3
「ちょっと待とうか。本当に覚えてない? ハナブサマトイなんてへんてこな名前、早々忘れれるわけないと私は自負しているのだけれど……」
かつて教会で出会った白内障の少女。とは同姓同名の別人、であろう人物。
印象はまるで違っていて、白内障も治っている。ある意味では成長していると言える。緩いワンピースはパッキリとしたスーツになっているし、性格も言葉の足りない寡黙なものからウルサイ程元気と親近感を感じさせようとしたものになり、そういえばよく見ると彼女の掛けている眼鏡は私の眼鏡だった。
つまり窃盗を働くような人間になっているともいえる。
「眼鏡返して下さい。犯罪者」
壁ドンの体制で私の顔を覗き込むように見ている彼女から、眼鏡を取り返そうと手を伸ばす。彼女の掛けている眼鏡は明らかにサイズがあっておらず、よく見ると昔折ったブリッジを黒いテープで無理に補修した形跡がある。
つまり、彼女は私の眼鏡を盗っている。
「おおっと、待ちたまえ。柾君。何か勘違いしているようだが、眼鏡は私のものだよ」
「馬鹿言え。明らかに僕のだ」
私の伸ばした手をするりと躱し、壁ドンの体勢を崩して私から離れるハナブサ、もとい窃盗犯および住居不法侵入罪。ハナブサは至極大事そうに眼鏡を抱えるようにし、私を睨んでくる。
「まあ落ち着きたまえ。不法侵入は、まあ事情はあるが、とまれ眼鏡は正真正銘わたしのものだよ。疑うのは構わないが、よく見てくれ。弦の部分に名前を刻んでいるだろう?」
ハナブサが恐る恐る私の方に眼鏡を差し出し、弦の部分に【AZUMA】と彫り込んでいるのを見せる。
彼女の名前では明らかにない。無いが、私の眼鏡にそんな銘は無い。
「……たしかに、僕の眼鏡じゃなさそうです」
「そうだろう!」
我が意をようやく得たと、上機嫌に眼鏡を掛けなおすハナブサ。サイズの合っていない眼鏡は正位置より若干下がり、本を読む老人が老眼鏡を掛けた様に似ている。実際、彼女は総白髪だ。良い言い方をするならば銀髪ともいえるが、彼女は犯罪者であるのでそんな気遣いは全く持って無用の長物である。
「わかりました。わかりました。もうどうでもいいから、帰ってくれ」
長時間立ち話をしていたせいか、頭に血が昇っていたせいか、若干の眩暈がしている。瞼も下がってきて、彼女の顔をよく見れない。もう、眠い。
「もうひとつ。誤解を解きたいのだけれど」
「ばかやろう。帰れ。即刻帰れ」
再三、ハナブサの胸倉をつかむ勢いで罵声を浴びせかけているというのに、彼女はまったく帰ろうとしない。どころか、私のベッドに腰を据える始末。長居する気が見え見えである。眉間に痛いほど皺が寄っているのがわかる。自分の家のようにくつろぎ始める彼女に、私は苛ついていた。
「まず、不法侵入ではない。合鍵は、お父さんに貰ったものだからね」
現状、信憑性は無いに等しい。テキトーをふかしているだけである。
「次に、私は君と面識があるはずだ。柾は忘れているようだけどね。現に――」
ベッドから重い腰を上げたハナブサは、私の本棚を指して言った。
「――贈った拙作、持っていてくれているじゃあないか。」
フレームの歪んだ本棚、収納された本はまばらで大方が文庫の小説なのに対し、一冊だけ装丁が特に丁寧なハードカバーの本があった。長年手に取りもしなかった本は埃をかぶっており、背表紙を指でなぞるよう拭き取ってみる。
『道標』
紙質の豪華な書籍に、簡素なタイトル。著作に英・纏衣の名前があった。
「は?」
こんな本は、知らない。貰った覚えなんてもちろんなければ買った覚えもないというのに、ずっと前からそこにあったようにこの本はあった。他の文庫と同じような埃の被り方をして、同じようにくたびれている。国語辞典のような顔をして並んでいた謎の本は、曰くハナブサが私に贈呈した自費出版の本だという。
黒々とした装丁に聖書のような分厚さを誇る謎の本。なぜこんな本を受け取っているのだろうか。もしかすると埃はなんらかの偽装で、今入れたばかりなのかもしれない。そもそも、道標とはなんだ。世界の詳細な地図でも記されているのだろうか。もしくは、カウンセラーらしく精神的な意味合いなのだろうか。
「ふふん。思い出したかい?」
彼女は腕を組み、鼻を高くしていた。
一方私は、ともあれ中身を見てみることにした。情報がなにもないと、かえって興味が刺激されるのだ。だが実際には、ただのハリボテだった。頁は捲れども捲れども白紙が続くばかり、最後まで何がしか活字が印字されることすらなく終わっていた。
それ以外の何物でもなかった。
「アナタにはガッカリです。絶対に百十番してやる」
ただでさえ体力のない体を蝕む重さを誇るハリボテを床に叩きつけ、電話を庇うように立ち受話器を取った。今度は止めさせてなるものか、絶対に通報してやる。
「まあ待ちたまえ。その本を侮ってはいけない。君は忘れているようだから教えてあげよう。それは小説でもエッセイでもない、普通の本ではないのだよ」
一方彼女は何ら慌てることはなく、無学な学生を叱る教員のように溜息をつかんばかりに説教を始めた。それが癇に障る。彼女の立場は何ら変わらない。ただ不法侵入を決め込み、あげく私に納得を強いるだけの犯罪者である。彼女は訳の分からない白紙の書を、何か意味のあるように見せようと振る舞っている詐欺師である。
「あたりまえだ。こんなの本じゃない、ただのハリボテだ。映画のセットか何かに使うんですか?」
装丁ばかりか頁に使われている紙すら高級そうである。一枚一枚が分厚い紙は硬く光沢のあるものが使われており、本というよりかはボールペン用のスケッチブックのようですらある。書き込むことが想定されているような、裏写りがしにくいような紙束。
「そういうことじゃあないんだな」
「なるほど、ずいぶんと分厚い自由帳ですね。僕が小学生の頃に貰ったんでしょうか?」
「贈ったのは確かに君が小学生の時だったが、残念、自由帳ではない」
テキトーな文句に同調してくるハナブサ。彼女らしき人物と会ったのは三年前、僕がまだ中学二年生のころである。しかし彼女は、それ以前に面識があったという。明らかに事実とは異なるが、問題はそこではない。どうだって良いのだ。彼女との面識が本当にあろうがなかろうが。
「クイズがしたいわけじゃないんですよ。帰ってくれと、僕は言ってるわけなんです」
「だからその前に、誤解を解こうと言っている訳なんだがね」
誤解などない。
彼女は事実として不法侵入をしている。窃盗は誤解だったかもしれないが、それは揺るがない。たとえ事情があったとて、それすらどうでもいい。
「知りません。仕込みなのか本当なのかは問題じゃあないんだ。僕は帰ってくれと、再三あなたに申し上げているわけだ。それがどうだ。あんたは話をしようと一点張りで、まったく帰ろうとしない。僕が頼んでるのは話し合いじゃないんだ。帰ってくれ、それだけのことじゃないか」
しびれなんて疾うに切らしていた。彼女はぐだぐだと、違う、誤解だ、とばかり言うだけ。帰れと言っても、もう少し良いかい、と閉店時間まで居座る悪質客のごとし。そもそもが不法侵入である。
「―――魔導書だよ。私が贈ったのは。つまり、私は魔術師なのでした」
挙句の途方もない阿呆さ。中身が無いものをどう説明するのか、自由帳を否定し、挙句出てきた言い訳が魔導書である。この本の中に何が書いてあるというのか。何も書いていない。彼女は、あぶない薬でもやっているんだ。
「もう、というか最初から会話の余地なんてなかったわけだけど、もう僕は怒ったぞ。絶対に警察に突き出してやる。人を馬鹿にするのも大概にしてくれ」
「馬鹿にしているわけではないし、警察に厄介になるのもごめんだと私も言っているじゃないか」
言っていない。何が魔導書だ。
「そんなこと知るか。さもなくば帰れ。最悪台所から包丁持ちだしてあんたに吶喊してやるぞ。それくらい怒ってるぞ僕は」
いい加減邪魔されながらどうにか電話を掛けるのも面倒になってきて、強硬手段に出た。というより、脅しただけだが。出方によっては本当にやっても構わないと思っているくらいには、若干錯乱しているのかもしれない。
「証拠を出そう」
「要らないんだそんなもの。なんであんたはそうまでして居座るんだ。あんたと僕に何の関係があるっていうんだ」
受話器を乱暴に置き、いい加減掠れてきた喉で絶叫する。
腹筋が吊った。
「それはだから、カウンセラーだよ」
「だから、帰れ」
押し問答が最初に回帰したところで、もう叫ぶ余力も失った私は絞り出すようにそれだけ言った。
「そう邪険にしないでおくれよ。私は君の為に来たっていうのに」
英纏衣はおチャラけた表情を崩さずに、そう言った。
依然として私を壁際に追い込むように見下ろし、鼻につくような薄ら笑いを浮かべたままだ。彼女の言う病院であったという事実の真偽は私の記憶が不明確な以上確認は不可能であるし、そも彼女の立場は自称の通り一介のカウンセラーである。家主に断わりもなく上がり込んだ挙句、退去命令すら無視。警察への通報を妨害している点から見ても、犯罪行為であるとの認識は持っているだろう。
であれば、私がとる行動も決まり切っているものだ。
「これ以上長居するようであれば、僕にも考えがあります」
忠告は無視され、通報は妨害される。とは言え実力行使するには私は惰弱に過ぎるし、直接交番やらに出向くのも立地的に難しい。
「その前に話を聞こう。私は用件が済めば帰れるんだ」
もはや犯人の要求を飲む飲まないの段階は過ぎ去ったのである。私は彼女の言葉を無視して、覆いかぶさる彼女を突き飛ばそうとした。
「う、うん? どうしたんだい」
力いっぱい押し出すようにして腕を伸ばしたのだが、びくともしない。
ここまで体力が落ちていたと落ち込むべきか、彼女は見た目通りの巨漢だったのだと見ないふりをするべきか。当の本人は自分の胸を触られたことに疑問符を浮かべていた。踏ん張って耐えたとか、そういうことではなく。
「私の胸はそう無いと自負しているけれども、君は大胆だね」
意図とは違うが、彼女は壁ドンの体制を崩し後ろへ下がってそう言った。
私としては何故女性に対して胸を押すという行動をとってしまったのか、彼女の胸が無いこと以外の原因を探ろうとして、やめた。
単に、何も考えていなかったのだろう。私は彼女が恥ずかしがる演技をして言った揶揄いに、特に何も返すことはなかった。
当初の目的通り、彼女を残して自室を脱出。
外から鍵を掛けて、閂で扉を開けられないよう塞ぐ。帰らないのであれば、逆に閉じ込めた後安全に警察を呼べばいい。問題は自室にしか電話機が無い事だが、これは仕方ない。自転車で隣町まで行こう。窓は開けっ放しなので、もしや警官を連れて帰った時には逃げてしまっているやも知れないが。
どうやって部屋の外に追い出すかを考えるよりかは、手間は掛かってもやりやすい。
しかし、閂を掛けた部屋からは物音ひとつしない。
それが逆に不気味でもある。追いかけようという気配が全くなく、声を掛けてくる様子もない。部屋には誰も居ないようにしんとしていて、もはや警察に行く意味すら危ぶまれる静けさである。
では幻覚でも見ていたのか。それはないだろう。
私は玄関を出て、裏手にある駐輪場へと向かった。
「自転車なんて何年振りだろう。空気抜けてるかも」
悠々と駐輪場へ歩く最中、突然屋敷の窓が破れ何かが落ちてきた。
部屋的には私の自室がある窓である。まさかと思い、落下地点へ目を向けた。
「ふぅ、どうした柾。買い物かい?」
某ホラーゲームのイケメンエージェントばりの立ち回りで窓を突き破って着地を決めたハナブサが居た。肩に掛かったガラスを手で掃いつつ、こちらに向かって歩いてくる。
「嘘だろ。主人公かよ」
「違うよ。主人公は君さ」
ア〇パンマンみたいな口調で危ない目つきの白髪女が向かってくる。恐怖だ。
「ここまで強情だとは知らなかったな。こうなると私も強硬手段に出ざるを得ないのだが」
彼女は先ほどまでの声のトーンを幾分か落とし、鷲のような眼でこちらを睥睨した。
徐に伸ばされた掌が私に向けられる。
手に纏わるオレンジ色の光が、彼女の握りこむ動作に霧散した。
「纏わり、固まれ」
痛みはなく、ただ私の意識が突然に強制終了した。
金木犀の灯り 白木兎 @hakumizuku
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