いったい、何が起ころうとしてるんです?

『ねえねえ、あーちゃん?』


「なんです?」


『お姉ちゃんは疲れたんだよ!』


「……はあ、それで?」


 今しがた、入浴を済ませたばかりの梓が、パタパタとスリッパを鳴らして冷蔵庫に向かう傍らで、掛かってきた電話の第一声がそれだった。

 藪から棒になんですか? としばし返答に迷った梓だったが、「そんなことよりもお水です」と先に冷蔵庫を開けて、冷やしてあった天然水でのどを潤す。


『あーちゃん聞いてる?』


「ん、ああ、ええ。聞いてます聞いてます、聞いてますよー」


『その感じは絶対聞いてないやつだよ! いったい、何飲んでるの?』


「だから聞いてますって。今飲んでるのはですね、いつものミネラルウォーターですよ? 桃風味の」


 半分ほど飲み干したボトルから口を離して、頬を膨らませているであろう咲弥をなだめるように、梓はようやくまともな返事を返した。


『あーちゃん、ほんとそれ好きだよね~。お姉ちゃんもなんか飲もうかな……じゃなくてだよ!?』


「もう、忙しい人ですね。えーと、〝疲れた~〟ってお話でしたっけ?」


 梓が飲んでいる物を聞いて、気が反れたと見える咲弥の声が受話口からわずかに遠ざかった。私も~。とベッドから身を起こして冷蔵庫に行きかけた咲弥の音声が、思い出したように再び近付く。

 そんな風にコロコロと変わる咲弥の様子に、「自由でいいですね」と言いたげの梓が、苦笑い気味に話題を振り直した。


『そう、お姉ちゃんは疲れました! でも違うんだよ?』


「……つまり、どういうことなんです?」


 せっかく、話を戻してあげたというのに、当の咲弥は禅問答のようなことを言い始める。

 しかし、〝疲れている〟という点に関しては梓も同じなので、あまり深く考えようとはせずに聞き返した。


『疲れているのには違いないんだよ? 今日はお仕事が立て続いて、ものすご~くお姉ちゃんがんばったと思うので、明日はちょっとぐらい遅刻しちゃってもおかしくないよね? ってお話です!』


「いやちょっと、何言ってるか分かんないですけど。どこら辺におかしくない要素ありました?」


 何を言い出したんでしょうか、この人は……。と呆れる梓を他所に、咲弥の暴論じみた言は止まらない。


『だからね、明日は5時間ぐらい遅れて登校してもいいかな~って』


「それもう遅刻どころか、半日終わっちゃってるじゃないですか! ダメですよ? 明日もいつも通り学校はあるんですから。普通に起きて行きますよ!」


 堂々と〝サボるという名の遅刻宣言!〟をされた梓は、電話越しであっても咲弥がすがすがしい表情を浮かべているだろうことが容易に想像できた。

 思わず、梓はボトルを持っていた片手を振り上げて、ツッコみを入れずにはいられなかった。


『ええ、そんな~? あーちゃんひどい! お姉ちゃんは明日も平日だという事実を受け入れたくないだけなのに』


 信じていた仲間にギルティー判定を下されて、受話口からでも分かるほどに情けない声を咲弥が漏らす。


「まあ、お疲れなのはよーく分かりますけど。実際、私もそうですし。でも、それはそれ、これはこれですから」


『そう、だけど~』


 いかにも、「私は納得していません。ご機嫌斜めです!」オーラを放っている咲弥が、拗ねたようにそう言った。


「朝、一緒に行ってあげますから。明日はお昼に皆で集まる予定も入ってますし……それにたぶん、雪音さんがお弁当持ってきてくれるんじゃないですかね?」


 雪音が本当にメンバー分のお弁当を用意してきてくれるかは分からなかったものの、その言葉は咲弥の心を動かすのに充分な効果を持っていた。


『え、ほんと!? それじゃあ、しょうがないな。明日も元気に行ってみよう!!』


「全く、咲弥さんって人は……」


 今夕、連続して発生した歪みで蓄積された物とは違う疲労を、梓はため息と共に吐き出した。

 そんな梓とは対照的に、今度は打って変わって途端に咲弥はご機嫌そうだ。


(お昼に皆が揃うとなれば、いつもは作ってきてくれてるんですけどね。でもまあ、最近は忙しそうですし、もしかしたらないかもしれませんが)


「ん?」


『どうかした~?』


 とまあ、言って見はしたものの。と独り言ちていた梓から、不意に疑問の声が上がる。そして、すっかり気分が回復したと見える咲弥が何の気なしに尋ね返した。


「どうもですね、先ほどまで影人が現れていたようなんですよ」


『え、それってどういうこと?』


 不思議そうに聞き返してくる咲弥には答えようとせず、残りの水を一気に飲み干した梓が、空のペットボトルを流しに置いてからスマホ画面に指を走らせる。


「……何々? ざっくりまとめるとですね、つい10分程前まで逃亡する影人を里穂さんが追跡していた、と。ちょっと文面だけでは分かりかねますが、どういう訳か影人の出現による〝歪みの発声はなし?〟とのことです」


 そこまでを一息に言い終えた梓が、「というかですね」と付け加える。


「咲弥さんのところにも送られてません? 緊急メール」


『あ、そっか。なんか振動してるな~。って思ったら……ていうか、りほりほ一人!? 大丈夫だったのかな?』


 ちょうど、話題に上がっていたばかりの雪音からの『緊急連絡』を梓がかいつまんで読み上げる。しかし、自分で確認させた方が早いということに気付いた梓は、たった今送信されてきたメールを見るよう咲弥を促す。


「それは……大丈夫だったみたいですね。どうやら、天満さんが居合わせてくれたようなので」


 ようやく、自分にも届いているはずの報告書に目を通し始めた咲弥に向かって、梓は先んじて里穂の安否についてを知らせた。


『ほんとだ! ちょうど、支部に寄ろうとしてたとこみたいだね。でも良かったよ。りほりほにケガとかなくて……あったら天満君に一発ガツン! ってしなきゃいけないとこだったよ』


 何を〝ガツンと決めるつもり〟だったのかは知らないが、一瞬慌てた咲弥も里穂の無事を確認したことで落ち着きを取り戻したようだ。

 ご愁傷さまです。と相変わらずの天満の扱いに心の中で合掌しつつ、梓は話を先に進めようと口を開く。


「そうですね。里穂さんも無茶しますよ! 呼んでくれればすぐに出向いたというのに。まあ、そんな時間なかったってことなんでしょうけど」


『だね。それにしてもだよ? どういうことなのかな。これを見ると、影人の〝消息は不明?〟ていうか消失したってあるけど。歪みの噴出もなかったってあるし』


 希なケースであったからして、やむを得ず急な対処を迫られたということは文面を見るからに察せられる。

 しかし、里穂にとって負担となる色(しき)を打ってほしくなかったというのが梓の本音だった。


 そして、その場にいてあげられなかったことを歯がゆく思っていた梓を、現実に引き戻すような咲弥の訝しむ声……。


「そこもなんですよね! 元々、影人にせよ歪みにせよ、属性は影(いん)な訳ですから。本来、夜であればいつ出てきてもおかしくない訳なんですが」


『確かにね。言われてみればそっか~! って感じだけど』


「問題は、こちらで〝封剋する前に影人が消えて〟しまった。という点と、そもそも影人が現れているからには歪みが発生しているはずなんですが……どうもそうじゃないっぽいんですよね」


 里穂の身体は一応大丈夫だった。とのことで、ひとまず差し迫った問題へと梓も思考を切り替える。


『今日もおかしな日だったと言えばそうだとは思うけど』


「ですよね。季節柄、影が溢れやすい時期。と言ってしまえばそれまでではあるんですけど」


『感触としては変わりなかった気もするんだけどな? 夕方の二つとも』


 今日、夕方に対処した歪みの感覚を思い出しているらしい咲弥が思案気に呟いた。梓も考えこんだようにスマホをくるくると回す。


「いずれにしてもですよ? 今日のだけではなんとも言えませんので、明日直接里穂さんから話を聞いてみて。ですかね?」


『そうなっちゃうか~。でも、他の支部とかじゃどうだったのかな?』


「これと言って、今のところ上がってきている情報はありませんが……でもまあ、早速〝長会議〟は執り行われてるようなので、それも含めて明日になりますかねー」


『うん、分かったよ。それにしても、りほりほも次から次へと大変だ!』


 話の区切りがついたとみるや、ばさりとベッドに身を投げ出した音と共に、気の抜けた咲弥の声が梓の元に届く。


「大変だ~。って他人事じゃないですよ?」


『だってね、どうなってもお姉ちゃんたちのやることに変わりはないでしょ?』


 呆れ混じりに釘を差してくる梓のことも何のその、いつもの調子に戻ってしまった咲弥から、これまた能天気な言葉が返ってくる。


「それはそうですけど。私たちで対処できなくなる前に原因ははっきりさせておかないと!」


『……まあね。でも、お姉ちゃんは限界なので、とりあえず寝ます!』


 完全に、オフモードへ移行してしまった咲弥の姿を前に、「こうなっては仕方ないですね」と梓はさっさと話を切り上げることにした。


「じゃあ、明日の朝お迎えに行きますから。ちゃんと起きててくださいよ?」


『うん、分かってる分かってる~』


「では、また明日です」


『はーい、おやすみ~』


 今にも眠りそうな咲弥のあくびを残して、梓は嘆息交じりに通話を終わらせた。


「さて、どうなってしまうことやら」


 もう一度送られた報告書に目を通すと、梓はスマホを片手に持ったまま、厚い雲のかかった夜空をキッチンの窓から見上げた。

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