第35話 ヒルダの手
この話の主な登場人物
カトリーヌ 主人公(わたし)
フランツ 護衛
ヒルダ 家庭教師
デニス 金髪の剣士
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
今し方、賊を一掃させた隊列、中の一人、そのシルエットが手を大きく振って声をあげる。
「親方ー、やっつけましたぜ」
「ばかっ、親方はやめろって言っただろっ」
金髪の剣士がそのように窘めると、「すいやせん、若ーっ」と返事がする。
「お前ら、半数は賊の残党が居ないか周囲を捜索。残りは馬車に集合、ここの警戒にあたれ」
「わかりやした親方ー、あ、いや、若ーっ」
その返事のあと、隊列の半分は移動を開始して何処へと消えていった。
そして残る半数は馬車の方にやってくる。
「若って言われているんですか」
その声に金髪の剣士が振り向くと、そこにはヒルダが立っていた。
「あっ」
彼は固まる。
顔を赤くして、彼女の顔を見続けているだけだ。
「改めてありがとうございます、わたしヒルダ。ヒルダ・クレマンス・チルモンと言います。あの、貴男のお名前は」
「わた、わたしのですか」
「ええ、ぜひ」
「デニスですっ」
勢いよく放つ彼の声に力が漲っている。
ヒルダはそれを全身で受け止める。
「他のお名前も。ぜひ、フルネームで、わたしにお教えください」
「デニス。デニス・ヤン・ラファエル・クノール。あの、クノールでは、なく、デニスとお呼びください」
「はい」とヒルダはスカートの裾を持ち上げ、頭を下げて改めて挨拶をした。
「デニスさま、わたくしめをお助けいただき、有り難うございました。本当に感謝いたします、このご恩は一生忘れません」
「一生、ですか」
「はい、一生。何があっても、どんなことがあっても、生涯忘れません」
それは本心だった。
ヒルダはただ助けられたから挨拶と礼を言っているのではない。
賊が迫ってきたとき、それを激しい言葉使いとともにはね除けてくれたのが彼、デニス。
それは強烈だった。
強く印象に残り、ヒルダの中で掛け替えのないものとなった。
一瞬にしてなった。
「一生、このわたしが、ヒルダさんの記憶にのこる」
デニスはそれをつぶやいたあと、赤い顔をさらに赤くする。
あの剣戟、そして敵の集団を排除する鮮やかな手並みとはまるで別の、女性というものに接することに馴れていない青年、いやまるで初心な少年のような金髪の剣士、それがデニスだった。
「ええ、デニス殿。貴男はわたしの記憶の奥底に、落雷のようにつよい衝撃で刻み込まれました。もう、もう、何があっても忘れません」
ヒルダは潤んだ瞳でデニスを見る。
デニスはそれをまぶしいもののように思えてならなかった。
先ほど、ヒルダの危機を見て、とっさに身体が動いて助けた。
だけどいまこうして当人を前にすると、言いようもない衝動が身体を突き抜ける。
「わたしも忘れません。一生涯、ヒルダ嬢のことを忘れません。どんなことがあっても、決して」
そう言い、デニスはヒルダの手を取る。
手を取ってそれを自分の胸にたぐり寄せる。
そこは激しく脈打っていた。
彼の心の臓が激しく、まるでドラムのようにどっどっと打ち付けている。
それがヒルダに感じられる。
そしてそれは彼女も同じだった。
胸が激しく鼓動し、その中心、身体の中が熱い。
身体全身が燃え上がるような感覚を初めて覚えた。
「わ、わたし」とヒルダが何かを伝えようとしたとき、背後から声がした。
「あれぇ、若が女性と会話している」
それはデニスが呼び寄せた隊員だった。
槍を持った集団が三々五々集まってきていた。
「女性恐怖症の若がねぇ」
「しかも手まで握って」
「珍しいこともあるもんだ」
そう口々に言いながら歩み寄ってくる。
「おまえらっ」
デニスは手を離して部隊の方を見る。
それにヒルダは心細さを覚えた。
いま、自分の手を包んでいた温かいデニスの手が離れたことが寂しくてたまらない。
「いまご婦人の無事を確かめていただけだ」とデニスは部下に言う。
「いやいや、若、言い訳しなくてもいいですよ」
「いつもは女性の前では言葉がでなくなるのに、いや、これは本当に珍しい」
「もしかしたら、これはひっとして」
デニスの部下たちはそう言ってにやにやと笑っている。
「すみません。部下たちは気の良い奴らなんですが、何分にも不作法な連中でして。でも、悪気はないんです」
そう言ってデニスはヒルダに向き直る。
そして、「女性の手がこれほどまで柔らかいとは思わなかった」と言い、さらに、「あの、その」と言い辛そうにしている。そして顔がまた赤くなる。
ヒルダは、「どうかしましたか?」と潤んだ瞳を向ける。
「こんなことを言ってずうずうしいと思わないでほしいのですが」
「はい」
「も、もし宜しかったら」
そこでデニスは言葉に詰まる。
何か言い辛そうなことは傍目にも分る。
ヒルダは待つ。
彼が何を言おうとしているのか、胸の前で両手を握って待ち構えている。
その彼がやがて決意を込めてこう言った。
「あの、よ、宜しかったら、またヒルダさんの手、握らせて頂いても、い、いいですか」と。
その絞り出すような声。
しかも途切れ途切れで、何度も詰まっている。
ヒルダは即答しなかった。
それをデニスは否定と捉えた。
「嫌ですよね、こんなガサツなわたしの申し出など。すみません、調子に乗りすぎました」
デニスがしょげている。
だけどヒルダは慌てて、「ちがいますっ」と否定した。
そう言って手を差し出す。
デニスは絞り出すように、「よろしいのですか」と聞く。
「どうぞ」と言って、ヒルダはさらに手を押し出す。
デニスはそれをそっと両手でつかむ。
その手が震えている。
彼はなんてたおやかで柔らかいんだと思う。
そして小さいなとも。
「この手を、また、握りたいんだ」
デニスはそう絞り出す。
それを受けてヒルダは、「はい、こんなわたしの手でいいのでしたら、いつでも何度でも」と微笑みを交えて返す。
それを聞いたデニス。
もう夕闇が濃くなっているのいうのに、光りが差したように明るい表情をした。
そして言った。
「本当ですかっ!」
「本当です。この手が必要なとき、なんなりとお申し付けください」
デニスは身体の表皮が粟立つ。
粟立って粟立って、もうどうしようもない。
「やったっ!」
そう叫んだデニスはヒルダを抱き寄せ、腰に腕を回してぎゅぅっとかかえる。
そして、「やった! やった!」と叫んで、ヒルダを抱えたままくるくると回る。
さらに叫び続ける。
「もう、何も要らない。ヒルダさんの手を握れるのならば、他にもう、何も要らない。欲しい物はない。もう手に入れた。やったっ、やったっ、俺は手に入れた。ヒルダさんの手を。やったぞ、ざまぁみろ!」
何に向ってざまぁみろなのかは分らない。
そうやって感情を爆発させている。
だけどデニスは嬉しさのあまり勘違いしている。
のちに彼はヒルダの手だけではなく、彼女自身も欲しくなるのだ。
でもいまはそれに気がついていない。
ただただ嬉しくて嬉しくて、ヒルダを抱えて、「やったやった」と叫び続けていた。
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