第15話 御者ドナード

 この話の主な登場人物


 カトリーヌ 主人公(わたし)

 ヒルダ 家庭教師

 ドナード 御者、馬の世話係


  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆



「お嬢さま、それはまだ早いのでは。だって、手に物を持つのでも苦労なさって、こうしている会話の声も細いのに、ましてや歩くなど」


「確かにそうかも知れないけど。でも、ここを一日でも早く出るにはわたしが自分の足で歩けるようにならなければ駄目でしょ」


「それはそうですけどぉ」


 ヒルダはクチを尖らせて、まだ納得しかねる様子だった。

 それはわたしの身体を心配してくれていることが分かる。

 でもどうしても自分の足で歩きたかったのだ。

 だからこう言った。


「それなら、わたしに付き添って、ね」


「当然じゃないですか、いまのお嬢さまを一人でなんて歩かせられません!」


「それじゃあ決まりね」


「あ、う」


 ヒルダがまだ納得していないものの、でも、その頼みを飲み込んでくれた。

 そして歩き出しのだけど、それは想像以上に重労働だった。

 だって、ベッド脇を数歩、厳密には三歩あるくだけで止まってしまったのだ。


「こ、こんなにも歩くことが難しいとは」


 わたしは冷や汗を吹き出しながら驚いていた。

 普段なら何でも無い行為が、とてつもなく難しく感じている。

 部屋を出るまでが一苦労だった。


「お嬢さま、もう戻りましょう」


「このまま、歩くわ」


 廊下に出て、壁に手を付き、休み休み歩いて行く。

 ぜぇぜぇと喘ぎながら。


 歩くのが難しいのは、まず足が前に出ない。

 そして背筋がひどく疲れている。

 背筋を伸ばして歩くことが苦痛だった。

 歩行とは足と腰を使うだけと思っていたが、意外にも背筋をものすごく使うことが発見だった。


 そして歩いてさらに分かったことがある。

 わたしは、一度、身体が壊れたのだということを。

 身体の各部が連動して動いていない。

 ばらばらに動いている。

 それを何とか元通りになるように、一歩、一歩、確かめるように歩いて行く。


「お嬢さま、そんなお身体でどこへ行こうと言うのです」


「ぎょ、御者のドナードさんのところへ」


「でしたらお部屋に戻って、そして呼んで来てもらいましょう」


「いいえ、わたしが向かいます。彼のところへ、わたしが自ら赴きます」


 それを聞いたヒルダは、なんでわたしが自分の足で向かうことにこだわっているのかは分からない様子だった。

 だけど彼女はわたしに手を添えて、辛抱強く付き添ってくれた。


 何度もよろめきながら階段を下り、長い時間をかけて、ようやく一階にある御者の詰め所にたどり着く。

 その部屋にドアはなく、脇の壁をノックした。


「どうぞ」


「失礼します」といってわたしは入室する。

 中には御者のドナードが馬具の手入れをしているところだった。


「お、お嬢さま!」


 壮年の彼が目を見開いて驚いている。


「お仕事中にお邪魔します。ドナードさん、お久しぶりです」


「ああ、そんなお身体でここまでわざわざ。ささ、お二人ともそこのソファに」


「ありがとう」


 わたしとヒルダはありがたくソファに腰を下ろす。


「お呼びいただいたら、わたくしめが出向きましたのに」


「どうしても、ここに来たかったの。最近来られなかったから」


「お嬢さまもお忙しくなられましたものね」


 わたしは御者の部屋を見回す。

 そこは控え室であると同時に、馬具の保管や手入れや修理する工房も兼ねている。

 壁の上の方には、額縁に飾られた馬の絵が掲げられている。

 かつて当家に居た馬の絵だった。


 ドナードは馬車の御者だけではなく当家で扱う馬の世話もしていた。

 だからここで馬具の手入れをするか厩舎で馬の管理をするのが仕事になっている。


「初めてここに来たときのことをいまも覚えているわ」


「わたしめも覚えておりますよ。まだまだずーっと小さい、まるて豆粒のように小さなお嬢さまが入り口からひょっこりと顔を出して“入っていい”と言ったときのことを、よーく覚えています」


「豆つぶは大げさよ」とわたしはくすくすっと笑ったあと、「歩けるようになったばかりのころ、よく屋敷中を探検して回ったの。そしてこの部屋を見つけて中をのぞいたら馬が居たでしょ。驚いて、思わず声に出してしまったわ」


 それを聞いたドナードは嬉しそうに顔をほころばせている。


「おうましゃん、おうましゃんがいるってビックリしたお顔をなされていた。可愛かったなあ」


「それからもよくここに来て、その、おうましゃんを見ていました。そしてドナードさんの作業も見学させてもらいました。蹄鉄を打ったり、それを馬の蹄にはめたり、鞍を乗せたりあぶみや手綱を付けたりと、馬一頭、乗るためにこんなにも手間暇がかかるのかと、子供ながらに驚きの連続でした」


「そうですな、カトリーヌ嬢ちゃんは、目を丸くしてわたしの作業を見ていなすった。これはなに、なにをしているのっていっぱい質問なされていた」


 それを言うドナードは目を細め、過去と今のわたしを同時に見て居るような目つきをしている。


「そして乗馬を覚えるためにさらにここに通う日々が続いて、もしかしたら、この邸宅で自分の部屋以外に一番来ている場所かも知れない」


 そう言ってわたしは部屋をさらに見回した。

 豪華な飾りや調度品はないけれど、そこは心落ち着く部屋だった。

 記憶の中のドナードはもう少し若く、子供が作業場をうろつくことを嫌がらず、いつも微笑んでくれていた。


 わたしはお菓子を持ち込んで工房のみんなと分け合って食べたりした。

 そしてここではあまり手に入らない、下町のお菓子もわたしに食べさせてくれた。

 同い歳の友達の居ないわたしには、ここが遊び場所だったのだ。

 みんな、わたしが初めて食べるお菓子にびっくりしたり、おいしい言うとにこにこと笑ってくれていた。


 そしていまも微笑んでくれる。

 それはわたしが当家の長女というのではなく子供の頃からの顔なじみ、そんな長い時間を過ごした間柄という関係が心安らぐ。

 でも、それともうすぐお別れになるのだ。


 わたしは熱い物がこみ上げ、目尻に涙が浮かんだ。

 それはドナードも同じようで、彼もまた、細めた目に涙が浮かんでいる。

 もう今後のことを察しているかのようだった。

 実直に働く御者といえども、権力の中枢にあるこの邸宅で長らく過ごすということは、そう言った機微というか空気を感じ取ることを身につけている。


「きょうここに来たのは、これを手渡すためです」


 そう言ってわたしは、胸に仕舞っていた手紙を出した。

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