2.理想の声
「なんでもしてくれるって、さっき言ったよね」
「言ったけど……」
そうだ。たしかに、私はそう言った。
けれど、こんな展開は予想外だ。
ジュースをおごるとか、宿題を見せるとか、そういうのを想像していた。
なのに、どうして……。
「好きな曲で大丈夫だから」
どうして私はカラオケボックスにいるのだろう。
「好きな曲って言われても……そんないきなり……」
藪本くんが差し出した、曲を入れる端末を見ながら、私は困惑していた。
教室の掃除が終わり、手伝ってもらったお礼をさせてほしいと申し出た私を「じゃあ早速、一緒に来てほしいところがあるんだ」と言って、薮本くんはカラオケに連れてきた。
「えっと、どこに向かってるの?」
私は道中でそう尋ねる。そのときはまだ、目的地を知らなかった。
私の質問に、薮本くんはこう答えた。
「一曲、歌ってほしいんだ」
それに対する私の返答は「は?」だった。
結局、どこに向かっているのかも、歌ってほしいという言葉の真意も、何がなんだかわからないまま、学校から歩いて十分ほどのところにあるカラオケの大手チェーン店で手際よく受付をする藪本くんを、私はボーっと眺めていた。これがつい一分前のこと。
「ずっと、気になってたんだ」
端末を私の目の前に置いた薮本くんは、今度はマイクを手に取る。身を乗り出してきて、私の手をマイクごと握る。彼の手のひらが、私の手の甲に触れた。温かい、などと悠長に感想を抱いている場合ではない。
「え、何。ちょっと待って。どういうこと?」
近い。普段は前髪でよく見えないけど、思ったより綺麗な目をしてるな――なんて冷静な分析をしてる場合でもない。
気になってたって? 私のことが? 何を? どう気になってたの?
クエスチョンマークでいっぱいになった私の頭はショート寸前だ。世界がぐるぐる回っているような気さえする。
「
そんなよくわからないことを、薮本くんはマイクと私の手を力強く握りしめながら、真剣な表情で言った。
「理想の……声?」
私の声が? それってどういうこと? 余計わからなくなった。あと近い。肌も白くて綺麗だ。もしかして藪本くんは、漫画や小説でよくお目にかかる隠れイケメンというやつなのだろうか。現実に存在するなんて思ってなかった。男子に対する免疫がない私にとって、この現状はとてもヤバい。ひえぇ。誰か助けて。
「あっと、ごめん。ちょっと興奮しちゃって」
我に返ったらしく、ようやく身を引いてくれた。私の手はマイクを持ったまま、空中で静止する。心臓がバクバクいってる。変な汗が出そうだ。
「あ、うん。大丈夫。で、何か歌えばいいの?」
よくわからなかったけど、とりあえずそれが藪本くんへのお礼になるのであれば、一曲歌うくらいなんでもない。
いや。掃除を手伝ってもらったお礼に一曲歌うってどうなんだろう。
色々とイレギュラーな出来事が続いていて、思考力が麻痺しているような気もする。
まあ、こっそり動画撮影して笑いものにしようとするようなタイプには見えないし、別にいいかな。
歌は好きだ。カラオケにも月に一、二回は行く。一人でも行くし、友達と行くこともある。
そういえば、
どんな曲を歌えばいいのだろう。友達と一緒のときは、好きな曲をそのまま入れれば、趣味が似ているからそれで問題なかったけれど……。ここは藪本くんの趣味に合わせるべきだろうか、と考えたものの、そもそも彼のことを全然知らないので、どうしようもない。というか、なぜ私はほとんど話したことのない男子とカラオケにいるのだろう。
お礼をしたいと申し出たのはたしかに私だけど、カラオケに連れて来て、歌を要求する男子って、どう考えてもおかしいでしょ。ちょっとだけ正気に戻った。でも、今さらやっぱり嫌だなんて言うのも申し訳ないような気がするし……。
平均よりは上手いけれど、プロのレベルには到底及ばない。
それが、私の歌唱力に対する自己評価だ。
別にプロを目指しているわけでもないし、上手くなりたいとも強くは思わない。歌を歌うことはただの趣味で、それ以上でもそれ以下でもない。正直、歌の上手さなんて自分ではよくわからない。けれど、一緒に行った友達からは、結構な頻度で上手いと言われる。それはただのお世辞なのかもしれないけれど。
悩みに悩んだあげく、タッチパネルを操作して、若者の間で流行っている曲を入れた。ネットでも話題になっていて、高校生ならほとんどの人が耳にしたことはあるはずだ。
イントロが流れたとき、藪本くんも「あ、いいね」と呟いていたので、彼も知っているのだろう。
特に仲が良いわけでもない人の前でいきなり歌うのは緊張したし、恥ずかしかった。
最初の方はなんだか上手く歌えずに、ところどころ音がずれてしまったりした。
途中で、変に意識するよりも普通に歌った方がしっかり歌えることに気づく。
いつの間にか羞恥心は消えていた。好きな歌ということもあって、自分でも知らないうちに思いきり歌っていた。
歌い終わった私は、近くに藪本くんがいることを思い出して、再び恥ずかしくなってきたけれど、それと同時に、歌い切ってやったぞ、という達成感もほんの少しある。
後奏も終わり、新鋭機鋭のアーティストの宣伝映像に切り替わる。
「うん。思った通りだ」
藪本くんが静かに言う。目を瞑っていた。
「お、思った通りって?」
思った通り下手くそだったということだろうか。歌わせておいてそんなことを言うのだとしたら、ちょっと、いや、かなり失礼なので、マイクでも投げつけてやろうと思う。でもマイクってけっこう重いよね。当たり所が悪かったら死んじゃうかな。犯罪者にはなりたくないな。
そんな私の懸念とは裏腹に、
「最高だよ! ありがとう、水岡さん!」
藪本くんが、再びテーブル越しに身を乗り出しながら、興奮したようにまくし立てる。
何が最高で、何がありがとうなのかよくわからないし、近い! いちいち心臓に悪いので、予告なく距離を詰めてくるのは本当にやめてほしい。「距離を詰めるね」って予告されて近づかれるのも、それはそれで嫌だけど。
「だから近いって! お願いだから落ち着いて、藪本くん」
「あっ、ごめんごめん。最初から説明するね」
藪本くんは私から離れて、ソファにストンと座る。
「ああ、うん」
できれば最初からそうしてほしかった。
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