明日の空は、青い?

青い空が見たい。陸と空の境界がはっきりとしているあの青い空が見たい。6月ももう終わるというのに、まだ境界の分からない、ぼんやりとした空が私たちを包んでいる。最後に雲一つない青いあの空を見たのはいつだっけ……。このパーカーの色が偽物であるかと思えるほど、心も空も淀んでいる。


 制服からちらっと覗く痣を見て心は更に曇る。痣を模しているようなこの厚い雲のかかったこの空が大嫌いだ。厚い雲が無くなったら私の痣も無くなるのかな……なんてね……。毎日毎日、今日という1日を生きることに精一杯な私馬鹿にしているのかな……なんてね……。


 初めて殴られたのがいつだったかはもう憶えていないな。気性が荒く、酒癖も悪い父親に耐え切れず何も言わずに出て行った母親とかいうやつの顔も思い出せない。年を重ねる毎に母親に似ていく私が気に食わないのか、ただただ機嫌が悪いのか……どちらにしてもただの八つ当たりだよ。高校に入ってからその行為はエスカレートしていき、正直なところ、私はもう限界だった。死にたい、消えたい、と思ってあまり人のいない美術室へ行くと、難しそうな顔をして絵を描いている男の子がいた。美術室は別の棟にあって私の教室からよく見える。クラスは違うけど同じ一年生の君は毎日遅くまで絵を……美しい青空の絵を描いている。あんなにうまいのに納得のいかないような顔をして、毎日、片づけをして帰っている。君がここにいることをすっかり忘れていたよ……死に損ねたじゃないか……。君のことは一生許さないって思ったけど、どうして空を描くのか、どうして納得がいかないのか、君のことを知りたいなと思った。


「ねぇ、何してんの?」


扉を開きながらそう言うと彼は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしてこっちを向いた。


「空……」


質問に答えてくれるのかと思ったら、私の名前を呼んでそのまま黙ってしまった。


「え? 何? 呼んだ?」


返事はない。返事はしないのに私をまじまじと見てくる……不思議な人だ……。


「いつまで見てんの? 話聞いてる? 何してんの!」

「何って……見ればわかるでしょ。絵を描いてるんだ」

そんなの見たらわかるんだよ、ちゃんとどうして毎日遅くまで空を描いてるのって聞くべきだったのかな……君は不思議な人だね、別にいいんだけどさ。


「ふーん、絵ねぇ。確かに、ここ美術室だもんね。そりゃ絵描いてるか」


意味のわからない返答をして扉を閉めないで彼の傍の机に座る。やっぱりそこには空がある。どうして空を描いてるって言わないのかな。ここ三週間くらいずっと空しか描いてないじゃん。


「空、描いてるの?」

「……うん。でも、こんなもの空じゃないよ。偽物だ」

「そう? 私はその絵を見てすぐに空だなあって思ったけどね」

「……」


何か言いたげな顔をして俯いてしまった。何かいけないことを言っちゃったのかな……私にはわからないや。キャンバスには空しか描かれていないのに、パレットにはたくさんの色が出されている。これから陸を描いてくれるのかなって思ってキャンバスに再び目をやるけどそんなスペースはないし、彼にこれ以上描くという気配は感じられない。ますますわからなくなっちゃった。


「パレットにはたくさん色があるのに、全然描き進められてないんだね。スランプってやつ?」

「本物の空が描きたいんだ。それなのに、最近ずっと雲がかかっているから何も見えない」

「そうだねー。じめじめしてて嫌だよねえ、わかる」

「別にそんな話をしてるわけじゃーー」


「私のこと、描いてくれない?」


無意識にこの言葉を放った自分に驚いた。こんなもの空じゃない、本物の空が描きたい、なんて言うくらいなら私を描けばいいのにって考えていたらそのままそれを口にしてしまった。


「……は?」


意味がわからないって顔をしながら君はこっちを向く。一瞬私の顔を見るがすぐに目線を落とす……なんだ、私じゃなくてこのパーカーを見ていたのか……


「私の名前、空っていうんだ。本物の空が描きたいんでしょ? ほら、私が本物の空だよ。ねえ、私のこと、描いてくれないかな」

「意味がわからないよ。人物画なんて描いたことないし、僕、絵下手だし……」

「下手とか上手とかどっちでもいい。私は、君に描いてほしいの。お願い」


どうしてここまで名前もわからない彼にこだわっているのかはわからない。どうして自分のことを描いてもらおうとしてるのかもわからない。描いてもらっても、遺影になるだけなのに……


「……わかったよ。でも、絶対にそのパーカーを着たままの君しか描かないからね」

「本当に空が好きなんだね。いいよ、描いてくれるならなんでもいい」

「じゃあ、そこの窓に寄っかかって。できるだけ、動かないで」

「話しかけるのは?」

「……別に、いいけど」


言われた通り壁に寄りかかって、キャンバスと私とを交互ににらめっこする君を見つめる。意味がわからないとか言って嫌がっていた割に、楽しそうな顔をして描いている。私がこのパーカーを着ていなくても彼はこんな顔をしていたかな……そもそも描いてくれてなかったか。すごい音で鉛筆を動かしながら何度も消して、描いてを繰り返している。しばらくは邪魔しないように黙って鉛筆と消しゴムを持ち替える回数を数えていたが、ふと、疑問が浮かんで我慢できず口を開いてしまった。


「そういえばさあ、君の名前はなんていうの?」

「別に名前なんて君に関係ないじゃないか」

「せっかく描いてもらってるんだから、君のこと名前で呼ばせてよ」

「……陸」

「いい名前じゃない。多分」

「多分ってなんだよ」


適当に返したけど、陸かあ……陸、陸。空と陸、ここで会うのが偶然じゃなくて必然だったんじゃないか……って思っちゃうくらい運命を感じた。何回も声に出して呼びたくなる。私の大好きな空と陸の境界、陸は描いてくれるのかな……


「空と陸でなんだか運命みたい。ね、陸も私のこと空って呼んで」

「……わかったよ、空」


幸せな気持ちを遮るように、最終下校時間を知らせるチャイムが鳴る。しまった……今日は父さんの帰りが早い日だ……急がないと、急がないと……。震える手足と陸の驚いた顔を無視して慌てて美術室を飛び出した。ごめんね、陸。


恐る恐る家に入ると、扉を閉めると同時に叫ばれた。今日は早く帰らないとだめな日だってことはわかっていたじゃないか……。涙を流さないよう、声を出さないよう、降りやまない暴力と罵声に耐えている時、ふと早く陸に会いたい、という気持ちが浮かんだ。早く会いたい、空を完成させてほしい、急に帰ったことを謝りたい……陸のことだけを考えながら私は意識を手放した。


「ごめんね。早く家に帰らなきゃいけないの忘れててさ」

「別に、いいよ。とりあえず、昨日と同じところで」

「わかった」


昨日と同じように陸は鉛筆を持って描きだした。私とキャンバスを交互ににらめっこしているが、昨日よりは眉間の皺が薄い。目がずっと合っている気がするけど、隈に気づかれちゃったかな……陸に限ってそんなことはないか。今日父さんは帰ってこない。遅くまで殴った次の日は帰ってこない、それは初めて手を挙げられた時からずっと続いていること。自分の罪を少しでも軽くしようとしているのかな……なんてね。帰ってこないとわかっていてもあのチャイムが鳴ると暗い気持ちになる。わかっていても早く帰らないと、という思いに支配されてどうすることもできなくなる。なんで生きてるんだろ……父さんもどうせ殴るんだったら殺してくれればいいのに……。でもそうすると父さんが罪に問われるから殺さないのか……自分が一番だもん、私なんて殺すに値しなーー


「……ねえ」

「何?」

「なんで、急に話しかけてきたの?」

「ああ……。うーん」


初めて陸が話しかけてきた衝撃と、急に沈黙が壊されたことへの衝撃で、目をらしてしまった。なんで話しかけたかね……。言えるわけがないじゃん、死のうとしたらそこに人がいた、なんて。偶然そこにいただけだし、私が一方的に認知していただけだし。陸が少し不安そうな顔でこっちを見てるのに気づいて、慌てて顔をあげる。


「君の描いている空が、すごく綺麗だったから」

「……」

「君がこの美術室で、ずっと空を描いているのを窓越しに見てた。最初、どうして空は曇りなのに青空が切り取られてるんだろうって思った。でも君がキャンバスに筆を乗せていくのを見て、これって絵なんだって驚いたんだ」

「……そう、なんだ」


涙っぽい目をしたかと思ったら急に下を向いて、そのまま黙ってしまった。また、何か気に障ることを言っちゃたのかな。悲しいのか、嬉しいのか、それとも怒っているのかはわからないけど、陸が泣きそうだってことだけはわかった。キャンバスに隠れてしまったから何もわからないけど、私はこの沈黙に耐えれなかった。


「陸はなんでそんなに空が好きなの?」

「物心ついた時から人と関わることが苦手だったんだ。誰とも仲良くなれなくて、昔から独りぼっちで絵を描いてるだけの日々だった。失敗だって多い人生だ。僕はずっと鈍くさかったから。でも、それでも空は青いんだ。孤独な日も、怒られた日も、少しだけ楽しかった日も、空だけは変わらない。あの青くて深い空の前には僕一人の感情なんてちっぽけなものなんだって、そう思える。だから青空が好きなんだ」

「……空の前には、ちっぽけなもの、か。なんだかすごくいいね、上手く言えないんだけどさ」


顔は最後まで上げてくれなかったけど陸は空への思いを語ってくれる。きっと私の空と陸の境界への思いと同じなんだな……。自然と顔が緩んでしまう。厚い雲みたいな表情をしている陸とは反対にきっと今の私は雲から覗く日差しみたいな顔をしてるだろう。


そこからはずっと互いに無言のまま、時計と鉛筆の音だけが響き渡っていた。陸の言葉通りできるだけ動かないように、じっと立っていた。時々顔を上げる陸の顔はとても満足気で、なんだかうれしい気持ちになった。鉛筆を置いて何か言いかけた時、チャイムは鳴った。


「私、もう帰らなきゃ」

「……そうだね。じゃあ、また明日」


何か言いたそうな顔をしていたが、陸の口は開かなかった。何を言おうとしてるのか、なんとなく予想はつくんだけどね……。


ずっと曇っていたけど、静かで少し話をする時間が一週間くらい続いた。家のことを忘れて話に、描く音に没頭できるこの時間が大好きだった。人といるのがこんなにも楽しくて、心地のいいものだって初めて知った。陸のおかげで知ることができた。趣味や空模様、太陽のことをたくさん話した。陸から話を振ることもあったのに、絶対になんで私がチャイムを聞くと慌てて帰るのかは聞いてこなかった。聞いてほしいわけじゃないけど、毎日帰る時、何か言いたげな顔をして俯く君のことがよくわからなかった。

 去り際にちらっと覗いたキャンバスに描かれている二つの空は素人の私から見ても、もう完成は近いんだとわかるほどに美しいものだった。現実の空は厚い雲が覆うぼんやりとしたものだけど、キャンバスの中の空は本当に美しかった。窓辺に寄りかかる私と、その向こうに広がる青い空。全然下手じゃないじゃん……陸の嘘つき。

今日父さんは帰ってこない。そして、きっと明日にはあの絵が完成する。私は珍しく、いや、初めてこんな幸せな気持ちで家に帰っている。鼻歌を歌いながらスキップできそうなくらい浮かれている。このまま空も晴れてくれればいいのにな……と呑気に考えながら自室の扉を開けると父親がいた。どうして玄関で気がつかなかったのか、どうしていないと確信していたのか、どうして……どうして私はこんなにも報われないのか。

そこで、私の部屋で、何が起きたのか私はきっと誰にも言えない。痛い暴力にも耐えてきた、心無い言葉にも耐えてきた……でも、さすがにもう限界だった。それ以上はされないと思っていたし、興味がないと思っていた、勝手にそうだと、そうであればいいと信じていた。

なんで私は生きているのか。死ねって何回も言われてきたんだから、いらないって言われてるんだから消えればいいじゃん。そうだよ、死ねばいいんだよ。そうすれば父さんは幸せだし、私も救われるし……もうだめなんだ。空は本当に青かったのかがわからなくなるくらい毎日雲は厚いし、少しずつ雲の薄くなってきていた心にもまた厚い雲がかかったし……ごめんね、陸。

あの綺麗なキャンバスを見て、私と陸の思い出の場所で、この思い出とこの世界にさよならしよう。


三階へ向かう足がこんなにも重いのは初めてだな……。なんとなくで始めたこの関係、この時間が私の心の支えになってたんだよね、きっと。たった一週間ちょっとだったのに、まだ六月は終わってないのに私の心は陸とあの絵で埋め尽くされていた。三階って意外と高いんだね……怖いよ、私怖いよ。でも、消えないとだめなの。もう耐えられないし、汚された私なんかここに居ちゃだめ、神聖なこの空間まで汚くしちゃう。お別れだよ、陸。私のこと、見つけてよ……なんてね。

腹を括って飛ぼうとした時、ガラガラ、と扉の開く音がした。


「あ」

「そ、空……?」

「見つかっちゃった。いや、見つけられたかったのかなあ」


勝手に涙が流れて止まらない。最後にこうやって泣いたのっていつだっけ……私、まだ泣けたんだ……。驚きと混乱が混ざったような表情で陸は私を見る。ごめんね、そしてありがとう……。陸のおかげで私はちゃんと人間だってことがわかったよ。


「何か、あったの? どうして急にそんな……」

「なんでもないよ。ちょっと嫌なことがあったから死にたかっただけ」


そんな顔しないでよ。私だって陸とまだいたいよ。いっぱい話したいし、完成した絵も見たいし、陸と青い空が見たいよ……死にたくないよ、死ぬのが怖いよ。でも、だめなの。泣きながら頑張っ笑顔を作り震えてる足で答える。陸、聞くなら今だよ……。でも、きっと言わないよね、それが陸だもん……。


「……いつも最終下校のチャイムが鳴るたびに嫌な顔をする理由と、何か関係あるの?」

「あはは、わかってたんだね。バレないって思ってたのに」

「なんであんな顔してたの」

「お父さんと仲が悪いだけ、それだけ」

「それだけなんてーー」

「それだけってことにして。お願い」


強く言うと、陸はそれ以上追及してこなかった。

本当のことなんて言えるわけないじゃん。言いたいけど、言いたくない……言えないよ。

陸ってやっぱり不思議だよね……。いつもは興味ないみたいな顔してるのにさ……今自分がどんな顔してるかわかってるのかな。私よりも苦しそうな顔してるよ眉。間に皺をよせて必死に涙を堪えてさ……。


「晴れたら太陽を見たいねって言い合ったじゃないか」

「そうだね」

「一緒に見たいねって、空も言ってたじゃないか」

「そうだね」

「この絵だってまだ完成していないじゃないか」

「……そうだね」


必死に私を止めようとしてくる陸にそうだねとしか言えない。そんなのわかってるよ、私も陸と太陽を見たいし完成した絵も見たい。完成したらもっともっと他の絵も描いてほしい。他愛のない話をしながらキャンバスとにらめっこしてる姿を見つめてたいよ……。


「完成していないのにこんなことをしちゃう私を許して。ごめんなさいって

何回言っても足りないかもしれないけど、お願い。本当に綺麗な空だって思う。私もこうやって青空の下で笑いたかった」

「それなら!」

「でも、ごめんなさい。もう私、生きていたくないの。君に最初に会ったあの日、あの時も本当は私は死のうとしてた。でも、君が描いてた空の絵を見たら、『この人に私の遺影を描いてもらってから死にたい』って思ったんだ」

「遺影って……」

「本物の私よりずっと綺麗に笑ってる。本物の空よりずっと綺麗な青空。君と最後に話せてよかった。ああやって君と穏やかに話しながら過ごすの、今までの人生の中でいちばん幸せだった。だから」

「やめろ、それ以上行ったら!」

「だからさ、そんなに泣かないでよ、陸」


空と陸の境界に舞う私を見てね……。

さようなら、ありがとう……大好きだよ。


陸に届いてるかはわからない、そのくらい小さな声で別れを告げる。

明日の空は何色かな。



 ああ、今日も雲が厚い。

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