6.恋が始まる


 水曜日。文化祭当日まで、あと三日。一昨日の月曜日も、藪本やぶもとくんの家で練習をした。少しはイメージ通り歌えるようになってきているけれど、まだ足りない。


 今は放課後で、文化祭のクラスの出し物の準備を進めていた。私たちのクラスは、喫茶店をすることになっている。

 私は板にペンキを塗っていた。


「ねえ、光莉ひかり

 柚子ゆずこが、作業中の私を見下ろしていた。後ろには、柚子といつも一緒にいるクラスメイトが二人。二人とも、つい最近まで私とも仲良く話していた女子で、クラスの文化祭の実行委員だ。


「何?」

 私は身構えつつ、表面上はあくまで笑顔で反応する。


「これもやっといて」

 作りかけの衣装が、私の眼前に放り出された。衣装作りは柚子たちの仕事だったはずだ。


 そもそも私の仕事は多い。柚子が文化祭の実行委員に手を回して、私に多く仕事をさせているらしい。その上、衣装作りまでとなると、確実にキャパオーバーだ。


 家に持ち帰って仕上げてくることもできる。けれど、今の私は歌の練習もしなければならない。今日もこの後、藪本くんの家に行く予定だった。


「私……このあと用事があるんだけど」

 目を合わせてはっきり言った。


「はぁ?」

 ざわついた教室にもある程度響き渡るくらいの大声だった。周囲に緊張が走る。


「文化祭の準備の方が優先でしょ? ってかさ、ちゃんと仕事してくれない? 光莉がそういう態度だと、クラスの雰囲気が悪くなるんだけど。光莉のせいで、クラスの出し物が失敗したら、どう責任とってくれんの?」

 強い口調で、柚子は私を責める。


「責任って言われても……」

 ちゃんと分担された仕事はしてる。それ以上の仕事を押し付けてくるのは柚子の方。それに、クラスの雰囲気が悪くなるのも、柚子が高圧的なせいでしょ。


 正論を並べ立てたところで、意味がないことはわかっている。彼女の目的は、私を糾弾することだ。


「あと最近、藪本とこそこそしてるみたいだけど、あんたたち、付き合ってんの? そういうの、本当にやめてほしいんだけどぉ!」


 柚子はさらに音量を上げる。クラスのみんなに聞かせようとしていることは明白だ。


 止めなきゃ。私は別に何を言われてもいいけど、藪本くんに迷惑がかかってしまう。


「藪本くんは――」

 関係ない。すぐにそう否定しようとしたのだけれど、そこに割って入って来た声が予想外で。


「だったらなんなの?」

「……藪本くん?」

 いつの間にか私の後ろに立っていた藪本くんが、柚子を真っ直ぐに見据えていた。


「もし仮に、僕と水岡みずおかさんが付き合ってたとして、文化祭のクラスの出し物に何か影響があるの?」


「う、浮ついた気持ちで仕事されると困るって言ってんの。クラスの士気が下がるでしょ!」


 柚子は一瞬、驚いたように目を見開いたが、藪本くんのことをたいしたことのない男子だと判断したらしく、あくまで強気で言い放つ。


「じゃあ聞くよ。他にもクラスの中で付き合ってる人たちもいるけど、そういう人たちも同じなの? それに、野島さんはクラスの出し物の準備に関して、何をしたの? 水岡さんがしてる仕事よりも多くのことをやってるの? 僕には、水岡さんに仕事を押し付けて友達と喋ってるようにしか見えないんだけど。もしかして、それを仕事だと思ってるの? それとも、ただの嫌がらせ? まあ、どちらにせよ、最低だけどね」


 いつもの優しさを感じさせる声とはちょっと違う、よく通る、強い声だった。


「っ……」

 柚子は何も言えないでいる。見下していた男子から反撃されて、困惑しているようだ。


「はい。これ終わった。じゃ、帰るから」

 藪本くんは何も言えなくなった柚子から視線を外し、任されていた装飾のパーツを、今度は優しい手つきで近くの机の上に置いた。


「ちょっと!」

 柚子は何かを言おうとするが、さっきまでの勢いはもうない。


 藪本くんは無視して、私の腕をつかむ。

「ほら、水岡さん。行くよ」


「……で、でも」

 柚子が押し付けようとしていた仕事はともかく、私が担当するはずだったペンキ塗りも、まだ終わっていない。


「水岡さん、行ってきなよ」

「え?」

 クラスメイトの明るい女の子が、目を輝かせながら私に言った。


「こっちは大丈夫だから! 水岡さんが担当してたところ、うちらやっとくし。今まで、色々と押し付けててごめんね。ほら、早く行っといで!」


 その代わり、今度色々と聞かせてね。彼女は私の耳元に口を寄せて、小声でそう付け足した。


 恋愛系の話が大好きな子で、きっと私と藪本くんのことをそういう関係だと思っていることは明らかだった。訂正するのも面倒だし、そのまま私は教室を後にする。


「手、もう大丈夫」

 本当はもう少し繋がれていてもよかったのだけど、手汗が気になってきてしまい、私は言った。


「あ、ごめん。つい」

「ううん。それより、さっきはありがとう」


「別に。本番まで時間もないのに、余計なことに時間を割かれるのは嫌だっただけ」

「でもさ……。あれはまずいんじゃない?」


「あれ、って?」

「私と藪岡くんが……その、付き合ってるとかどうとか……」


「ちゃんと、仮にって言ったし、付き合ってるとは言ってないよ」

「そうだけど……」

 あんなの、肯定したようなものではないか。


「水岡さんは、僕と付き合うのは嫌?」


 真面目なトーンでそんなことを言ってくるものだから、

「っ……。何、言って……」

 私は言葉につまる。


「あはは。冗談」

 藪本くんは楽しそうに笑って言った。


「もう! ばか!」

 後頭部にチョップを入れる。もう少しで、嫌じゃないよ、って答えるところだった。


 私は、藪岡くんの少し後ろを歩く。

 お願いだから、今はこっちを見ないでほしい。絶対に顔が赤くなってるから。


   強い君を見て

   恋が始まった

   弱い君も知って

   胸が高鳴った


 今なら、前よりもちゃんと歌える。そんな気がする。




「水岡さん。なんか、魔法でも使った?」

 藪本くんの家に上がり、歌った私に、彼は尋ねた。

「魔法?」


「うん。すごく良くなってる。良くなってるんだけど、この前までから上達したって感じじゃなくて、一気に飛び越えてきた、みたいな気がして」


 私の歌を聴いた藪本くんは、嬉しい気持ちと釈然としない気持ちが混ざったような、複雑な顔をしている。


 それはたぶん、気持ちを乗せられるようになったからだと思う。

「魔法なんて使ってないよ」


 でも、あえて言うなら、恋の魔法ってやつかもね。そんな恥ずかしすぎる言葉を飲み込む。


「そっか。うん。でも、僕の理想通りの、いや、理想以上の曲になった。水岡さんはどう?」

「私も、すごくいい曲になったと思う。自分で言うのも恥ずかしいけど」


「そしたら、あと何回か録って、それでミックスしてみようかな。その辺は僕がやるから、完成したら、一回データ送る。で、あとは文化祭本番って感じか」


 文化祭が終わったら、こうして藪本くんの家で歌うのも終わりなのだろうか。それは、なんというか……寂しいな。

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