金木犀の灯り

白木兎

 日曜の何もない朝に、誰も祈りに来ない教会へよく行った。

 決して敬虔なキリスト教信者でもなければ、かといって仏教を信じてるわけでもない。日本ではありふれた無信心者のひとりなのだが、この教会はなんとなく足を運ぶに適した場所だった。

 自分でもよくわからないけど、たぶん自分の美的センスとかそういう謎の琴線に触れていたのだと思う。

 だけれど、教会に来たからと言って神様に祈ることもなかった。

 ただ並んだベンチの最後列一番隅っこに座り、ぼんやりと考え事をするくらいである。近くにあるパン屋でテイクアウトのコーヒーを買って、冷めないうちに飲み終え、人の来ないうちに帰る。勿論人なんて来ないが、長居する意味もない。

 晴れた日曜日にだけ、散歩ついでに教会でコーヒーを飲みぼんやりとする。

 そんな習慣がいつの間にかできていた。


 そしてそれは、そんななんでもない日曜の午前のことだった。


「ホットコーヒーをひとつ、持ち帰りで」

 いつもの不愛想な仏頂面でコーヒーを注文すると、彼女はコーヒーを淹れに厨房のほうへ入って行く。こじんまりとした個人経営であるこのパン屋では、豆から挽いて珈琲を淹れてくれるのだ。奥からガリガリと豆を挽く音が聞こえてくる。

 正直、インスタントとハンドドリップの違いが判るかと言われると自信がない。が、そういうことではない。確かに普段はインスタントコーヒーを浴びるほど飲んでいるが、外出時くらいちゃんとしたモノを飲んでもいいだろう。それに僕は、ここの珈琲がなんとなく好きなのだ。

 決して、店員さんが可愛い為だとか邪まな感情を抱いてはいない。


 パン工房『三毛』。ここは人を限界まで詰め込んで十余名、客が入るのなら七名程が限界の少し狭いパン屋なのだが、それなりの魅力的なメニューが揃っており、また近隣の飲食店がここだけという田舎な事情も相まって客はそれなりにいるらしい。

 店員が家族なのかバイトなのかも知らないが、見た感じ若い。

 彼女は朗らかな人で、よく笑う。ただ僕には正直、営業スマイルの見分けがつかない。いや、営業スマイルでない可能性があるなんて思ってはいないけど。

 待ち時間を下らない考え事をしながら突っ立って待っていると、入り口から開店のベルが鳴った。彼女が店の奥から入店挨拶をした。

「いらっしゃいませー」


 僕はなんとなしに客の方を振り返って見た。

 すると思わず、驚きのあまりぎょっと眼を見開いてしまった。

 白い少女だった。

 頭のてっぺんからつま先までが真っ白な、文字通りの白い少女。白い毛髪に白い肌、身に着けるものまで、何から何までが真っ白な人だった。

 睫毛まで白くて、眼は茶色い虹彩のなかで瞳孔が白く濁っている。

 手に持つ閉じた黒い日傘が、白に映えて印象的だった。

 年齢は二十代前半といったところだろうか。

 その色素の抜けきった髪の毛には艶があり、見るも滑らかな印象を受ける。

 つば広帽子を被り薄手のワンピース、サンダルを履いていた。

 そして何より、顔付からして純粋な日本の人ではないのだろう。眼の状態からして、旅行とも思えなかった。窓から店の外を見ると、大型犬がつながれているのが見える。こちらもまた奇妙なことに、白いのだった。


 僕は話しかけてみることにした。

「こんにちはお姉さん。失礼ですが、お手伝いしましょうか?」

 初対面でなんと話しかけるか迷ったが、とりあえず出てくる言葉に任せた。何も考えなかったともいう。

 だけれど彼女は僕の顔をしっかりと見て、

「ありがとう。でも大丈夫ですよ。手元くらいなら見えるんです、私」

 予想に反した流暢な日本語で、優しい言葉で断りを入れた。

 無用な親切だったようだ。彼女が迷うことなくトングとトレイを棚から取っているのを見て、気恥ずかしさで無性にそわそわしてきた。

「お待たせしました。コーヒーですどうぞ」

 なんだかいたたまれなくなって、戻ってきた女店員が机の上に置いたコーヒーをひったくって逃げるように店を出た。勝手に恥ずかしくなって、勝手に逃げる。そんな阿呆なことをした後、何事もなかったように協会に向かった。


 静謐で、良くも悪くも何もない。私はそんな教会が好きだった。

 一応綺麗に掃除されているらしいベンチ。

 私はこの教会がいつどこで、そもそも本当に使われているのかどうなのかすら全く知らなかった。気にもならなかった。ただここは、誰も来ない。近所の公園に来るような気軽さで、子供が一人もいない静かな石の建物の中、コーヒーを飲んでくつろいでいた。

 有限である時間を無為に消費するのに、僕は少なくない恐怖と喜びを感じる。

 自分なんて、という思いがいつもあった。

 世界の意味を考えてみたり、そんなものはないと割り切って今度は社会的な自分の価値を考えてみたり、するときっと自分は要らないのだと感じてしまう。人間に主体性を求めるくせに、自分は恐怖がそれを押さえつけてしまってできていない。何に感じる恐怖なのかもわからず、だんだんと出不精気味になるのを恐れてなんとなく外を歩いた。

 ここに教会があるのは知っていた。

 今までは特に気にならなかったのだが、何となく寄ってみて以来一年以上も通い続けている。そして一年以上通ってみたが、神父だとか信徒さんとかに会うことは一度もなかった。廃墟なのかと疑ってみたりしたが、それもどうも違うようで、少し不思議に思っていた。


「いつも通いになってらっしゃいますが、祈ってみようとは思わないんですね」


 物思いにふけっている自分の背後で、物音を立てずに扉を開けて立つ女性がいた。

 さっきの、白い彼女である。

「先ほどはどうも」




 驚き、疑問を口にしようとした私を遮って、にこやかに微笑みお礼を口にする女性。

 私は遮られた疑問を口に出しずらくなり、「いえ」と小声で返すことしかできなかった。

「私はたまにこの廃墟を掃除しているボランティアの人です。貴方は今まで気づかれませんでしたが、私は貴方をよく見かけたのでいつか話しかけようかと思っていたんです」

「そうですか」

 ここは廃墟だったらしい。ここの掃除をしているらしい彼女は、私に興味があるらしい。私としては独りで廃墟に毎週のように通っていたのが見られていたことに恥ずかしさが湧いてやまないが。

「私、ハナブサと申します。貴方の名前を伺っても?」

 彼女はハナブサと言うらしい。日本人的ではあるが、聞かない名前だ。

 ハナブサさんは少し芝居がかったくらいに丁寧にお辞儀し、またあの微笑みを見せた。

 私は思わず姿勢を正し、少しの会釈をしたまま名乗った。

「えー、千万・正と申します。ただしと書いて、マサです。よろしく、ハナブサさん」

「はい。よろしくお願いいたしま、す……」

 俯けた顔を上げると私は何を喋ってよいやらでしばらく沈黙してしまい、ハナブサさんと見つめあう形になった。

 ハナブサさんはなにか引っかかることがあったのか、首を傾げ考えているそぶりを見せた。そして私をじっと見つめながら、

「……名前の字は、柾目のマサじゃありませんでしたか?」

 と少しおかしなことを訊いてきた。

 私は一瞬何のことかわからなかったが、とりあえず違うことを伝えようとした。

「柾目? いえ、正しいの字です。木偏は要らなくて、えっと、正にとか言うでしょ?」

 そして私が弁解みたいな喋り方を後悔しそうになっていると、彼女は更におかしなことを言いだした。

「ならたしか、お姉さんがいたはずよね? 名前はみずきさんだったかしら? 美しいに豆に嬉しいで、美豆嬉って読むんでしたよね?」

 慌てた様子で縋るように確かめてくるハナブサさん。

 確かに私には美豆嬉という姉が居た。私が齢三歳頃に父とともに出て行ってしまったので会った記憶はないが、確かにいるらしい。

 問題は、

「たしかに居ますが。なんでハナブサさんがそれを知って――」

 肯定した後の疑問が言葉になる前に、ハナブサさんは冷たい声音でそれを遮った。

「ならいいわ」

 それから後、私は出かかった先の疑問を口に出すのが憚られた。

 得体のしれない白い女性は喋れなくなった私から視線を外し、くるりと私に背を向けて教会を後にする。

 私は俯いて、教会の入り口の扉が閉まる音をじっと待った。

 閉まる音がガシャンと石造りの教会内に低く響き、ようやっと溶けた緊張が心労に変わったのを感じた。

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