第3話 美織、フィールドに立つ(2)
[2]
芳翠先生は、毎日忙しく過ごしています。
よそでお茶席を営むこともありましたし、講演会もありました。色々な団体の顧問も務めていますし、新聞や雑誌でコラムを担当してもいます。
美織は、芳翠先生の外出にお伴するのが常でしたが、忙しい時には、
「今日は、あんたはよろしおす」
と言われて置いてきぼりを食います。
そんな時には、美織は、廊下に座って、庭のツツジの植え込みを眺めて一日を過ごすのでした。
そんなある日の事、珍しく家にいた芳翠先生が、美織のテストチェックシートを手に、
「ちょっとつき合いなはれ!」
と言って、美織を外に誘いました。
「ここに、『散歩の付き添い』いう項目がありますからな、片づけておきましょ!」
と、言うのでした。
「それは、歩くのが困難な人の付き添いですけどォ」
と言いかけた美織でしたが、黙っている事にしました。
芳翠先生が、ぶらりぶらりと向かったのは、朋美の通う中学校でした。
「和美たちも、この学校でしたんや」
グラウンドを見下ろす土手にシートを敷いて座って、芳翠先生は言うのでした。
朋美は、このところ、全国大会の地区予選に向けて、練習に熱が入っている様子でした。
しばらくは、おばあ様のお屋敷にも姿を現しません。
グラウンドを走り、槍を投擲する朋美を、芳翠先生と美織は、しばらくの間眺めていました。
朋美は、この所、槍投げの記録が伸び悩んでいました。
今年は3年生です。中学最後の年です。
そして、朋美は、今年は全国大会に進むつもりでいました。自信もありました。
ところが、2月に自己ベストを出してから、一向に記録が伸びません。それどころか、5月に入って、記録が落ちて来ています。
槍投げは、体に負担の大きな競技です。場所も取りますので、日に何度もは投げられません。
基礎体力を鍛え、筋力トレーニングをして、フォームを練習して、投擲に臨みます。
投擲を終えると、朋美は、冴えない顔になりました。
「鈴野さん、44メートル05!」
記録を聞くと、朋美は、グラウンドの端で両膝を抱えて座り込みました。
お屋敷に戻ると、芳翠先生は、
「ちょっと、つき合いなはれ」
と、美織をお茶室に招きました。
5月からは、茶室の床に掘られた炉には蓋がされて、夏の間は風炉が使われます。
芳翠先生は、風炉に炭を起こし、お湯を沸かして、黒いお茶碗にお薄を点てました。
「あんたにお茶を飲め言うても無理やろけど、まあ、匂いだけでも嗅いでみなはれ」
そう言って、芳翠先生は、茶碗を、美織の前に置きました。
美織は、
「頂戴いたします」
と両手を畳について頭を下げて、お茶碗を取り上げました。
「清々しい香りですなあ。美織、これ、好きです」
目をつぶって匂いを嗅いで、美織は言いました。
「そうですか?」
芳翠先生は、美織が畳に戻した茶碗を取り上げ、温度を確かめるように両手で茶碗を包み込みました。
「朋美は、小さい頃から、じっとしとらん子でなあ」
芳翠先生は言いました。
「悦子さんは、まだ、小さい頃は、親に言われるままにお茶やお花を習ってたんやけど、まあ、朋美は走り回とっるばっかりで、お稽古にもならへんかった」
「悦子さんは、いつまで、お茶を習われてたのですか?」
美織が尋ねると、芳翠先生は、天井を見上げるようにして答えました。
「高校の1年くらいまでやな」
「どうして、辞められたのでしょう?」
「まあ、高校受験やな。その辺りで、妙なスイッチが入ってしまったのやろな。それから、ずうっとスイッチが入ったままや。
せやけど、朋美と来たら、最初っからスイッチなぞないんと違いますか。ずっと走りっ通しや。あれは、誰に似たのやろうなあ? 鈴野屋の行浩さんかて、そんなお人やないのやけどなあ」
行浩さんいうのは、朋美のお父さんです。
「おばあさまのお血やと思います」
美織が言うと、芳翠先生は、
「はい!?」
と、珍妙な顔をしました。
「なんで、うちやねん?」
「おばあさまも、毎日、お席が暖まりまへん」
「アホらし。うちらが子供の時分は、女の子はおとなしゅうしてるもんや、って言われて育ったもんや」
フンッと鼻を鳴らして、芳翠先生は薄茶を飲みました。
それから、美織を見て言いました。
「ところで、あんた、朋美の動きを、どう見ました?」
「どう‥‥?」
美織は少し考えて、
「お元気そうや、思いました」
と答えました。
「全体に、筋肉を中心に体温が上がって、ええコンディションやって思いました」
「ふむ」
芳翠先生は、うなずいて、少し考えました。
そうして、茶碗を再び美織の前に置いて言いました。
「美織。この黒い茶碗は、楽(らく)茶碗です」
美織は、キュンと音を立てて、改めて茶碗を眺めました。
「楽茶碗?」
「そうです。黒楽(くろらく)です。
うちは、お茶会には、京焼きを主に使います。優美で華やかで、人の集まる席には持って来いやからなあ。
でも、こうして一人でお茶を点てる時には、この黒楽も好きなんや。
あんた、この茶碗をどう思います?」
美織は、少し考えて答えました。
「シンプルで使いやすい思いました」
芳翠先生は、また、
「ふむ」
とうなずきました。
「美織。楽はな、昔、お茶が一部の偉いお公家や将軍様のものだったんが、京や堺の町衆にまで広まった時代に作られるようになりましたんや。
もちろん、その頃かて、お茶は高価なもんで一部の裕福な人のものだったのやけど、それでも、大勢の人が、お茶をたしなむ様になった、そういう時代に、その需要に答えるために日本の国内で作られるようになったんが、この楽茶碗なんや。
楽ばかりやない、同じ時代にあちこちに窯が開かれたのやけどな。その中でも、この黒楽は、余計な装飾がのうて、それでいて、お茶を淹れると美しく引き立つ、『用いるための美しさ』なんや」
芳翠先生は続けました。
「うちは、スポーツの事は良う分からしません。せやけど、人間の美しい所作言うんは、この黒楽と同じに、無駄のない、それでいて行き届いた動作やて思うてる。
朋美の動きには、美しさがないように思うのやけどな」
美織は、首を傾けました。
「分からんか?」
芳翠先生に言われて、美織は素直にうなずきました。
「はい‥‥」
「まあ、うちの偏見かも知れんけどな」
そう言って、芳翠先生は、思いついたように尋ねました。
「あんたは、写真を撮ることは出来るんか?」
「はい。出来ます」
美織はうなずきました。
「撮った写真は、どうなります?」
「タブレットに表示したり、WiFiでプリントしたり出来ます」
「動画は、撮れますのんか?」
「いいえ。動画は撮れまへん」
「撮れへんのですか?」
「美織たちは、一般のご家庭に配備されてお仕事する事も想定して作られてます。ですので、動画の撮影機能は、あえて除外されてます。静止画も、オーナーさんのご指示がなければ撮れまへん」
「なるほど」
芳翠先生はうなずくと、床の間の水盤を示して言いました。
「ちょっと、あの花を撮ってみとくれやす」
「分かりました」
美織は、体の向きを変えて、右手の人差し指を床の間に向け、左手を耳に当てました。
「バシャン!!」
と音がして、美織の右手の人差し指がフラッシュを焚きました。
「えらい音どすな!」
芳翠先生が言いました。
「み、美織も!」
手で胸を押さえながら、美織も言いました。
「今、初めて使うて、ちょっと驚きました!」
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