第7話 出会い再び
カーテンが閉め切れた薄暗い部屋の中、フェリシーはベッドに顔うずめるようにして泣いていた。
部屋にはフェリシーのすすり泣く声以外は何も聞こえなかった。部屋まで一緒に来たヴィヴィはフェリシーをベッドまで連れて行くとなんとか慰めようと言葉を捜したが、いい言葉を見つけられず、気まずそうに先程そっと部屋を出て行った。
(……私のせいだ、私のせいなんだ。私がシスター達を呼びに行ったりしたから、あの人が呼ぶなって言ったのに私が呼んだせいで……。私が殺してしまった。私のために薬草を持ってきてくれたあの人を……ただ本を読んでいただけなのに、私が偶然会ってしまっただけなのに……)
人の死と遭遇することは前にもあった。亡くなったのは当時修道長を務めていた老女だった。フェリシーはもちろん、修道女の誰に対しても優しい聖母のような人だっただけに修道女全員がとても深く悲しんだ。
(だけど、今度は……。おばあちゃんは病気で亡くなったけど、あの人は自分のせいで死んでしまうんだ)
フェリシーの心に罪悪感がどんどん積もっていく。すべての人が自分のせいで死んでしまうのではないかという考えすら頭に浮かんできた。
フェリシーはついに耐え切れなくなり、赤ん坊のように大声で泣き出した。部屋中に響き渡る泣き声は当然外にも聞こえているだろうが、誰もフェリシーの部屋を訪ねてこない。皆、今のフェリシーにどんな言葉をかけたらいいのか分からないのだ。
どれくらい時間が経ったのか。気づけばフェリシーの泣き声は掠れて涙も出しつくしたかのようにもう流れていなかった。フェリシーは手にしたシーツをぎゅっと握り締め、掠れた声で再び泣き始めた。
「泣いているのか?」
突然、誰もいないはずの部屋の隅から男性の声が聞こえてきた。フェリシーは驚いて声が聞こえてきた方に顔を向けると、そこにはパルノン山で出会った青年があの時と同じ服装で部屋の隅に立っていた。
「ッ!……」
フェリシーは驚いて大声を上げたつもりだったが、喉からは掠れた声しか出てこなかった。幻か、幽霊かと思ったフェリシーは泣きすぎて充血した眼を擦って青年をもう一度よく観察する。とりあえず足はあった。体もはっきりと見えていてぼやけた感じはしなかった。顔は以前と変わらず無表情だが青白くはなかった。そこまで確認してフェリシーは夢かと思い、自分の頬を強くつまんだ。
頬から走る痛みにフェリシーの顔が歪む。
「……い、生きていたんだ」
ようやく喉から言葉が出てきた。すると言葉に続くかのように目頭が熱くなり、出し尽くしたはずの涙が流れてきた。
「何が理由で泣いているんだ。悲しいのか?」
「か、悲しいんじゃなくて、うれしいの」
流れてくる涙を拭うフェリシーの顔は笑っていた。青年が生きていたことに安堵したフェリシーは体の力を抜き、大きく息を吐いた。
「涙を流しているのに笑っている。なぜだ」
「え?」
フェリシーは自分の様子に対する質問をされて、どうしてそんな質問をしてくるんだろうっと思った。そして答えようと考えている内にふっと疑問が沸いてきた。
ここは聖女であるフェリシーの部屋だ。
扉は閉じているし、窓はカーテンが未だに締め切ったままの状態だ。開いた様子は一切ない。それに隣接している教会の聖堂ならまだしも、ここは修道院の中である。一般人が容易に入れる場所ではない。加えて部屋のある修道院の棟は男性の出入りが禁止されていて、司祭のジョージですら入ることができない。
(あれ、この人!? どうしてここに!?)
「なぜだ」
「あの、その質問に答える前に私から質問いいですか」
「ああ、別にかまわない」
質問の内容に大した執着もなかったらしく青年は壁に背を預けるとフェリシーの質問を待った。対するフェリシーはごくっと唾を飲み込み、疑問を口にした。
「ど、どうやってこの部屋に入ってきたんですか」
「こうやってだが」
青年は何食わぬ顔で壁に手をついた。
それでっと言おうとしたフェリシーの口が中途半端に開けられたまま固まる。青年の手が壁に沈んでいたのだ。青年は相変わらず無表情のまま二の腕の辺りまで腕を壁に沈めると今度はゆっくりと引き抜き始めた。壁から再び現れた青年の手はどこも変わった様子もない。
フェリシーはベッドから降りるとゆっくりと青年のいる場所に向けて歩き出した。本当なら走り出したい気分だったが、青年に感じるおかしな気配がそれをさせなかった。青年はフェリシーが自分に近づいてきたのを見ると、急ぎ足で壁から離れてフェリシーと一定の距離を保つようにして立ち止まる。
先程、青年の手が沈んだ壁に手を付いて何度か触った後、今度は片手を壁に付け力の限り押してみた。
「えいっ!」
しかし、フェリシーの手が壁に沈んでいくことはなかった。逆に下手に力をかけたせいでフェリシーは手首を少し傷めてしまった。フェリシーは痛みを払うように手首を振ると青年に向かって振り返った。その顔には期待と興奮が入り混じっていた。
「ど、どうやったんですか! 今の!」
「待て、そこを動くな」
詰め寄ろうとしたフェリシーに静止を命じると、青年は両手を前に突き出し何かを探るようにしてフェリシーに近づいてきた。フェリシーは何をしているんだろうと思いつつ、言われたとおりじっとしていた。一歩一歩慎重に近づいてくると青年は前に突き出していた両手を引き、フェリシーと二メートルほど距離を取って青年は立ち止まる。
「この距離か……」
「あの」
フェリシーが何をしているのかと尋ねようと前に一歩踏み出した瞬間、青年はそっとフェリシーの踏み出した一歩分後ろに下がる。青年の行動に疑問を抱きならもう一歩踏み出すと、青年は再び一歩後ろに下がる。少し間を空けた後、今度は三歩前に歩いてみた。するとやはり青年も三歩後ろに下がった。同じように右に数歩進めば、青年は右に数歩、次に左に数歩進めば、青年は左に数歩と、フェリシーはまるで鏡でも見ている気分になった。
「キシャーッ!」
不意にフェリシーは奇声を上げつつ、両手を真上に伸ばした。青年も真似をしてくれると思ったのだ。しかし。
「何をしている」
青年は両腕を組んで真面目な顔でこちらを見ているだけだ。
フェリシーは腕を下ろすと少しむっとした顔で一歩踏み出した。青年はそっと一歩後へ下がった。フェリシーはその動作を確認した後、再び腕を真上に上げて奇声を上げた。
「キシャァーッ!」
「何をしている」
「キシャァァーッッ!!」
「何をして」
「キシャァァァーッッッ!!!」
「何を」
「キシャァァァァーッッッッ!!!!」
「な」
「キィィシャァァァァーッッッッ!!!!」
「……」
「キシャー! キシャー! キシャー!」
青年はやっとフェリシーが自分の真似をして欲しいのだということに気付いた。気付いたからといってどうすることもないのだが、このままずっと目の前で奇声を上がられ続ければ、誰かが来るかもしれない。それは良くないと思った青年は仕方ないという顔をしながら腕を真上に上げると奇声を上げた。
「きしゃー?」
フェリシーと比べて声の大きさも元気もなかったが、満足したのかフェリシーは腕を下ろしてベッドまで歩くとゆっくりと腰を下ろし、やりとげた顔をしてほっとため息をつく。
「……って、そうじゃなくて」
フェリシーは急に腰を上げて青年に向かって数歩踏み出した。青年はフェリシーの予想外の行動に驚いたらしく、慌てた表情で後ろに下がった。
「あの、どうして逃げ……」
青年にどうして自分から逃げるのかっと言おうとしたフェリシーの言葉が止まる。
妙な匂いがする。今まで嗅いだことのない、だが嗅いでいるだけで気分が悪くなる匂いだ。いったい何の匂いと思ってフェリシーが周囲を見渡すと、青年が右手を押さえてうずくまっていた。見ると青年の右腕からは湯気が立ち上がり、火で炙られたかのように爛れていた。、指先の方はさらに酷く黒く焼け焦げている。
確か初めて青年と出会った時も同じようなことが起こっていた。あの時も今のように腕が火傷したように赤くなっていた。
「だ、大丈夫ですか!」
「来るな!」
駆け寄ろうとしたフェリシーを青年は無事な左手で制止した。青年はフェリシーが立ち止まったことを確認すると壁に寄りかかるようにしながらゆっくりと立ち上がった。
「い、いったいどうしたんですか? その怪我、この前も同じような事が」
「聖域」
「え?」
「そう呼ばれているものが君の周りには展開されている」
「聖域? 展開?」
フェリシーは首をかしげた。そんなものが自分の周りにあるようにはとても思えない。
「自分でも分からないか。無理もない。俺でさえ実際に触れるまで聖域の存在に気づかなかった。まったく、単なる噂だとばかり思っていたが……」
「な、何なんですか。その聖域って。確か聖域って場所のことを言うんじゃ」
「基本的にはそうだ。だが、稀に自分の周囲に俺のような悪魔が入ることのできない聖域を張ることができる人間がいるようだ。君ように」
「へぇ~、そうなん……え?」
なんとなく分かったふりをして頷こうとしたフェリシーの動きが止まる。今、何か重大なことを目の前の青年が言ったような気がした。
「今なんて?」
「君のように聖域を張ることができる人間」
「もっと前!」
「基本的には」
「戻りすぎ!」
「注文が多いな」
青年は軽くため息を付いた。ひょっとしていじめられてるのではっとフェリシーは思い、少し落ち込んだが、すぐに気を取り直し本題へと入る。
「ええっと、『俺のような』の次です」
「悪魔」
青年はさらっと答えた。まるで朝の挨拶をするかのように。対するフェリシーは目を見開いて固まってしまった。しきりにまばたきをしながら再び青年の体を観察した。
(顔は……綺麗に整っていて肌のつやも良い。特に変わった箇所なし。体。特に鍛えている感じはないけど、非力って感じじゃないかな? 特に変わった箇所なし。手。火傷していない左手は爪が綺麗に切られていて、顔同様に肌がつやつやしている。少し羨ましい。特に変わった箇所なし。足。すらっとしていてジョージより長いかな。これで見た目の身長がジョージと同じくらいだから、ジョージって寸胴……。 特に変わった箇所なし)
どこをどう見ても普通の青年にしか見えない。
フェリシーの目が次第に疑いの眼差しとなって青年に向けられた。
「本当に悪魔……なんですか?」
「なんだ、その完全に信じていない目は」
「だって、特に変わった所ありませんし」
「変わった所か……獣の姿になることもできるが、これはどうだ」
青年は少し悩んだ後、小さく息を吐いて目を閉じた。そして次の瞬間、青年の背中から左右に黒いこうもりのような翼が飛び出した。いままでどこに隠していたのかと問いたくなるほどの大きさだった。翼の片方が部屋の壁に沿って曲がっており、少し窮屈そうだ。
「どうだ。これで」
「……」
フェリシーが黙ってしまったのを見て青年はしまったと思った。大抵の人間はこの翼を見た途端、恐怖に顔を歪めてその場から走り去ってしまう。目の前の少女もきっと逃げていってしまうなっと青年は思った。
「す、すごぉぉぉい!!」
「……」
フェリシーの予想外の反応に今度は青年が黙ってしまった。いままで脅えられたり、敵意を向けられたことはあったが今回のような反応は初めてだ。
「怖くないのか?」
「怖い? なんでですか?」
「いや、この翼を見た人間は大抵脅えるんだが」
「だって、すごいじゃないですか」
そう言ってフェリシーは一歩踏み出した。当然、青年もフェリシーの動きに合わせてから一歩離れる。
「あの~」
フェリシーの表情が不機嫌になった。翼を触りたいのか手を空中で必要以上に動かしている。
「無理だ」
「まだ何も言ってません」
「翼に触れたいのだろうが、俺は君にこれ以上近づくことはできない。どうやら君の聖域は君を中心にして円柱状に展開されているようだ。今の俺の位置が君に近づける限界の距離だ」
「近づいたらどうなるんですか」
「こうなるどころではすまないだろうな」
青年は赤く爛れた右手を掲げた。
「少し触れただけでこれだ。聖域の中に入ったりすれば五体無事ではすまないだろう」
「あの、い、痛いですか」
青年は既に平然とした顔をしているが、右腕は痛々しく見ているだけで、なぜか自分の右腕が痛くなってくる。
「大丈夫だ。完治には二、三日はかかるだろうが、別に行動に問題はない」
「二、三日って、たったそれだけで直るんですか」
「大抵の傷なら一瞬で治るが、聖なる力で負わされた傷となるとそれくらいはかかる」
「一瞬ですか……」
「俺達の体は君ら人間には想像できないほど丈夫だ。気にすることは……?」
青年は何かに気づいたように扉の方に顔を向けた。
「誰かここに向かってきている」
「え?」
青年に言われてフェリシーは廊下の方に耳を傾けるが、別に足音は聞こえてこない。フェリシーが廊下に耳を傾けている間に青年は翼をローブのように身に纏うとフェリシーとの距離を保ちつつ窓際の壁へと歩き出した。壁へと歩いていく青年の姿を見て、フェリシーは急いで声をかけた。
「あの……」
「邪魔をした」
壁に付いた青年の手が沈んでいく。
「あのっ! また来てくれますか」
青年の動きがピタッと止まった。ゆっくりとフェリシーの方を振り返った顔は困惑の表情をしていた。当人のフェリシーでさえ、自分がなぜそんなことを言ったのか分からなかった。青年は悪魔だ。本当なら今すぐにでも修道女なり、司祭にこの事を伝えに行かなければならない。そしてもう来ないようにとお払い等をしなければならないのが常識だ。青年もそう思っているようで真面目な顔をして口を開いた。
「何を言っている。俺は君達、聖職者の敵だぞ」
「……そうなんですけど、普通はそうなんでしょうけど、私はあなたになら……また会いたいなって」
(なんだ。この娘は……普通とは違う。いままで出会ったどの人間とも違う)
青年はまた会いたいというフェリシーの言葉に胸の奥が少し暖かくなるのを感じた。
「ユーリ」
「え?」
青年は言葉を放つと壁に沈んでいた腕を引き抜き、フェリシーと向き合った。
「我が名はユーリ。また会う時までその名を覚えておいて欲しい」
ユーリは壁に背を付けるとそのまま体を壁に沈ませていく。フェリシーは大きく一度頷くと、はいっと返事を返した。
「フェリシー様! 大変です!」
ヴィヴィが部屋に駆け込んでくるのと同時にユーリは壁の中へと消えていった。
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