第9話 ヒルダ、動く

 この話の主な登場人物


 カトリーヌ 主人公(わたし)

 フランツ 護衛

 ヒルダ 家庭教師

 メイド

 コック長


 オーギュスタン(オーギュ) 許嫁

 アラベル 妹

 父

 母(継母)


  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆



 ──指がおかしい。


 くらっ。


 直後にめまいがした。


 ──あれ? 視界がゆがむ。


 わたしは急速に呼吸が苦しくなり、めまいも酷くなる。


「お姉さま、どうかなさいました。表情がすぐれないようですけど」


 妹のアナベルがじっとわたしを見ている。

 その彼女の顔を見る、わたしの視界がゆがんでいる。


「呼吸が、い、息がくるしい」


 わたしは胸を押さえてぜえぜえとあえぐ。

 空気が肺に入ってこない。

 吸い込もうとしても取り込めないのだ。

 立ち上がろうとしても身体が重くて椅子から立てない。

 そしてぐったりとうなだれる。


「お嬢さまっ!」


 部屋の一角で待機していた護衛のフランツが飛び出してくる。


「カトリーヌさまっ!」


 家庭教師のヒルダも駆け寄ってくる。


 わたしは何度も立ち上がろうとするけれど、椅子から立てない。

 身動きができない。


「如何なされたっ」


 フランツがわたしの肩をつかんで支えてくれる。


「い、いきが、吸えない」


 わたしはそれだけを何とか絞り出す。

 それが精一杯だった。

 空気が吸えないから、次の言葉が言えない。


「お嬢さまを部屋へ」


 ヒルダの言葉でフランツがわたしを抱きかかえる。

 そして言った。


「ご覧の通りお嬢さまのご容態がすぐれぬ様子。楽しい家族のご歓談のときに無粋なれど、これにて中座して、お部屋に運びいたします。ご免っ」


 そう言って足早に部屋を飛び出した。

 ヒルダもあとを追う。


 そのときのわたしは、何故か食卓の家族をちらと見た。

 それがどうしてかハッキリと見えたのだ。

 苦しくて視界が歪んでいるのに、そこだけがくっきりと鮮明な画像となってわたしには見えた。


 父と継母、そしてオーギュスタンはあっけにとられて言葉がない。

 だけどアナベルは冷静だった。

 いや、妹は冷静というよりも、何か確信をもった表情をしていた。

 そしてである。

 口の端をにやと歪めたのだ。

 わたしは苦しくてしょうがないのに、それを冷静に見ることができた。



 わたしを抱えたフランツが廊下を突き進み、あとにヒルダが続く。そして部屋のベッドに寝かされた。


「御殿医を呼べっ」


 フランツが叫ぶ。

 だけど廊下で控えているメイドが顔をのぞかせて意外なことを言った。


「お医者さまは、いま、この屋敷に居られません」


「なぜだっ、今日は往診の日で控えているのではなかったのか」


「それがアナベルさまがどうしても欲しいお薬があるということで、診療所に取りにお戻りになられています。それで屋敷には居られません」


「それでは、いますぐに使いを向かわせて呼び戻せ。いますぐ、さあ、早くっ!」


 その指示でメイドは飛び出すようにして御者のところへ向かった。

 わたしはなおも呼吸が苦しくなり、もう短いひくつくような息継ぎしかできない。

 苦しい、ただただ、苦しかった。

 そのわたしの様子を家庭教師のヒルダが厳しい目つきで見ている。

 そしてこう言った。


「医師が戻るまで待てません、ですからわたしが処置します。必要なものを取りに行きますから、フランツ殿、どうかお嬢さまを」


 それを受けてフランツがうなずく。

 部屋を飛び出したヒルダが、手をぱぱんと勢いよく叩く。


「何人かわたしに付いてきて」


 メイド数人がヒルダの後を追う。

 いつもは静かな邸宅。楚々としたメイドたち。

 だけど今日は廊下を走っている。


「誰か浴室に行って、真新しい海綿とストッキングか長めソックスをいくつか用意。そして洗面器をありったけ持ってきて。残りはわたしと厨房へ」


 二人のメイドが集団から分かれて浴室へ向かう。

 残りは厨房へと向かい、「失礼します」と声も高らかに調理場へと入り込む。


 何事かと驚く調理人たち。

 そこへヒルダが、「カトリーヌさまのことは聞いているわね。お嬢さまを助けるために、ここの物を持ち出させていただきたいの」と、大声で言った。


「どうぞ、わたしたちも手伝います」とコック長が前に出る。


「ありがとうございます、それでは遠慮なく」


 そこでもヒルダは矢継ぎ早に指示をだす。


「ピッチャーに水を、ありったけのピッチャーを用意して水を汲んでっ」


 その指示のあと、一本のめん棒を手にする。

 それを一人のメイドに差し出しながら、炭を砕いて細かくするようにと差配した。

 メイドは傍らのコックから炭を受け取ると、それをすり鉢でゴリゴリと砕き始める。

 確認に立ち止まることなく、ヒルダは氷冷蔵庫の扉を開けて中を見る。


 ──はたして“あれ”があるか。今日は魚介の珍味づくし、きっとある。


 そう思案して探し始める。

 そして目指す物があった。

 それをトレーごと取り出して調理台の上に置き、包丁を手にある魚をさばき始める。

 傍らのコックがそれを見る。


「フグっ、こんなときにフグをさばいてどうしようと言うのです」


 その問いかけにヒルダは手を止めずに答える。


「肝を取り出します」


「なんとっ、フグの肝を。お嬢さまが食事中に倒れたというのに、なんでまた危険なフグの肝を」


「もしかしたら、この毒がお嬢さまを助けるかも」


 ヒルダはそう言ってフグの肝を切り分けてそれを小皿に移した。

 それを手に、さらに水の入ったピッチャーを持った。


「わたしは先に部屋に向かいます。炭、お願いできるかしら」


 めん棒を手にしたメイドとコックが、「任せてください。できあがり次第、お持ちいたします」と決意の表情で答えた。頼もしい。


 さらに簡易ストーブとケトルを部屋に運ばせる指図をして、ヒルダは部屋へ向かって走り出す。


 ──一刻も早く部屋へ。“あの毒”は早ければ数分で命を奪う、もう猶予はない。


 それを念頭に廊下を突き進む。

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