第17話 昇天

 夜は真っ暗のはずの庭園を燃え盛る聖堂の炎が照らしていた。フェリシー達が庭園に足を踏み入れたと同時に背後から激しい光と音ともに炎を身に纏った巨大な牛が大空へと駆け抜けていった。修道女達が唖然として巨大な牛が夜空に消えていくのを見ている中、ヴィヴィが咳払いを一つした。

 皆の視線がヴィヴィに向けられる中、ヴィヴィはフェリシーとジョージを睨みながら二人に歩み寄ってきた。


「あの悪魔はいったい何者です? フェリシー様の事を存じていたようですが、それに司祭様も」

「そ、それは」

「悪魔だって?」


 フェリシーが答えにくそうに口を動かしていると突然、上空から声が聞こえてきた。皆が慌てて見上げるとそこには人影が浮かんでいた。聖堂の炎によって映し出された人影には先程のディスターと同じように黒い翼が背中から生えていた。次の瞬間、修道女達の悲鳴が響いた。


「さっきのすっげぇでかい牛はその悪魔が出したのか? 悪魔がここに来てるのか?」

「……」


 新たに現れた堕天使の質問に修道女達は恐怖で口を開けなかった。フェリシー達も再び迫った危機にどうしたらいいのか困惑していた。


「おい、答えろよ」

「……」


 堕天使の質問に誰も答えられなかった。フェリシーとジョージ以外は皆、事態の展開についていけずに混乱している最中なのだ。ユーリの事を知っているフェリシーとジョージでさえ堕天使という存在に困惑していた。


「まあいいか。どうせこれから殺すんだ。関係ないな」


 にやっと笑うと堕天使はゆっくりとフェリシー達の前に降りて来た。


「聖女は……おまえか?」


 堕天使は指先を怯えている幾人かの修道女達に向けた後、びしっとフェリシーを指差した。


「そうだろ? お前だけ他の人間と服が違う。つまり特別な存在ということだ。どうだ、名推理だろ?」


 堕天使は得意そうに答えると黒い翼から羽を一本抜き取るとふっと息を吹きかけた。すると羽が光に包まれて剣の形を形取った。堕天使が光に包まれた剣を一振りすると光が払われて鋼の剣が姿を表した。


「やはり、殺すことは刃物でないとな。光弾などで殺してる奴もいるけど、それだと味気がない。やはり肉を断つ感触を直に味わいたいからな」


 堕天使は剣先をフェリシーに向けると周囲いたヴィヴィ達を邪魔そうに剣先で払った。


「聖女以外は邪魔だ。どけ」

「どきません!」


 ヴィヴィが体を震わせながらフェリシー前へと歩み出た。同じくジョージもヴィヴィの隣に立つ。


「お前らは後でまとめて殺してやるよ。まずは聖女だ。じっくりと丹念に殺さないとな。ああ、お前らは適当に殺してやるから安心しろ」

「そんな事はさせません!」


 動こうとしないヴィヴィとジョージに対して堕天使は舌打ちをした後、剣を上段に構えなおした。


「いいだろう。そんなに聖女と一緒に死にたいなら一緒に殺してやるよ!」


 堕天使はフェリシーをヴィヴィ達ごと切り捨てるために空へ飛び上がった。そして上段に構えた剣を振り下ろすと同時に勢いを付けて落下してくる。

 ヴィヴィもジョージも覚悟を決めて目を瞑った瞬間、だが、フェリシーはしっかりと目を開いて見ていた。ヴィヴィ達と堕天使の間に現れた見覚えのある背中を。ユーリの背中を。


「!」


 堕天使の顔が驚きに変わる。そして次の瞬間、堕天使の顔に真っ直ぐ1つの線が走った。フェリシーは驚いていた。ユーリが突然現れたことに対してではない。突然は別にいい。ユーリはいつも突然現れるのだから。問題は現われた場所だ。

 近かった。背中が近かった。いままで見たどの位置よりも。ユーリは首だけ振り返り、フェリシーに大丈夫かと目で問いかけてきた。フェリシーが大丈夫と頷こうとした瞬間、ユーリの体がピクッと動いたかと思うと全身の腕が、足が、顔が膨らみ、そして弾け、辺り一面に血を噴出した。


「ぐああぁぁぁ!!!」


 ユーリは絶叫を上げてその場に倒れこんだ。その間も絶えず皮膚は破裂し、血を噴出す。フェリシーは聖域のことを思い出して、慌ててユーリから離れたがその頃にはユーリの周りは自らの血で湖のようになっていた。すぐ傍には動かなくなった堕天使の血も混じっているだろうが、大半はユーリの血だ。


「ユーリ!」


 フェリシーは駆け寄りたい気持ちを必死で抑えた。自分が近づいてもユーリをこれ以上傷つけるだけだと分かっていた。


「い、いったい何が!?」


 ヴィヴィは自分の体に付いたユーリの血と目の前の惨状に思わず後ずさりした。他の修道女達も恐怖に顔を染めてユーリの傍から離れる。ジョージもあまりの惨状に一瞬、たじろいたが意を決してユーリの傍へと歩み寄った。


「だ、大丈夫ですか」

「……ぅ……ぁあ……ぁ」


 ジョージの呼び掛けにユーリは微かに答えた。人間なら既に死んでいるはずの状態でユーリは僅かに生きていた。だが、生きていただけでこのままで確実に死んでしまう事は誰の目に見ても明白だった。


「ごめん……なさい」


 フェリシーはユーリに謝るとその場に泣き崩れた。突然、泣き崩れたフェリシーをヴィヴィは慌てて抱きかかえた。


「フェリシー様?」

「ごめんなさい、ごめんなさい……ごめんなさい」


 フェリシーは何度も謝りながら泣き続けていた。ヴィヴィは何をそんなに謝っているのか分からず困惑する。

 フェリシーは今、心の底から自分が聖女である事実が嫌になった。


(私が聖女だから、ユーリを傷つけてしまった。聖域などあるから私はユーリの命を奪ってしまう。ユーリだけじゃない。さっきから何人もの人の命が私を狙ってきた堕天使達に命を奪われている。全部私のせいだ)

「な……なぜ、泣いて……いる」


 ユーリは全身から血を流しているのにも関わらず、フェリシーに対して問いかけてきた。


「ユーリィィ」


 それはフェリシーが以前にもユーリにされた質問だった。突然部屋に現われたユーリは不思議そうに泣いている理由をフェリシーに聞いてきた。その時もフェリシーは自分のせいで人が死んでしまったと思い、悲しくて泣いていたのだ。人の訃報を聞くだけで悲しくなってしまう。その度にフェリシーは泣いていた。だが、それでも知らない人の事、フェリシーの知らない遠い場所で行われた事と無意識に一線を引いていた。


(だけど今回は違う。私が知っている人、私の知っている場所、そして本当に私のせいで死んでしまう。嫌だよ! 全部嫌だよ!)

「はっ、ははっ、何やら楽しい事になっているな」


 苦しそう、だが、うれしそうな声が聞こえてきた。修道女達が声の方を向くと今日何度目ともなる悲鳴を上げた。悲鳴に反応してフェリシーが目を真っ赤にして顔を上げた。


「いったい何が起こったのか。一言一句説明して欲しいものだな」


 そこには全身を焼け爛れ、漆黒の肩翼は無残にも千切れた満身創痍のディスターが立っていた。ディスターはユーリの一閃によって命を落とした同類を視認するが興味がないように横を通り過ぎた。


「……きさ、ま」

「いい格好だな。どうだ、傷つき地面に触れ付す感想は?」


 ディスターとユーリの間にジョージが立ち塞がった。


「そ、それ以上近づくと……」

「近づくと?」

「……」


 ジョージは答えなかった。いや、答えられなかったのだ。いつもの間にか伸ばされていたディスターの手によって強く首を掴まれていた。


「どうだと言うんだ? 答えてみろ。答えれればな。傷ついたといってもお前ら人間を殺すにはまだまだ充分すぎる力があるぞ」


 ディスターはジョージの首を掴む手にさらに力を込めた。


「ジョージ!」


 苦しそうなジョージの声が絞めつけられた首から漏れる。フェリシーが走り寄ろうとしたがヴィヴィに後ろから抱き留められてできなかった。


「己の力のほども理解できない人間が。このまま首をへし折ってやろうか? それとも頭を吹き飛ばしてやろうか? どちらがいい」


 ジョージが口からは途切れ途切れ苦しそうに息が漏れるだけだ。


「答えないなら首をへし折るに決定だ」


 ディスターはにやりと笑い、腕にさらに力を込めた。ジョージの首から骨のきしむ音が聞こえてきた。


「ジョージィ!!」


 フェリシーの悲鳴が響いた時、突然、ジョージとディスターの間を遮るように巨大な剣が地面より出現した。


「ぐぅあああああああ!!!」


 堕天使が絶叫を上げながらうずくまると同時にジョージの体が地面に落下した。地面に落下したジョージは苦しそうに息つぎをすると、自分の首にまだディスターの腕が付いている事に気づき慌ててディスターの腕を振り払った。ディスターは肘から先がない右腕を苦しそうに抑えながら、震える指先で青白い魔法円を描いていたユーリを睨みつけた。


「きっさまぁぁぁ!!」


 ディスターは右腕を抑えるのをやめて、ユーリに近づくと残った左腕でユーリの胸倉を掴んで一気に持ち上げた。ユーリには抵抗する力は無くぶらりと下がった。


「きさまはぁ! そんなザマになっても私の邪魔をするのか!!」


 ディスターはユーリを力任せに地面に叩き付けた。地面に叩き付けられたユーリは小さく呻き声を上げる。ディスターの怒りはまだ収まらず、続けてユーリの頭を踏みつけた。


「よくも私の腕を切り落としてくれたな! 許さん! 許さんぞ!」


 ディスターがユーリの頭を踏むたびにまるで地震でも起こっているかと思うほどの振動がフェリシー達の足に伝わってきた。


「ユーリ!!」


 悲惨な光景に目を閉じていたヴィヴィの腕をすり抜けてフェリシーはユーリの傍に駆け出した。が、すぐにフェリシーは足を止めた。ディスターに何かされたわけではない。そのディスターは今起こった不思議な光景にユーリを踏みつけていた足を止めていた。

 フェリシーが駆け出した瞬間、フェリシーと一番距離が近かったユーリの右腕がまるで爆竹が破裂するかのように弾け飛んだのだ。


「何が起こった?」


 ディスターは不思議そうな顔で弾け飛んだユーリの右腕を見た。そしてそのまま視線を今にも泣き出しそうなフェリシーに向けると何か察して笑みを浮かべた。


「そうか? そうなのか? 実際に実在するとはな。聖域を持った人間か」


 ディスターはユーリの頭から足を離してフェリシーに向かって二、三歩踏み出して立ち止まる。立ち止まったディスターは前に左腕をゆっくりと突き出した。すると、突き出された腕に線が無数に走り、傷口から血が飛び出した。ディスターはそれを確認して血を払うように勢いよく腕を戻すと、もう微かに痙攣しかしていないユーリに振り返った。


「堕天した私がこれだ。悪魔のお前が聖域に触れて無事なわけがない」


 ディスターのうれしそうに言うとユーリの頭を持ち上げた。


「貴様は自分が守ろうとした聖女によって傷つけられたというわけか」


 ユーリは答えない。答える力すら残っていない。何かほんの少しのきっかけがあればいつ死んでもいい状態にまで追い詰められていた。


「おい、聖女」


 声を掛けられフェリシーは体をビクッと震わせた。


「きさまは自分を守ろうとした者を傷つけたわけか」

「違う! 傷つけたかったわけじゃ……」


 フェリシーは首を横に振った。ディスターは必死に否定するフェリシーをうれしそうに見る。


「だが、結果はこれだ」


 ディスターはフェリシーに向かって顔が見えるようにユーリを持ち上げる。ユーリの虚ろな目を見た時、フェリシーの目から今まで必死に堪えていた涙がこぼれ始め、泣き声が庭園に響いた。


「フェリシー様!」


 ヴィヴィはフェリシーに駆け寄ろうと足を踏み出した。が、一歩踏み出しただけでもう動くことができなかった。ディスターが笑っていたのだ。いままで見たどの表情より愉快そうに。ヴィヴィはディスターの表情がこの上なく恐ろしかった。フェリシーの元に駆け寄りたい気持ちが恐怖によって押しつぶされてしまうほどに。他の修道女達も同じ、またはそれ以上の恐怖を感じていた。


「愉快だ、愉快だな。守ろうとした者が守っていた者に傷つけられる。これほど愉快なことはない。なあ、聖女よ。これがお前たち人間の罪の証だよ」


 フェリシーは泣きながら首を横に振った。


(嫌だ! 私は傷つけるつもりなんてなかった。今もユーリが傷つくのが嫌で駆け寄ったのに、結局は私が一番ユーリを傷つけてしまった。最初に会った時も、二回目に会った時も、ユーリを傷つけたのは私。傷つけられたユーリは本当に辛そうな顔をしていた。傷つけなかったのに、私はユーリを傷つけたくなかったのにっ!!)

 『なぜ、ユーリを傷つけたくない』


 フェリシーの頭の中に自分ではない誰かの声が響いた。だが、それを不思議だと思う余裕はフェリシーにはなかった。


『なぜ、傷つけたくない』

(私のせいでユーリが傷つくのが嫌だから)

『なぜ、嫌なのだ』

(心が無性に痛くなるから)

『なぜ、痛くなる』

(私のせいでユーリが傷つくから)

『なぜ、自分のせいだと』

(だってユーリは私のせいで。

『傷つくは彼が望んだこと』

(私がまた会いたいと思ったせいで)

『会いに来たのは彼の意思……』

(会いたいと思ったのは私の意志)

『なぜ、会いたいと思った……』

(……)

『なぜ、会いたいと思った……』

(それは……)

『なぜ、ユーリを傷つけたくない……』

(それは、それは私が……)

『なぜ、心が痛くなる……』

(私がユーリを……)

「いい事を思いついた」


 ディスターの声がフェリシーの思考を遮った。


「このままこいつをお前の方に投げるとどうなるかな?」


 ディスターはユーリの頭を鷲づかみにして大きく振りかぶった。


「えっ!? ……や、やめてぇ!」


 ようやく思考がはっきりして、ディスターが何をしようとしているか気づいたフェリシーは悲痛な声で叫んだ。フェリシーの叫びを聞いたディスターは嫌らしい笑みを浮かべた。


「断る」


 ディスターはユーリをフェリシーに向けて投げつけた。ユーリの体は宙を舞ってフェリシーに、聖域へと近づいてくる。


(イヤイヤ、イヤァァ! もうこれ以上ユーリを傷つけたくない!!)

『なぜ、傷つけたくない』

(自分のせいでユーリが傷つくが嫌だから)

『なぜ、嫌なのだ』

(心が無性に痛くなるから)

『なぜ、心が痛む』

(それは、それは私があの人を……ユーリのことが好きだから!)

「ユーリィィィィ!!」


 フェリシーは愛おしい人の名を叫んだ。愛とも恋ともまだ呼べないかもしれない、だが確かに心にある想いを。フェリシーはユーリを抱きとめようと両腕を前に出した時、ユーリの体が聖域に侵入した。

 その瞬間。

 白い光がフェリシーの体からフェリシーとユーリを包むように放たれた。光の眩しさにディスターを初め、ヴィヴィやジョージ、修道女達、その場にいた全員が目を覆った。


「なんだ! この光は!!」

「フェリシー様!!」

「フェリシー!!」


 ディスターは予想だにしなかった展開に驚きの声に上げた。ヴィヴィとジョージもフェリシーの身を案じて声を上げる。


「司祭様! いったい何が! フェリシー様は!」

「分かりません!」


 次第に光が収まっていき、フェリシーらしき人影が見えてきた。


「フェリシー様!」


 ヴィヴィはフェリシーらしき人影に向かって走り出すが、少し近づいた所で足が止まった。ヴィヴィが改めて人影に目を向けるとフェリシーらしき人影が、もう一つの人影を抱きしめていた。

 光が完全に収まるとその場にいた堕天使も含めた全員が驚きで息を呑んだ。


「……フェリシー?」


 ユーリが目を開けると自分を抱きしめているフェリシーの姿が入ってきた。声を掛けられたフェリシーは涙目でユーリの顔を見上げた。


「なぜ、泣いている?」

「だって……!」


 ユーリは何かに驚いたように目を見開いた。そしてユーリは気づいた。自分が聖域の中に完全に入っていることを。ユーリは思わず身構えたが一向に聖域の影響が起こらない。


「なっ!?」


 ユーリは驚きのあまり声を失った。自分の体を見てみると先程、聖域によって受けた傷が完全に治っていた。


「いったい何が?」

「ユ、ユーリ! せ、背中……」


 フェリシーの驚いた視線がユーリの背中に向けられている。ユーリはフェリシーの視線を追い背中を見た。その瞬間、ユーリの心臓が大きく鳴り、自分自身の目に移った光景が信じられなかった。


「な、なんだ? これは」


 ユーリの背中には翼が生えていた。いままでの様な黒い蝙蝠の様な翼ではない。白い、純白の、鳩の様な翼だ。白い翼を背中から生やしたユーリの姿、その姿はまさに天使だった。


「何をした! 貴様ぁぁ!!」


 声に振り返るとディスターが体を振るわせてこちらを睨んでいた。


「なんだ! その姿は! 昇天したとでもいうのか!!」

「昇天? 悪魔になることが堕天なら天使になるなら昇天か。なかなかいい表現だ」


 拍手と共に男性の声がディスターの後ろの暗闇から聞こえたかと思うと、暗闇の中から一人の紳士がとても嬉しそうな笑顔で歩いてきた。


「……おまえか」

「やあ、ユーリ。いい格好になったな」


 現われたのはユーリと空や裏路地で会話をしていた紳士だった。


「まさか天使になるとは思わなかったぞ。お前はいつも私の予想を覆す」

「ずっと見ていたのか」

「ずっとではない。そうだな、お前があそこの五月蠅いシスターを助けた辺りからか?」

「ほとんど最初からだろうが! 殺すぞ!」

「いつも通りの口調だな。姿形は変わっても我が親友のようだ。安心した」

「私を無視するなぁ!!!」


 ディスターは紳士とユーリを睨みつけた。


「貴様はいったい何者だ!!」

「ユーリ。お前のことを我が王にお話するのが楽しみだ。さすがのお方もきっと驚くだろうな」

「っ!」


 紳士に無視されたディスターは歯を食いしばり、左手を紳士に向けた。


「死ねぇ!!」


 ディスターから光弾が放たれた。紳士は避ける素振りを見せずに光弾の直撃を受ける。ディスターは続けて何発も何発も紳士に向けて苛立ちを納めるために光弾を放った。ユーリ以外の人達は皆、紳士が殺されたと思い叫び声を上げた。


「私を! 私を無視するからだ!」


 ディスターは勝ち誇ったように笑い声を上げた。ユーリはその様子を冷めた視線で見ていた。


「おい、貴様。命が惜しければ今すぐ全力で逃げろ」

「何を言っている? 昇天したからといって、傷が治ったといって私に……いや、私達に勝てると思っているのか?」


 ディスターは空を仰いだ。フェリシーと修道女達が空を見るとそこには数十人もの翼を黒くした天使達がこちらを眺めていた。


「この人数だ。貴様一人ではどうにもなるまい」


 修道女達からまた悲鳴があがった。多すぎる堕天した天使の人数には絶望しか望めなかった。唯一の味方かもしれない天使になった元悪魔ユーリも多勢に無勢なのは明らかだ。


「お前らも命が惜しいなら一斉に逃げろ。運がよければ誰か一人ぐらい生き残れる」


 だが、当のユーリは臆することなく浮かんでいる堕天使達に警告を促した。その顔に敵意は既になく、哀れみだけが現れていた。


「逃げるだと? それはお前の方だろう。命が惜しいならさっさと人間を見捨てて惨めに逃げるがよい!」

「哀れだな。せっかくの忠告を……」

「ユーリよ。そいつらに忠告はもう遅い」


 土煙の中から紳士が姿を表した。あれだけのディスターの攻撃を受けたのにも関わらず紳士の傷どころから埃一つ付いていなかった。唯一表情だけが笑顔ではなくなっていた。何を考えているか分からない無表情で紳士は宙に浮かんでいる堕天使達を見渡した。


「私が話をしているのをよくも邪魔してくれたな。私は邪魔されるのがとても嫌いだ」


 紳士はステッキを上空に掲げると小さく息を吸って宣言した。


「貴様らを殺す前に我が名を名乗っておこう。これは礼儀だ。死を贈る者に対する正当な礼儀だ」

「貴様、そこの悪魔の仲間のようだな。だが、一人増えたくらいで粋がるな! 死ねぇ!!」


 ディスターの掛け声で空中にいた堕天使達は殺意を向け、一斉にユーリと紳士に向かった。


「我が名はメフィスト」


 襲い掛かろうとしていた堕天使達の動きが壁にでも突き当たったかのように一斉に止まった。


「我が名はメフィスト・フェレス。地獄の七大君主にして大公たる者。我は王ルシファーに使える者なり」


 紳士の名を聞いて動きを止めた堕天使達の体が一斉に震え始めた。全員の顔に映る感情は恐怖だった。


「メフィスト……フェレス」


 ジョージは思わずその名を口にした。それだけで鳥肌が立ってくる。人間にもっとも知られていて、もっとも恐れられている悪魔の名だ。その力は一瞬にして数国を滅ぼすと言われている。


「メフィスト・フェレス……だと」


 ディスターは驚きのあまり、情けなく尻餅を付いていた。メフィストが名を告げた瞬間、周囲にメフィストの放つ絶大な魔力が放たれた。魔力を感じられない人間達には何も変わらないが、高圧的で圧倒的、吐く息すら今にも凍りついてしまいそうな殺意の交じった魔力に堕天使達は絶望を感じた。絶対に勝てない相手だと確信してしまった。


「さて、私の話を中断させた罪をどうやって償ってもらおうか」

「ま、待ってくれ! 俺達が悪かった! 許してくれ! 頼む!」

「……」


 メフィストはディスターに向かってゆっくりと歩き出した。ディスターは尻餅を付いたまま、残った手を慌てて動かして後ろへ下がる。


「貴様は我が友ユーリを足げにし、我を貴様呼ばわりしたな」

「知らなかったんだ。貴方があのメフィスト・フェレスだと。だから……」

「貴様は許しを請うているのか?」

「ああ、そうだ! 許してくれ、なんでもする! これからは命を懸けて貴方に仕えよう! だから!」

「ふ、ははははっ!! 天使が悪魔に許しを請うとはすばらしい冗談だな。そうは思わんか、ユーリ」


 口元だけ笑みを浮かべて、メフェストはユーリに視線を向けた。


「つまらん冗談だ。やるならさっさとやれ」


 ユーリは既に堕天使達に興味をなくし、自分の背中に現れた白い羽を興味深く触っていた。


「ふむ、我が友には気に入って貰えなかったようだな。残念だ、本当に残念だ」


 メフィストは顎に手を当てて残念そうに溜め息を付いた。


「では、殺すとしよう」


 気軽に挨拶をするかのようにメフィストは堕天使達に対して処刑宣告をした。彼にとっては目の前の堕天使達を殺すという行為など、知人に挨拶をする程度のことなのだ。そういう認識、そういう価値観を持つ存在なのだ。このメフィスト・フェレスは。

 メフィストからの死刑宣告を聞いたディスターを初め、上空の堕天使達は一斉に背を向けて飛び去ろうと翼を羽ばたかせた。メフィストはその様子を見て、にやっと笑うと逃げ出す堕天使達に向かって右手を突き出した。


「問題だ、ユーリ。何秒掛かると思う?」

「一瞬で充分だろう」

「正解だ」


 そう言うとメフィストは右手でパチンっと指を鳴らした。たったそれだけのことで逃げようとしていたディスターを含めた堕天使達が一斉に弾け飛んだ。フェリシー達には何が起こったのか分からなかった。ただ耳にパンっと何かが弾ける音が聞こえてきただけだったが、堕天使達の姿が一瞬にして消えた事だけはなんとか理解できていた。


「本当に一瞬で片を付けるとは……ムカつく奴だ」

「お前の希望に答えてやったというのにつれない言葉だな」

「用が済んだのならさっさと消えろ」

「そう邪険にするな。おまえは何故、先程の堕天使の言葉を借りれば、昇天したか知りたくないのか?」


 ユーリは改めて自分の背中の翼を眺めた。姿形は変わったが以前と同じように動かすことができる。違和感としては多少重たくなった気がするが、慣れれば気にならなくなるだろう。純白の翼。それを生やすユーリの姿は誰の目から見ても天使として映っていた。


「おまえは俺がなぜこうなったのか、理由を知っているのか?」

「知っているとも。だが、それは私の口から教えるわけにはいかんな」

「本当は知らないんじゃないだろうな」

「本当に理由は分かっているさ。正直、信じられないことではあるがね。ちなみにそこの聖女もお前が昇天した理由を知っているはずだぞ」

「フェリシーが?」


 ユーリは疑問に思いながらフェリシーに顔を向ける。突然、名前を呼ばれてフェリシーは驚いていた。


「えっ? わ、私?」

「知っているようには見えないが?」

「知っているはずだ。聖女よ、先ほどの事を思い返してみよ」

「……あっ」


 フェリシーは先程頭に響いてきた声の主がメフィストだということに気が付いた。フェリシーは先程の言葉のやり取りを思い出して急に恥ずかしくなった。


「どうした。フェリシー? 顔が赤いぞ」

「えっ、いや、その……」


 心配したユーリが接近してフェリシーの体温がさらに上昇した。フェリシーの耳には自分の心臓の音がやけにはっきりと聞こえてきた。


「フェリシー様!!」


 フェリシーに駆け寄ろうとしたヴィヴィはジョージに腕を引かれて止められた。


「はっ、離してください!!!」


 男性に触られ、反射的に暴れだしたヴィヴィの腕がジョージの顎に偶然にも的確に打ち込まれた。顎からの衝撃に脳を揺さぶられたジョージはよろけながらその場に倒れこんだ。


「はぁはぁ、い、いきなり触るからですよ!」

「なっ、殴っておいてそれですか……」


 ヴィヴィは倒れながら抗議をするジョージを無視して、改めてフェリシーに駆け寄ろうとした。が、足が何かに当たって転んでしまった。


「いたたっ、一体何が……」


 ヴィヴィは何につまずいたのかと足元を見ると、ジョージが自分の足を掴んでいた。


「なっ、なっ、何してるんですか!!」

「だから野暮ですよ。ここで近づくのは」

「離してください!」

「だから、もう少し待って……!!」


 ヴィヴィがジョージの手を振り払おうと足をばたばたさせていると不意にジョージの目が見開かれた。


「黒とは!? これは意外でしたね」

「へっ?」


 ヴィヴィは最初、ジョージが何を言っているのか分からなかった。が、ジョージの視線を辿ると自分のスカートの中へと真っ直ぐ向かっていた。


「あっ……あぁ……キャァァァァァァァァァァァァァァ!!」


 ヴィヴィは堕天使と対面した時ですら上げなかった叫び声を上げて、足をばたばたと動かした。その内の一発がジョージの顔に直撃した。


「ぐあっ! ちょ、ちょっとシスター!」

「キャァァァ!! ギャァァァァ!! ヘンタァァァイっ!!」


 ヴィヴィは正気を失って足を動かし続ける。その度に数発の蹴りがジョージの顔に直撃する。唖然としていた修道女達もようやくヴィヴィの状況に慌てだした。


「騒がしいな。殺すか?」


 メフィストは当たり前のように発した言葉にヴィヴィ以外の全員が動きを一斉に止めた。


「メフィスト、冗談か?」

「冗談だ、冗談。そいつらなど殺しても少しも楽しくはない」


 冗談に聞こえない言葉を吐きながらメフィストは愉快そうに笑みを浮かべた。その笑顔にシスター達は背筋を凍りつかせた。メフィストが決して味方などではないと本能で悟った。


「さて、私はそろそろ帰るとしよう。我が王にユーリの事をお伝えしなくてはな」

「王には俺が自分で伝える。余計な事をするな」

「ユーリ、その姿で魔界に戻るつもりか?」

「見た目は関係ない。俺の王はあのお方だ」

「その忠義心は素直に賞賛しよう。だが、何も知らぬ悪魔から見ればお前は敵だぞ」

「襲いかかってくるなら相手をするだけだ」

「ユーリ、どこかに行っちゃうの?」


 フェリシーは思わず声を出した。せっかくこの想いに気付いたというのに、想い相手であるユーリがいなくなってしまうという事に我慢ができなかった。


「魔界に戻る。俺自身に起きた事を我が王に報告しなくてはな」

「ど、どうしても……」

「ああ、メフィストに任せてはおけん」

「信頼されていないようだな。私は」

「貴様を信頼したことなど一度もない」


 ユーリの侮蔑の言葉に、メフィストは笑みを浮かべて答えていた。メフィストにとって友人であるユーリの言動全てが楽しみの対象だった。ユーリはメフィストの態度が気に入らないようで、不機嫌そうに顔を背けた。


「…………」


 フェリシーは言葉を迷っていた。行かないで欲しいと言いたい。だが、それは自分の一方的な想いで、ユーリにとって迷惑なだけなのかもしれないと。


「では、行くとしようか」

「ああ」

「っ!?」

(言わなくてちゃ! 何かを! 二度と会えないかもしれないんだから!)


 フェリシーは慌てて言葉を口にしようとするが、最後の最後で勇気が出ない。


「おお、忘れる所だった。ユーリ、聖女にお前が昇天した理由を聞かなくて良いのか」

「ん? ああ、そうだな」


 フェリシーが言葉に迷っていると、ユーリがフェリシーの目の前まで歩いてきた。近づいてきたユーリをフェリシーは見上げる。


「フェリシー」

「は、はいっ!」

「俺がこの姿になった理由を君が知っているなら教えて欲しい」

「そ、それは……」 

(私がユーリを好きになったからユーリは天使になった。なんて素直に言える訳がないよ。恥ずかしすぎる。そして……そして断られるのが怖い。ユーリに人間である私の感情なんて別にどうでもよいものだったらどうしよう) 


 ユーリは口を閉ざして俯いてしまったフェリシーの様子に疑問を抱きながらも何も言わずに待った。ユーリはフェリシーが言葉を発するまでいつまでも待つつもりでいた。

 無言の時間が流れ、しばらく建物の燃える音だけが響いていたが、ふいに大勢の足音と鉄のぶつかり合う音が聞こえてきた。


「兵士達が救援に来たようだな」

「え?」


 ユーリは正門の方に視線を向けた。その場にいる全員が正門の方に注意を向けると、フェリシーや修道女達を呼ぶ兵士達の声が聞こえてきた。


「どうする。ユーリ。助言をするならこのままここにいるのは問題だと思うが」

「お前の意見に賛成するのは気に入らないが、その通りだ」


 ユーリとメフィストがフェリシーと修道女達から離れるように歩き出した。


「ユ、ユーリ!?」

「フェリシー、名を覚えていてくれたならまた会おう」


 ユーリは相変わらずの無表情で別れを告げると翼を羽ばたかせてメフィストと一緒にその場から飛び去っていった。フェリシーは別れの言葉を告げられぬままユーリの飛び去っていった方向に空しく腕を伸ばした。フェリシーが伸ばした腕の方角の空からはユーリの翼から抜け落ちてきた羽が名残惜しそうに舞い落ちてきた。


「忘れないから……絶対にまた会いに来て、ユーリ」


 フェリシーは舞い落ちてきた一枚の羽を強く掴んで、ユーリとの再開を願った。

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