第21話 脱出の日
この話の主な登場人物
カトリーヌ 主人公(わたし)
フランツ 護衛
ヒルダ 家庭教師
ドナード 御者、馬の世話係
アラベル 妹
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
明けて翌日。
いよいよ邸宅を脱する日がきたのだ。
わたしとヒルダ、そしてフランツは入念に準備を重ね、当日の日を迎えた。
昼間、御者のドナードはこの馬を持って行けと二頭を差し出した。
それを見たフランツは驚いた。
「ボン・エトワールとポラリス!」
栗毛の駿馬ボン・エトワール。
それは先日の脱出路の見回りで乗った馬だ。
そして白馬の駿馬ポラリス。
ポラリスとは北極星のこと。
この馬もエトワールに負けず劣らずの俊足を誇る。
幸運の星、ボン・エトワール。
方角を指し示す星、ポラリス。
その二頭を差し出すことを、御者ドナードはこう言った。
「よき未来へと導く北極星、そして災いを退ける幸運の星、その二頭を旅路のお供にと思ってな」
「ドナードさん、なんと言ったらいいか」
フランツは感激で胸がいっぱいだった。
「なあに、当家でこの二頭を乗りこなせる者など、フランツ、お前意外に居ないからな。ここにただ繋いでいても宝の持ち腐れ。だったらお主に乗ってもらった方が、この馬たちも本望だろうて」
「ありがとうございます」
「いいってことよ。それよりもカトリーヌさまとヒルダ嬢のこと、くれぐれもお頼み申しますよ」
「はいっ」
勢いよく答えたフランツは受け取った二頭を馬車に繋いだ。
そして、「頼むぞ。お前たちの足に全てがかかっているからな」と馬に語りかけた。
夜が来た。
邸宅は寝静まり、物音もなくしんとしている。
フランツは何度も部屋と馬車を往復して荷物を積み込んでいた。
だけど荷物そのものはそれほど多くはない。
なるべく最小限にして身軽にしていた。
だけど食料と水だけは多めに用意した。
その作業の間、わたしとヒルダは手紙を配った。
手渡せないので、それぞれの部屋のドア、その下にそっと差し入れる。
侍従、庭師など。メイド、コック、兵士は数が多いので、連絡用のポストに束で入れた。
ちゃんと一人一人に名前を書き綴ってある。
そして一旦はフランツと部屋で合流した。
わたしは部屋の入り口で立ち止まる。
中を見回し、さまざまな思い出が去来する。
本当にいろいろなことが沢山あった。
その部屋ともしばしお別れ。
そしてさよならではなく、行ってきますと声をかける。
またこの部屋に戻ることを期して。
三人は廊下に出て足音を立てないようにそっと廊下を歩く。
そのときである。
背後からノックの音がした。
それはわたしの部屋。
そのドアを叩く音がしたのだ。
わたしはぎっょとして背後を見た。
声がする。
「お姉さま、わたしです、アラベルです」
妹がわたしの部屋を訪れていた。
わたしたちは廊下の暗がりに潜み、その光景を見る。
真っ暗な廊下に、生成りの白いナイトドレスのアラベルがぼうっと浮き上がっている。
それが見えた。
返事がなかったのに、アラベルは、「お姉さま、失礼します」といってギッとドアを開けた。
そして中を見る。
真っ暗でしんっと静まりかえった部屋の中を見ている。
「あれぇ、おかしいですわねぇ。お姉さまが居ない」とドアを閉める。
「お姉さまぁ、どこですの。どこにいらっしゃるの」
アラベルが廊下を歩き、わたしを探し始めた。
そして彼女はポットと取っ手の付いたカップを手にしている。
「おねぇさまぁ、寝付けないようですので、暖かいミルクをお持ちしましたわ」
廊下を静かに歩きながら、声をかけ続けている。
「行きましょう」
フランツに促されて、わたしとヒルダは難しい表情でそれに従う。
そして細心の注意で闇に紛れるようにして廊下を進んだ。
「暖かいミルクを飲むと、よーく眠れますの」
静かな廷内にアラベルの声が通る。
「ずっと眠れますのよ。ずっとずっと深く、永遠に眠り続けられますの」
そんな声に圧されるようにして暗闇を進む。
そしてアラベルは廊下の角をまがり、声が遠ざかってゆく。
わたしたちは足を音をたてることなく先を急いだ。
途中、何事もなく、一階の一番端、馬車を止めてあるドアに到着した。
そこは御者ドナードの部屋の近く。
フランツが少し開いた扉から外をうかがう。
しんと静まりかえって、何の気配も感じなかった。
「わたしは馬車を持ってきます、お二人はここでお待ちを」といってフランツがつっと外に出る。
わたしとヒルダが身を寄せ合うようにして待っていると、微かな車輪の音がして馬車がやってきた。
二頭の馬は心得ているかのように静かだ。
フランツがわたしの手を取り、ヒルダが手荷物を持ったその瞬間のことだ。
「あっ、おねえさま、こんなところにいたぁ」
背後にアラベルがいた。
うっすらと笑いを浮かべ、暗闇にぼうっと浮かび上がった妹が見えた。
「おねぇさまあ、こんな夜更けにどこへ行こうとなさっていますの」
まぶたがとろんとして、瞳孔がはっきりとしない死んだような目をしたアラベルが近づいてくる。
「せっかくお姉さまのために暖かいミルクを用意したのに、お飲みにならないなんて勿体ない。ぐっすり永眠できるミルクですのよ」
わたしたち三人は動けなかった。
フランツでさえ、どうしたら良いのか分からない。
これが暴漢の類いなら即座に身体が動いて排除する彼が、まだ少女相手にどうしたら良いのかわからず、固唾を飲んでいる。
だけど気を取り直し、無視して立ち去ろうとした瞬間、二頭の馬がいなないた。
暗闇を裂くように、激しく。
わたしたちはその声に身をすくませる。
「どうしたんだ、お前たち」とフランツが馬に声をかけ、くつわを取って二頭の顔を交互に撫でた。
そしてわたしは顔をあげて、再び、アラベルを見た。
そうしたら。
異様な光景に目が釘付けになる。
アラベルは目を見開き、涙を流していたのだ。
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