第29話 ささやかな婚礼

 この話の主な登場人物


 カトリーヌ 主人公(わたし)

 フランツ 護衛

 ヒルダ 家庭教師


  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆



 途中、何事もなくヴォージュの森を抜けた。

 毒の森は動物もおらず、ときおり高い梢を鳥が飛ぶくらいで、しんと静まりかえっていた。

 日付が変わってほどなくすると、無事に森から出て、小道を見つけることができたのだ。


「草木が深くなってきた。ヴォージュの森を抜けた、もう大丈夫」


 御者席からフランツが言う。


「そうですね、見慣れた草木ばかりになってきましたよ、ほら」


 ヒルダも窓の外を見て明るい声をだす。

 そこからさらに小一時間ほど進んでから、もうどんな風向きでも毒霧が流れてこない安全な場所で休憩することにした。


 みんなはマスクを取り、そこで胸一杯に空気を吸い込む。

 その段階で、やっとひと心地ついた気分になった。

 馬車を道から外れた茂みに隠し、ターフで明かりが漏れないようにして火を焚いた。


「さぁーて、お湯をわかしますよー」


 ヒルダがウキウキでポットを火にかける。

 彼女はこの逃避行が暗くならないように明るく振る舞っている。

 ムードメーカーに徹しようとしているのだ。

 そのヒルダが声をかける。


「フランツ殿、ゲルマニアのご出身ということですが、行く先に心当たりとかあるんですか?」


「縁者を頼ってみようと思う。ただ」


「ただ、どうしました?」


「久々なものだから、いきなり行って、はたして頼れるかどうか。何せ、もう十数年一度も帰っていないし」


「ごめんなさい、フランツ。わたしが五歳のときから護衛としてずっと頼りっぱなしで、それでお国に帰ることもできずに」


「いいんですよ。それにわたしはお嬢さまの傍らを離れたくありませんでしたから」


 そんなわたしたちの会話をヒルダはにこにこ、いや、にやにやしながら聞いている。


「でも良かったですね、フランツ殿」


「何がだい?」


「十数年ぶりの里帰りに花嫁をつれて帰ることができて」


「ば、ばかを言うな、この旅はそんなのではない」


「そうよ、ヒルダ! わたしがあの家を離れた理由、それはあなたも知っているでしょ」


「ええ、よーく知ってますとも、その当事者の一人ですから。でも、お二人は一緒になるんでしょ、そしてフランツ殿と地元に戻る。どう見てもこれは婚礼の旅ですよ」


 わたしは顔が赤くなる。


「ヒルダ、あなた、聞いていたのねっ!」


「嫌だなあ、盗み聞きしていたんではなく、ドアの前で誰かが入ってこないようにそれとなく見張っていたんですよ。そうしたら聞こえたまでのことです」


「ああ、どうしましょう。もう人に聞かれていたなんて」


 わたしは両手で頬を押さえ、うろたえていた。


「あれあれあれぇ、わたしに隠し事ですか。邸宅を一緒に脱出した間柄だというのに、寂しいなあ」


「なあ、ヒルダ嬢、その少し、性格変わったみたいだけど」


「一晩でこんなにもいろいろとあったら、そりゃあ変わりもしますって。もう一生分の冒険やらなんやら体験した気分で、図太くなりました」


 そう言ってヒルダはポットの蓋をとり、「あ、沸いた」と言った。そして、「お茶じゃなくて、カフィにしますね」と準備を始める。


 そしてあとで分かったことだけど、ヒルダの言葉は少し正確ではない。

 彼女はもう終わった体で話をしているけれど、まだ旅は終わったのではなく、まだまだ困難が続くのだ。


 それはともかく、彼女は楽しそうにフライパンで豆を煎り、ミルで挽いて、布で包んでポットに入れた。


「本当はろ過したほうが美味しいんですけど、いまは道具がないから、これで」といい、カップに注いだ。


 それを受け取ったフランツが、「さ、カトリーヌお嬢さま、どうぞ」とカップをわたしに差し出した。

「ありがとう」と受け取り、つっと香いでそのアロマを堪能しているときのことだった。


 ヒルダが、「あのぉ、差し出がましいようですけどぉ、いいですか」と聞いてくる。


「なんですの」


「僭越なことは重々承知なのですけど、フランツ殿、もうお嬢さまのことをお名前でお呼びしたほうが宜しいのではないですか」


「なっ、あちっ」


 慌てたフランツが熱いコーヒーを飲み込んでしまった。


「たぶんフランツ殿のことだから、邸宅のみんなにお嬢さまのことを呼び捨てにするのを聞かれまいとして、気を使っていたことと思うのですが、もう、ここまできたのなら、お名前で呼び合う方が自然な気がします」


 そう言ったヒルダは涼しい顔でコーヒーを飲んだ。

 わたしとフランツは顔を見合わせた。

 そして二人とも顔が赤い。


「ささ、花婿どの、花嫁のお名前を」


 ヒルダがけしかける。


「えっと、その」


 フランツがうろたえている。

 あのラジモフとの剣戟、騎馬隊との戦闘に顔色一つ変えなかった彼が、家庭教師の少女にけしかけられて戸惑っている。


「今後、何があるのか分からないのですから、既成事実作ってしまいましょうよ。もうこの旅でお二人は夫婦に。そうしたら帰っても、誰がどんなことを言っても、どんな家との婚礼を持ってきても無駄になります」


 それを聞いたわたしとフランツははっとした。

 そして顔を見合わせる。

 わたしたちはお互いの気持ちを打ち明けず、状況に流されて、他の男性と形式だけとはいえ婚約してしまった。

 それを激しく後悔した。

 そんな二人が望まない形だけの物を壊して新しい関係を築いてしまいましょうというヒルダの提案だ。


「さあ、どうぞ」


 ヒルダが決意をうながす。


 わたしも、「おねがい」と言う。


 意を決したフランツが、「カトリーヌ」と呼んでくれた。


 何度聞いても、名前だけで呼ばれると、こう肌が粟立つような感激を覚える。

 それに打ち震えながら、わたしも、「フランツ」と応える。

 いつも呼んでいる名前なのに、こうして呼び合うとまるで違うから不思議だった。


「はい、これで婚礼の儀は終了です。わたくしが見届けました」


「ヒルダ、まるで司祭さまね」


「あ、わたし庶民の出なのでプロテスタントです。ですから基本、司祭、修道女(シスター)ではないです」


「そうだったわね」


「でもわたし、そんなの気にしていません。あまりいい信徒でもないですし、それにルタール派なのでシスターは居ます」


「ああ、もう、ややこしい」


 その言葉にヒルダはにししっという笑みを浮かべ、「近いのキスはわたしの居ないところで存分にどうぞ。わたし、まだ乙女ですので、刺激が強すぎますゆえ」


 そう言った。

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