第2話 美織スピードダッシュ

第2話 美織スピードダッシュ(1)

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 4月も末になりました。

 芳翠(ほうすい)先生の介護ロボット美織(みおり)は、相変わらず注目の的でした。

 お屋敷には、しばしば、テレビや雑誌の取材が訪れ、美織は、庭のつつじの植え込みの前で立ち姿を撮られたり、お座敷で芳翠先生とツーショットを撮られたりしていたのでした。

 ところが、そうした取材の人たちが引き上げると、引き戸を閉めたお稽古部屋からは、美織の、

「きゃっ!」

という悲鳴が響くのでした。

 庭に面した、下半分が磨りガラスになった引き戸を、朋美が細く開けて覗いて見ると、美織が、畳の上に倒れているのでした。



 美織は、これも相変わらずで、体のバランスに難点があるのでした。

 畳に座った美織の脇に、ふくさで包んだ水差しが置かれます。

「美織、出掛けるえ」

 おばあさまが声を掛けると、美織は素早く、ふくさ包みを抱えて立ち上がらなければなりません。

 その拍子に、バランスを崩して倒れるのでした。

 ただし、使われている水差しは、プラスチックの模造品です。重りを入れて、重量は陶器と同じにしているのでした。

「これが本物やったら、木っ端微塵や。家中の水差しを割られておるえ」

 おばあさまの視線にすくみ上がっているのは、美織ではなく、悦子お姉さんと狩野さんです。美織は、傍らに座ってうなだれるばかりでした。

「やっぱり、足だけは元の通りにぃ‥‥」

「あかんえ!」

 悦子お姉さんの恐る恐るの申し出を、おばあさまはびしりと切り捨てます。

「あんなゾウが下駄はいたみたな大きな足で、車輪で動くやなんて、あきまへん! 畳が傷みます」

「で、ですよねえぇ‥‥」

 悦子お姉さんはしどろもどろで、隣の狩野さんに下駄を投げます。

「ちょっと! 何とかならへんの!?」

「何とか言いましても、そもそも、基本設計から逸脱してますからぁ」

 美織の頭部には、左右の耳の奥に、高性能のジャイロセンサーが二つもついています。

 美織には、運動を制御する専用のCPUが搭載されていて、会話を理解し思考を制御するCPUとは独立しています。

 それでも、美織の小さな足で、運動の安定を図るのは難しいのでした。

「そうしたら、運動制御CPUをもう一つ搭載して」

「そうすると、2つのCPUで同期が取れていればええですけど、一たび狂ったら、目も当てられませんよ」

「ほな、論理CPUで二つの運動CPUを制御して」

「そんな事したら、運動のバランスを取るだけで、人の言う事を聞けないロボットになりますって」

 技術屋さん二人は、二人の技術屋会話に没頭してしまいました。

 朋美は、玄関を回って、そおっと稽古部屋に入って、美織の傍らに、膝を抱えて座りました。

「余り、気ぃ落とさん方がええよ」

 耳元にそっとささやきかけても、美織は、瞼を半ば垂らして自分の膝を見つめています。

「前なんか、逃げ出したロボットもおったんやから」

「朋美っ!」

「はい!!」

 呼ばれて、朋美は、あわてて居ずまいを正しました。

「ごまかすくらいなら、初めからきちんと座りよし! ほんで、今日は何え?」

「あ、ママが‥‥」

「江翠が?」

 『江翠』いうのは、お母さんの和美さんの名取名です。おばあさまが名取名を使った時には、あやふやな話はできません。

「様子見に行った方がええのやないかって‥‥、言いたそうにしとったからぁ‥‥」

 声がついつい小さくなります。芳翠先生も、それ以上は問いません。

「あ! でも、おばあさま。前に買ったお掃除ロボットは、車輪で動いてましたやろう?」

「ああ、『カブトガニ君』な?」

 芳翠先生は、アメリカ製のお掃除ロボットをそう呼びます。

「あの子は、その前のドイツの掃除機よりは静かでよろしかったんやけど、けど、重さが全然違うやろう?」

 芳翠先生は、意外と新しいもの好きで、ロボットが話題になると早々に、知人の商社マンを通して購入したのでした。

 そうして登板した期待のカブトガニ1号君でしたが、ある日、開け放っていた表庭側の廊下から落ちて、踏み石に当たって壊れてしまったのでした。

 朋美たちは、「逃げ出したんや」と噂していました。

 今、カブトガニ2号君は、座布団などと一緒に納戸にしまわれています。使う時には、障子を閉め切って使うのです。

「それに、あの子らも、床の間の雑巾がけはしてくれへんなあ」

というのが、芳翠先生の総合評価でした。

「美織なら、床の間の雑巾がけも楽勝やのになあ。なあ?」

 そう励ましても、美織は、黙ってうつむいています。

 美織のちりめんの肌は、防水加工が施されていて、特に手足は3気圧までの完全防水です。

 でも、介護ロボットは、想定以上に水仕事が多いらしく、朝晩、手に防水クリームを塗るのが欠かせないのでした。

「その人の仕事は雑巾がけやあらへんやろう」

 そう言って、芳翠先生は、相変わらず技術屋談義に夢中な二人を見やりました。

「美織?」

 朋美は、ようやく、美織の様子に気づきました。話し掛けているのに、まるで応じないのです。

「美織!」

 肩をゆすっても答えません。

「きゃー! 美織、死なんといてえ!!」

 美織は、瞼を半ば開いたまま、停止していたのでした。

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