約束しよう。今度は断らないね?」

「……静岡のお茶ってやつ、まだついてきます?」

「つけるよ、勿論。金箔の乗った羊羹ようかんもお出ししよう」

「おー。だってよ、さわら。金箔の乗った羊羹とか、お前食ったことある?」

「いえ、ないです」


 弐朗は生ぬるい狂いの屍骸に押し潰されたまま、頭上で繰り広げられる会話をぼんやり聞いていた。

 そしてそこで初めて、自分たちとやり合った野武士のような女生徒の名前を知った。


 虎之助が弐朗の上から屍骸を蹴り落とし、胸の上に乗っている首を持ち上げる。

 そこから何本か歯を引っこ抜きながら「どっかやられたんですか」と声を掛けてきたのは、ヨズミたちの会話が終わった後のことだった。

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