第10話 殺し屋×パパ
小鳩が言った。
「ねぇ、パパ」
進藤歩の握っていたジュースの缶が落ちる。オレンジの炭酸水が足元に飛び散り、彼の足元を汚した。
もちろん彼はパパではない。孤独死候補の独身である。小鳩の世話をしているのも借金があるから。彼女の部屋にいるのも待機を命じられているからだ。決して彼女は娘ではない。
星街小鳩は殺し屋である。最悪の殺し屋である夜鷹を殺し、最強の殺し屋となった。ただし、彼女は十五歳。
間違えて先生のことをパパと呼んでしまうこともある。
「……」
「……」
彼女は手にしていたアルミ製のスプーンを逆手に持った。
「待て待て待て!自分のミスを人のせいにするんじゃない!」
「でも、私のミスを聞いたのは、歩のミスだよ?」
「最低だお前!道徳の授業に昼寝してたのか⁉」
殺し屋に殺す理由を聞くのは無粋である。そもそも命に対して軽く考えているから殺し屋をやっているのだ。
それでも、ちょっとした言い間違いで殺されることに納得できるはずがない。いくらなんでも人間の価値が下がりすぎだ。
「落ち着け。俺は何も聞かなかった。お前は何も言わなかった。それで終わりにしよう」
「そうしようか、パパ」
小鳩はスプーンの先端を歩の喉元に突き付ける。
「終わらせる気ないだろ」
「終わらせるつもりだよ」
「……そっかー」
それならしょうがない、とあきらめる気にはならない。何とかして生き残る方法はないか必死に考えていた。
意外にも救いの糸を垂らしたのは小鳩だった。
「一つだけ、生き残る方法をあげるよ」
彼女はスプーンを置いた。片肘を机の上に載せ、頬を手にくっつける。もう片方の手はテーブルを叩く。中指、小指、人差し指と不規則な順番で動かしていた。いつもの彼女の癖だ。
「推理して。私のパパがどんな人か。どんなことでもいいよ。カレーが好きとか、朝が苦手とか、どんな情報でもいい。間違っていなければ、助けてあげる。制限時間は三分ね。よーい、ドン」
歩は安堵のため息をついた。
どんな情報でもいいなら簡単だ。
『パパは男』でもいいし、『パパは夜に寝る』でもいい。
歩は自信満々に言いかけ、直前で止まった。
本当に彼女のパパは男なのか?
決してふざけているわけではない。ただ、万が一の可能性もある。
星街小鳩は殺し屋である。
人を殺してはいけない。そんな人間の常識を壊す存在だ。
殺し屋のパパを常識的に考えてはいけない。もしかすると男でないかもしれない。夜に寝ないかもしれない。
そもそもパパに会ったことが無い、という可能性もあり得る。質問自体が引っかけで、答えた瞬間にゲームオーバー。
だとすれば、『パパに会ったことが無い』というのが答えになる。確かに殺し屋の人生としてはふさわしい。父親を殺された子供が復讐のために殺し屋になる。よくある映画の展開だ。
「残り二分」
歩は頭を左右に振った。考えすぎだと頭ではわかっている。小鳩がパパに会ったことのない可能性より、パパが男である可能性の方が高い。
しかし、どうしても疑ってしまう。殺し屋の彼女が、彼の命を救う問題を出すのだろうか。
言葉が出ない。こんな簡単な質問に答えることすらできない。
歩には、あと一歩踏み出す勇気が足りなかった。
小鳩はテーブルを叩く指を止めた。
「残り一分。ヒントあげるよ」
歩が顔を上げる。目の前にはいつもの彼女がいる。
笑みを口元に浮かべているのに瞳は笑っていない。
底が見えない真っ黒な瞳。
しかし、その深淵の中に、彼は一つの感情を見出した。
彼女の瞳が語っている。
「私を見て」
思いがけない子供の一言に、大人が学ぶこともある。
彼は大きな間違いに気が付いた。
常識は正しくないかもしれない。
殺し屋のことなど歩にはわからない。
たった一つ確かな存在は、目の前にいる小鳩だけ。
彼女のパパは存在する。
彼女の言葉に、振る舞いに、彼女の父親は生きている。
「わかったよ。お前のパパは」
テーブルを叩く小鳩の指。中指、小指、人差し指。一見無秩序に見えるその指さばきは、ある一つの法則に基づいている。
楽曲だ。
「お前にピアノを習わせてたんだな」
ピアノを習っていた子によくある癖。机やテーブルを鍵盤のように叩く。幼いときの癖は殺し屋になったとしても消えるわけじゃない。たとえ、弾くのが引き金に変わったとしても。
彼女ははぁ、とため息をついた。
「……ほんと鈍いんだから」
「んで、ピアノはいつ聞かせてくれるんだ?」
「弾かない。八歳のころから練習してないんだよ?」
「それでもいい」
「私がイヤなの。パパが天国で泣いちゃうわ」
「……喜ぶさ」
「喜ぶわけない」
彼女は言った。
「私が殺したんだよ?」
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