シング・ア・ラブソング!
蒼山皆水
1.きっかけ
「なんでもしてくれるって、さっき言ったよね」
低くて柔らかい声が、鼓膜を揺らす。
目の前に迫った綺麗な瞳が、私を真っ直ぐに見据えていた。
「言ったけど……」
私は絞り出すように呟いた。
ほとんど話したことのないクラスメイトの男子と、狭い部屋に二人きり。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
私があんなことを言わなければ――。
一時間くらい前、私は教室の掃除をしていた。
掃除当番は私を含めて五人いたはずなのだが、私以外はみんな、遊びに行ったり、部活に行ったりしてしまった。端的に表現すると、押し付けられたということになる。
もちろん、私はそんなことは言っていない。否定しようとして口を開くと、柚子に睨まれる。
まあ、私が否定したところで、他の人たちは柚子の言うことを優先するだろう。そっちの方が都合がいいから。
「ってわけで、よろしくね」
つい数秒前の笑顔が嘘のような、見下すような目で私を見て、柚子も帰って行った。
私も去年、一年生のときに同じクラスで話すようになって、二年生になった今も「今年も同じクラスだねー」「うん。よろしくー」なんて笑顔で言葉を交わしたりするくらいには親しかった。
けれど、それも少し前までのことだ。一週間くらい前、些細なことがきっかけで柚子に嫌われてしまったのだ。
まったく悲しくないというわけでもないけれど、まあ、そういうこともあるよね、という感じだ。
柚子は私にとって、かけがえのない親友ってわけでもない。同じクラスになったんだから、きっとみんなで仲良くやっていける、などという馬鹿みたいな幻想を抱いてもいなかった。
私を嫌っているのは、柚子と彼女のグループの数人だけなので、学校生活に大きく影響があるわけでもない。他にも仲の良い人はいるし、そういう人とは普通に話したりはする。
女子っぽい振舞いが苦手な私と、意地っ張りな柚子の性格を考えれば、この溝の修復は不可能だろう。
嫌われる分には別にいいのだけれど。私に対する嫌がらせには、さっさと飽きてほしい。
「……はぁ」
一人残された教室で、私は息を吐いた。
もちろん怒りもあったけれど、呆れの方が強い。柚子に対しても、他のクラスメイトに対しても。
私も帰ってしまおうかと思ったけれど、掃除をさぼるわけにもいかない。損な性格だと思う。
ロッカーから箒を取り出して床を掃き始める。
まだ何人か残っていたクラスメイトも、一人で掃除をしている私を、気の毒そうな目で見つつも、何も言わずに去って行く。もしも私を手伝おうものなら、柚子に何かされると思っているのかもしれない。その可能性は大いにあるし、それがわかってしまうだけに、私も気軽に、手伝って、などとは言えない。
なんとか床の掃除を終わらせる。
あとは……黒板も綺麗にしないと。
黒板消しを手に取り、六時間目の数学の授業で使われた数式を消していく。しかし、上の方には背伸びをしてもギリギリで手が届かない。
何やってんだろ……。
鼻の奥がつんとして、涙が出そうになった。
諦めて、踏み台の椅子を持って来よう。どうせなら、柚子の椅子を使おう。上履きのまま乗ってやろう。
そう思って振り返ろうとすると、
「手伝うよ」
横から声がした。
「え?」
クラスメイトの男子がそこには立っていた。
「あ、ごめん。もしかして、一人で全部やりたいみたいな感じ?」
「いや、そういうわけじゃないけど……」
「じゃあ、上の方消すね」
優しくて、柔らかい声だと思った。こうしてちゃんと声を聞くのは初めてだからかもしれない。
「あ、うん」
彼は私が届かなかった高いところに手を伸ばして、軽々と消していく。
身長は少し高めで、かなり細い体形をしている。スタイルがいいというよりは、弱々しいと表現した方がしっくりくる。無造作に伸ばした髪を見て、頭髪検査に引っ掛かりそうだな、などと場違いなことを考えた。
よくわからないまま、私と藪本くんは教室の掃除を終わらせる。
出そうになっていた涙は、もう引っ込んでいた。
「あとは、ごみ捨てだけかな」
「そうだね」
「じゃ、僕はこっち持ってくから、水岡さんはこっちをお願い」
藪本くんはそう言って、二つの袋にまとめられたごみの、軽い方を私に差し出した。
「あの、本当に助かった。手伝ってくれてありがとう」
まだちゃんとお礼を言っていなかったことに気づいて、私は頭を下げる。
「別に、たいしたことはしてないよ。僕、あっちにいたんだけど、水岡さんが一人で掃除してるのが見えたから、ちょっと気になっちゃって」
彼は教室の窓の方を指さしながら言った。
窓からは特別教室棟が見える。理科の授業で使う実験室や、視聴覚室、放送室などがある。
部活か何かで向こうにいたのだろうか。少なくとも、運動部ではなかったと思うけど。
でも、わざわざ見に来てくれたんだ。
引っ込んだと思っていた涙が、またこみあげてくる。
「もしよかったら、何か、お礼させてくれないかな」
それをごまかすように、私は言った。
「お礼?」
藪本くんは少し驚いたような顔をしている。
「うん。私にできることなら、なんでも」
借りを作りっぱなしなのはなんだか落ち着かない。几帳面な性格は、私の長所でもあり、短所でもある。
そして、この軽率な発言が、思いがけない事態を引き起こすきっかけになるなんて、このときは予想できなかった。
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