第22話 アナベルの涙と闇に潜む男

 この話の主な登場人物


 カトリーヌ 主人公(わたし)

 フランツ 護衛

 ヒルダ 家庭教師


 アラベル 妹

 ラジモフ 出入りの商人


  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆



「あっ、ああ」


  小さく、悲鳴のような声をもらしたアナベルはその大きな目を見開き、そこからこぼれた涙が頬を伝わっている。

 わたしたちはその光景から目を離せない。


「わ、わたしなんでこんなものを」とアナベルは言って手にしていたポットとカップを床に落とす。

 中からこぼれたミルクが廊下の絨毯に染み渡る。


「いやだ、なんで、こんな恐ろしいものをお姉さまに飲ませようと、わたし」


 そう言いながら震えている。


「アナベル、あなた」


 わたしは声をかけた。

 彼女はわたしを真っ直ぐに見た。

 その目は先ほどのとろんとした生気のない目ではなくなっている。

 アナベルが目を細め、そしてぼろぼろと大粒の涙を流した。


「おねえさま、わたし、わたし、あんな恐ろしいことになるなんて知らなかった。知らなかったの」


 わたしは歩み寄り妹に近づいた。

 そして彼女をそっと抱いた。


「アナベル、何か大変なことに巻き込まれているのね。可哀想に」


 そのアナベルは腕の中でガタガタと震えている。

 そして、「ごめんなさい、おねえさま、ごめんなさい」と言ったあと、額に手をやる。そしてうめく。


「うぁ、ううっ、ああ、うくっ」


 苦悶の表情でもだえている。

 ただ事ではない。

 震えているアナベルが懐から書簡を取り出し、それをわたしに手渡した。


「こ、れを」


「これは」


「いつか、正気のとき、に、手渡せるように、いつも持っていたの、これを」


 わたしはアナベルを抱きかかえ、頭を撫でてあげた。

 語りかけようとした、瞬間、アナベルがわたしを突き飛ばした。

 それを背後でフランツが抱き留める。


「お、姉さま、わ、たしから、離れて」


 そして苦悶の表情になり、こんどは瞳孔が収縮する。


「うあっ、声が、するの。頭の中で声が。だめ、だめ、追い払えない、逆らえないの、この声に、わたし」


 そのとき匂いがした。

 廊下の奥、そこから風が漂い、その中から匂いがする。


「なんだこの、甘い匂い」


 フランツが顔をしかめる。

 それはわたしにも嗅ぎ取ることができた。


「オピウム」


 ヒルダが険しい表情で匂いの正体を口にする。

 オピウムの香り。

 それは麻薬の匂い。


「おねえさま、にげて。は、はやく。どこか、遠くへ」


 アナベルは目を見開き、涙が流れると共に冷や汗をかいている。

 そしてである。

 彼女の背後から声がする。


「おやおや、こんな夜中に姉妹そろって如何なされた」


 廊下の暗がりから影がぬっと現れる。

 その人影は出入り商人のラジモフだった。

 彼はマントを羽織り、そしてゆっくりと歩み寄ってくる。


「ひっ」


 その声を聞いたアナベルが小さく悲鳴をあげる。

 そして瞳孔をきゅうっと縮ませ、両手でナイトドレスを握りしめてガタガタと震え、冷や汗もどっと吹き出している。


「アナベル!」


 わたしは妹に近寄ろうとした。

 だけどヒルダが必死に行かせまいと背後から抱きついている。


「いけません、お嬢さま!」


「離して、妹を、アナベルを助けないと!」


「駄目です、行かせません!」


 そのとき、フランツが前にずいっと出る。

 そして腰の剣に手を添えている。


「お前は護衛のフランツ、そして後ろにいるのは家庭教師のヒルダ。カトリーヌお嬢さまをお連れして、いったい何処へ行こうとなさっているのかな」


 ラジモフはニヤと笑みを浮かべてそう言った。

 その言葉を受けてもフランツは至って冷静だった。

 この暗闇でも分かるほど凜としている。

 そして言った。


「ラジモフ、いま、お前の背後に控えている連中が居るだろ」


 問われたラジモフ、片眉をぴくとあげる。


「なるほど、背後の殺気に気がつくとは、やはりただの武芸自慢の護衛ではないってことか。ならば、その腕前、見せてもらう」


 その言葉のあと、ラジモフは指をぱちんと鳴らす。

 背後から二つの影がゆらりと現れる。

 それは東方商会の傭兵だった。

 顔は黒布で覆われ、殺気に満ちた目が暗闇でもそれと分かるほどぎらぎらと異彩を放っている。それが二人居た。

 傭兵達は剣をすらと抜き放ち、廊下の左右からひたひたと歩み寄ってくる。

 フランツは足を前後に開き、姿勢を低くして左腰の剣に手を添える。

 そして待ち構える。


 ラジモフは、──この男、剣を抜かないのか。

 そう見た。


 フランツも二名の傭兵を観察している。

 彼と向かって左側の男は剣をした、つまり下段に、そして右側の男は上段に構えている。


 それをフランツは、──こいつら兵士ではない、室内での暗殺に長けた連中だ。

 そう即座に看做した。


 じりじりと間合いが詰まってゆく。

 フランツが口から息を吐く。

 小さく、ふすぅと。

 そして全てを吐き終える前に息を止めた。

 それと同時に前にでる。

 だんっと踏み込む音がする。


 したと思ったら終わっていた。

 わたしとヒルダは何が起きたのか分からなかった。

 フランツがまるで瞬間移動のように前に出て、そして剣を一刀したと思ったら、商会の傭兵二名が崩れ落ちていた。

 もう訳が分からなかった。

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