最近自堕落な生活を送っている自覚があった。

 無意味に寝だめを続けている。

 一日中寝ては、食事をとって歯を磨き、風呂場でアベマリアを一回熱唱したのち、また布団へ戻るという生活。

 もはや生活と呼べるものではない。

 雨戸の嵌められた窓からは陽光が射すこともできず、二十四時間真っ暗な家の中を薄い青色の豆電球が照らしている。

 外は灼熱が占める夏場真っ盛りだったが、僕は冬眠する熊のような気分だった。

 締め切られた家の中ではクーラーがガンガンに効いており、冬のような寒さを誇る。

 地球温暖なんのその。叱ってくれる親も姉も、誰も居ないのである。

 食事に関しては自炊はもちろん、コンビニに買いに出かけることすらしない。定期宅配サービスを利用している。

 料理と呼べるのか疑問だが、する事と言うと米を炊くぐらいのものである。

 あとは届いたものを解凍するだけ。

 今日はミネストローネなので、お米は炊いていない。

 それに最近、胃もたれが酷くなってきていた。

 日に日に摂取できる量が減ってきている。お残しは流儀に反するとか考える余裕すらなくなってきた。一ヵ月毎の定期宅配の量を半分に減らして貰った。米なんか一合炊いただけで三日もってしまっている。

 異常に、体力が落ちてきている自覚はあった。

 風呂場でシャワーを浴びている最中、シャワーヘッドを取り落とした。拾おうとする腕は、オーバーワークのごとく震えていた。

 僕はなんの抵抗もなく、もうそろそろ死ぬんだな、と思った。

 思っただけ。なんの感情も発生しなかった。

 ここは、ゴミ箱だ。

 社会に適応できなかった人間の行く末。要らないと言われた人の辿る先。

「上等じゃないか」そう思った。

 綺麗なベッドに、涼しい部屋、誰の干渉もない暗闇の中、針の折れた時計だけがカチカチと音を鳴らしている。要らなくなったものが、死ぬための場所。

 非力な腕に目いっぱいに力を籠め、ベッドマットの隙間に入り込んだ。

 心地良い圧力が加わって、気絶するように眠りにつけた。



 久しぶりに、夢を見た。

 疲弊した脳には、もはや夢を見せる気力なんて残っているとは思えなかった。

 これは走馬灯なのだろうか。

 両手が紅く染まっている。目線から手を逸らすと、男が倒れていた。

 彼は巨漢で、金髪で、側頭を刈り上げていて、中央ラインの髪を立てていて、学校指定のブレザーにヤンキーっぽいあれこれを足していて、血だまりにうつ伏せになって倒れていた。血だまりは僕の足元までぽつぽつと続いており、足元の小さな血染みには、刃の折れたカッターが転がっていた。

 記憶が鮮明に蘇ってくる。このあと僕は、足元のカッターを拾いあげ、そのあと。


 巨漢の奥には校舎の階段が見えた。

 校庭の方を見ると空が夕焼けに沈んでいる。カラスが鳴く。風の音に乗って、繰り返し繰り返し僕を馬鹿にするように鳴いていた。姿は見えない。

 視線を巨漢に戻すと、校舎の方に人影が見えた。

「おはよう。まっちゃん」

 小学三年生くらいの少女が見えた。名前は友美ちゃん。僕にいたふたりの友人、そのひとりだった。

 時刻は夕刻で、目の前の彼女は年を重ねていない。

 そこにいる彼女は、あんな朗らかに笑っているはずがない。

 葵がいなくなってからの僕らは、自然に遊べなくなっていた。僕らは、葵一人が繋いでいたのだと思う。どう接すればいいのか分からなくて、自然と距離を置いた。

 顔を合わせることから逃げ、心を明かせないまま、自分勝手に孤絶に耽った。

「おはよう。正くん」

 ぞくりと冷たい水に浸かった様な感覚がして、背後から声が聞こえた。

 反射で後ろを振り返ると、校舎が暗闇に消えた。

 そこには、ただただ暗い世界が広がっているように見える。

 黒い雲に黒い空、陽光は最初から存在せず、仄かに輪郭が見え隠れする。

 膝元まである池が広がり、ウユニ塩湖が反転した世界のようだった。空は高く、足元の見えないこの池も、永遠と続いているようにみえる。

 彼女はどこへ行ったのか。なにもわからない。

「ねえ。最近冷たいよね。酷いよ正くん」

 また背後で、声が聞こえた。

 僕はその場から動けなくなった。振り返ることが出来ないまま、足元の異変に気付いた。脛に冷たい何かが這ってきている。ウツボのような、タコのような、なにやら柔らかな感触がした。それが何か確認しようにも、水の中は暗く僕には何も見ることはできない。ソレは段々と上の方へと張ってきていることしか、わからない。

 水面から何かが伸びてくる。

 ゆっくりとした速度で伸びてくるそれは、木の根のように見えた。あるいは、長く伸びた人の指かもしれない。それは足に絡みつくように這い上がってき、腰辺りに来ると急に動きを止めた。

 痛くはない。木の根のような見てくれの割には、優しい感触で、ほんのりと温かかった。

 でも、足はまったく動かなくなってしまった。股関節がぴくりとも動かせない。

 よくわからないが引きはがそうと、慎重を期しつつゆっくりそれを両手で掴んだ。

「嘘つき」

 すると途端にソレは燃え上がった。

 焼き肉の焦げた匂いがした。痛くはないが、皮膚が焼け爛れていくのが見える。ふわふわと焦げが水面に浮かんできて、脚は赤みを露出し始める。

 どういうわけか、池に浸かっているのに火の勢いはまったく弱まらない。

 ごぼごぼと二酸化炭素を吐きつつ、それは水中だろうと勢いよく燃え上がった。

 気づくと、空は紅く染まっていた。黒い雲の隙間から、紅い光が射している。水は赤く変色していた。

 僕の脚は真黒に炭化して、股関節から崩れ落ちた。

 体が前に倒れ、赤い水に沈む。

 脱力した顔からは容赦なく赤い水が鼻や口に侵入する。あまりにリアルな不快感と息苦しさに眩暈がする。肺の空気は完全に池の水に入れ替わり、瞼は閉じたまま開かない。水中の音が良く伝わってきた。

 池の上では、誰かが叫んでいる。

『―――――』



 時計の鳥が正午を鳴いていた。

 冷たく音のないコンクリート壁に囲まれた密室で、音の外れた笛の音がオルゴールの伴奏と共に反響し、それは騒音と化している。

 耳に悪い昼の知らせが鳴りやむのを待って、頭を覆っていた枕を除けた。ベッドの上で横臥したまま、視界が暗闇に慣れるようじっとしていた。

 寝起きはいつも通り、悪い。

 じんじんと痛む耳鳴りのせいでもあるが、このところずっといくら寝ても寝足りない。かと言い欲望のままに寝続けていると耳鳴りの比では無いしっぺ返しを食らうので、否が応でも起きるしかない。

 いつもより気分が悪かった。覚えていないが、また夢を見た気がする。

 目をこすりつつベッドから起き上がって、廊下へ出た。

 狭い丸天井の廊下をゆっくり散歩するように歩き、階段を下りた先にある浴室の扉へ手をかけた。

 よろける足取りで洗面所まで向かい、歯磨きコップを手にとり蛇口をひねった。なみなみと注がれたぬるい水で口を湿らせ、一気に飲み下す。乾いた唇からは血の味がした。

 ついでに歯を磨いて、これまたついでに風呂を沸かさずに浸かった。

 夏場の風呂は生ぬるく、なんだか奇妙な感覚だ。

 そういえば風呂場で眠くなるのは、じつは気絶なんだとか。

 ふと、鼻の中から水が浸入する不快感で意識がはっきりと覚醒した。

 どうやら一瞬気絶していたらしい。

 風呂をあがり、冷水シャワーを浴びて目を覚ましてから風呂場を出て、自室に戻る。

 よぼよぼと自室の扉を力いっぱいに引くと、僕のベッドに白い人影が見えた。

 丸一日薄暗いこの部屋で、誰が居るのか全く見当がつかない。目が疲れて、とうとう幻覚でも見えてしまっているのだろうか。目の前で掌を振ってみるが、たしかにそこに誰かが居るようなのである。

「誰か、そこに誰かいるんですか?」

 声を出してみる。ベッドに座った何者かが、徐に立ち上がったように見える。

 白い陰は僕と同じ背格好ほどに伸びて、顔の辺りにどうにか丸眼鏡を発見した。たしかに誰かが居るようである。

 じっと見ていると、白い陰は窓の方へ歩いて行った。

 窓を開け、雨戸を外し、陽光を取り入れた。

 もう半年ぶりになる日射光線に眼が焼かれ、視界は白く染まった。


「やあ少年。昼まで寝てるなんて、ぐーたらですよ」


 白い世界に、そんな女性の声音が聞こえてきた。



「久しぶりです。柾くん、マトイです。英纒衣です。ご無沙汰ですね」


 どこから侵入したのか。やけに浮ついた女性が、長らく閉じられていたカーテンを解き放っていた。名前にも聞き覚えが無い。

 しばらくすると眩しさが次第に薄れ始め、視界は明るさに慣れだしてきた。

 いつ振りかの日射光に目の奥がじんじんと痛む。

 痛みから目頭を揉みながら眼前にいる人物のことを観察していると、どうにも珍しい容貌がはっきりとしてくる。

 透き通るような総白髪のセミロングヘア、オフィスレディのようなパッキリとした白ブラウスに黒のタイトスカート。そして素脚を露出させており、裸足である。なにより胸元の花の刺繍がどうにもださい。

 髪の毛は染めているわけではないのだろう。眉毛睫毛まで白く、なにより艶がある。眼球は薄茶色といった具合で、瞳孔はもちろん黒い。

―――黒いのだ。

 ふと数年前の記憶が掘り起こされる。



 入学初日に早々ちょっとした事件を起こした私は、数か月ほど精神療養のために学校を休学し施設で入院していた。なんでも外出を許可できないほど容態が悪かったらしく、私はほとんどの時間を施設に拘束されていた。

 窮屈で人の目の絶えない個室に置き去りにされ、私はすぐさま遁走した。

 父は私が幼いころ離婚し行方が知れず、母は私が小学校の卒業式直前に倒れた。今は叔母の家に居候をしていたが、帰ったところで連れ戻されてしまうだろう。

 仕方なく、私は母方の実家に匿ってもらおうと都護島に向かった。お金がないので渡船が利用できず、徒歩でくたくたになりながら大橋を渡った。それから四時間程度歩いたところで、祖父母宅に着いた。

 祖父は厳格な人だった。刀鍛冶なんていうどこに需要のあるのかよくわからない仕事を今の時代も存続させ、弟子も五、六人取っている。母はおっとした女性だったが、祖父は苛烈の一言だった。だから、母は祖母に似たのだろう。私が事情を話すと(少々曲解してはいるが)、すぐに匿ってくれることになった。


 そして事態が収拾した、中学一年生の冬頃の事であった。

 私は父の別荘に一人暮らしすることになっていた。姉と名乗る不審人物からの手紙が届き、なぜか家を貸してもらえることになったのだ。なんなら仕送りまで来るようになっている。その頃私は祖父に雑用を任されるのが嫌になっていたので飛びついてはみたが、だんだん怖くなっても来た。

 自炊にも慣れ、掃除のサボり方を覚え始めた頃、言い知れない不安感を抱えながらも私は今だ学校へ行く気概が起こらなかった。

 週一回ほど家に担任が学校終わりに訪れるようになった。一人暮らしで誰も対応してくれないので話してみたが、どうにも世間話ばかりで様子を見に来ただけのようであった。ある時、無視した方がむしろ担任は帰れるから嬉しいに違いない、とそう気づいてからは電話に出ることすらやめてしまった。

 チャイムを切ったところで大声で呼びかけてくるので、時間帯を見計らって外出をするようになった。夕方に出てこないとなると、とうとう早朝にわざわざ出向いてきたので、朝夕の散歩が日課になってしまった。

 もともとは外出を好まない方だったというのに、まるで健康優良児である。いや、昼は寝ているから老人であろうか。


―――そしてその頃である。私が教会なんぞに通い詰めていたのは。


 そう。あの中年女性じみた言葉遣いをしていた、白い彼女である。

 あの頃は長髪で、いくぶん容姿の少女性が強かったように思う。全身を無地の白で統一し、雑種らしい白い盲導犬を連れていた、黒の日傘が映えていた少女。廃墟になった協会を掃除していたらしい、白内障の女性。白く濁った瞳孔が印象的で、私が思わずパン屋で介助を申し出たあの人である。

 あの人、なのだろうか。

 確かに不思議な雰囲気の女性だった。というか、私の家族構成を知っていて、私の名前を知っていた、らしい女性。これは不審者だろうか。とは言え、私は彼女のことを何も知らない。名前なんて、ハナブサが苗字だったことも今知ったことだ。もしかしたら姉の友人とか。そういうことなのかもしれない。

 よく考えたら瞳孔の差異なんてものは僅差でしかない。手術を受けたのだろう。

 今の彼女は、前の物静かな印象とは打って変わって、むしろ陽気な印象を受ける。あれから三年が経ったが、彼女は依然として少女的な顔貌をしている。雰囲気はかなりガラリと変わったものだが。


「あれ、忘れちゃった? 私だよ。カウンセラーのひとでーす。病院であったことあるでしょう?」

 砕けた口調、ふざけたしぐさ、病院に来たカウンセラーという言葉。

 本当に、全然知らない人だった。

 他人の空似なのかは定かではないが、病院の人間に話すことは何もない。

「アナタだれです。警察呼びますよ」

「うぇえ! ち、ちょちょ、ちょっと待って、本当に覚えてない? え? 嘘。わたし家間違えた?」

 ――たとえ間違えたとしても、家主が風呂入っているうちに勝手に家の中に上がり込むのはアウトだと思うぞ。

 心の中でそんなことを思いながら、立っている部屋の入口すぐそばに置いてある黒電話の受話器を取り、一、一、〇、とダイヤルを回した。受話口からコール音が流れたところで英さんが慌てて駆け寄り、フックスイッチを指で押す。とっさに駆け寄った彼女は、背にある壁へと手を突いて私を追い詰めるような体制になった。彼女は意外にも背が高く、私の顔を覗き込むようにして息を荒くしていた。

「はァはぁ――ッごめんって。まずは、話し合おう?」

「まず出てけ」

 私は彼女の顔を見上げる形で吐き捨て、玄関の方向へ親指を立てた。

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