全く、どういうつもりなんだい? 少しは加減というものをだね……

「なかなかどうして、雪音も無茶なことを言う。〝あと少し、助っ人が駆けつけるまで耐えてちょうだい!〟とはね」


 じめじめと夏の籠った空気が未だ抜けきらない路地裏を、走りざまにコンっと空き缶を蹴飛ばしながら、里穂は思わず苦笑を漏らした。

 額に汗で張り付いた茶っ毛混じりな幾本かの髪を手の甲で払うと、彼女はもう一度腕時計型のウェアラブル端末に目を落とす。


(……30秒、か。そのぐらいであれば、問題なく凌げるとは思うが……)


 たった今、支部に留まり周辺一帯の監視(歪みの発生状況や他に捕捉される影人がいるかどうかのモニタリング)をしてもらっていた雪音から届いた短文に、再度目を通した里穂はその目線を少し上へとずらす。

 そこには、「午後21時58分」というデジタル数字に並行して、今も上昇を続ける彼女のバイタルが表示されていた。


(体温は38度2部か。それに、心拍や呼吸数も大分上がり始めているようだね)


 色による身体能力の向上を施してから早10分。

 向上、加速だけならいざ知らず、加えて〝影人への牽制〟も含めてとなると、未だ「このレベルの負荷で済んでいる」というのが里穂としては不思議なくらいなのだが、


(体感としての余裕はあるからね。ついつい出力を上げてしまいたい気持ちにもなるんだが)


 そう独り言をしつつも、顔を上げた里穂の額や顎からは絶えずじんわりとした汗が染みだしていた。


 熱帯夜程の温度や湿度はないといっても、未だ辺りには日中貯め込んだ余熱の気配が残っている。

 しかし、そんな影響を除いたとしても制服の白シャツに覆われていない肘先や、走るたび揺れ動くプリーツ丈下の膝からは、止めどない汗が流れ落ちていた。


(とは言っても、ここでぼくが倒れていては元も子もないか。どうあれ〝30秒〟もすれば片は付けられそうだしね)


 実際、気分的には余力があるのだろうが、傍からみると心なしいつものパチッとした眉は下がり、はつらつと開かれているはずの瞳も若干苦しげに見える。

 そんな己の姿を見れてはいないものの、現在示す数字(バイタル)がどこまで跳ね上がり、尚且つ「これ以上の色行使は、どんな不調を招くか未知数だ」ということを自覚もしている里穂は、自身で手を下すより〝これからやってくるであろう助っ人〟とやらを待つことにした。


「……と決めはしたものの」


 徐々に、荒くもなり出している息の音を耳に入れて、「無理は禁物だね」と自嘲気味に笑みを浮かべた時だった。


 ふっと視線を前に戻した里穂の数メートル先。

 ここ10分、突かず離れずを維持し続けていた眼前の〝異質な存在〟が、またもや奇妙な動きを見せる。


 里穂の先を行く異物、影人はどういう訳か、人の気配が強くなる【表】の通りに通ずる角が出てくるたび、まるで吸い寄せられてでもいるかのように行く先を変えようとするのだ。


「これで何度目だいっ?」


 先ほどから大して変わり映えのしないアパートの裏階段や褪せた壁面。疎らに立つ電柱や、踏むたびにガタつくマンホールが点在する雑然とした景色の中を、短距離アスリート並みの速度で駆け抜けながら、里穂は訝し気に眉をひそめた。


 彼女の言う通り、追跡を始めてからこの方、それは何度となく見られる光景。

 しかし、この距離を保つことで精一杯な里穂は、今のところ〝影人の行動を制限する〟手だてしか持ち合わせていない。


(ただでさえ、歪みの有無もはっきりしていないというのに……さらに戦慄すべきは支部のサーチにも引っ掛からない。偶然ぼくの〝目に入って〟いなければ、この出所不明な影人を見過ごしてしまっていたかもしれないということなんだが)


 現在、逃亡を続ける影人という存在は、本来〝歪みの発生に呼応して〟確認されていたはず。

 そのはずなのだが、前触れもなく夜の街に出現したそれには歪みが伴ってすらいなかった。

 しかも里穂が煮詰まった気分を変えようと夜風に当たりに出ていなければ、発見どころか市街に混乱を及ぼす結果となっていたかもしれないのだ。


(もし今後、いやもうすでに〝そんな連中〟が出歩き回っているのだとしたら?)


「本当にもう、今日は次から次へと。実に厄介なことだね!」


 そうぼやく里穂の言葉には、ポンポンと沸いてくる懸案事項に対するわずかな焦りと、一向に縮まることのない距離へのイラ立ちが垣間見えた。


「残念だが、それでも君を表に出す訳にはいかないのでね!」


 ことによっては、直ちに住民への避難命令。ないしは誘導が行われていてもおかしくない規模の災害(ひずみ)が、近隣のどこかで発生していても何ら不思議でない状況。

 そんな懸念と不安を抱えつつも、「先の影人を放置してはおけない」と早まる鼓動を意識の外に追いやって、里穂は垂らしていた右手を徐に胸元の高さまで上げた。


 その手に挟まれるは、上部がリングで綴じられた文庫本サイズのノート。一見、何の変哲もないそれの表紙に描かれていたのは、パステルピンクな台紙に墨染の桜。


(剋紙として使えそうな分は、まだありそうか)


 それは、梓や天満のように〝十全に氣を扱うことのできない〟里穂が、力を御するための式具。もちろん彼女も、天満達同様【行を操る能力者】の一人である。

 とはいえ、彼らと唯一違うのは〝氣力の取り込み〟に難があることだろうか。


 本来、外界(自然)に溢れている氣力と体内に流れる氣力を混ぜ合わせ、というよりも【外】から【内】に流れ込んできた際に生まれる偏り。体内のバランスが傾いた瞬間に発する乱れ――反発力を色や術式という形で効している訳なのだが、

 当然、身体の均衡(バランス)を自ら崩しているのだから、何の反動もなしにとはいかない訳で。それなりの身体的負荷が掛かってしまうのは避けられなかった。


 そのストレスには大小あれど、〝息を吐くように能力を振るうことのできない〟里穂は、負担の軽減、並びに属性強化を行うための補助具として【それ】を用いていた。


(こんなことになるなら補充しておけば良かったね)


 だからと言って、特段ノートである必要はないのだが、里穂は「ギリギリポケットに突っ込んで持ち歩けそうな物」を携帯していた。


 というか実のところ、【五行色体】の表に該当する属性を有していればどんな物質でも構わなかった。

 それを一応「学生が所持していても不自然でなく、且つ普段使いもできそうなノートを」ということで、里穂は式具に文房具を選択していた。


(しかしまあ、助っ人とやらがやってくるまでは持つだろう)


 湿った指先で表紙をめくると、それぞれ薄い青や赤、黄色に白や黒といった配色に染められた方眼紙の束が数10枚。

 単に、文字やグラフを記すためのマス目に思えるその方眼は、縦横綺麗に栓が引かれていることで〝格子模様〟を描いているようにも見える。


 手首に巻かれた端末から漏れる液晶光を頼りに、紙を送っていた里穂の手がふと止まった。

 そのページには、それまでの方眼とは異なり、淡い黄色地の色紙に簡素な五角形の図。


「色転(しきてん)」


 お目当ての【色紙】を見つけ出した里穂は、リングの中に差し込んであったボールペンを抜き出すと、唇で挟んだキャップをカポッと外す。

 そして、5つの点から成る五芒星のひとつ。ちょうど、影の属性が強まる【北】の相剋位に当たる〝左斜め下の一角〟にさらさらと丸印を付けた。


 と同時、式具の特性を引き出すための〝呼び水となる己の氣〟を一気に注ぎ込む。

 かと思いきや、リングからその1枚を破り取ると〝左の人差し指と中指〟で挟み込み、影人の足元目掛け投擲した。


「……?」


 前方、右に曲がりかけていた影人の爪先付近――転がっていた空き瓶の底に吸い寄せられるよう投げられた色紙は、途中へなりと撓みもせずに真っすぐ着弾!

 途端、当たった色紙が地面に落ちるよりも先、黄金色の火花を散らしてカッと爆ぜた。次いで、瞬く間にその火の粉は色紙を包み込み灰へと変えていく。


 爆ぜるに合わせできた火種は、手持ち花火のように燃え広がりながら一瞬暗い路地を明るく黄色に染める。辺りの闇を裂いたのもわずかな合間、直下にあった空き瓶にも火の粉が降り注いだ。

 降り掛かるや否や、瓶はパリンッという硬質な音と共にひび割れて、そのガラス片を放射状に撒き散らした。


「!?」


 その衝撃と飛んでくる破片に肩をビクンと跳ねさせた影人は、慌てたように出そうとしていた足を引っ込める。

 もう幾度目になるか分からない妨害を受けて、影人はまた強制的に向きを正面へと戻された。


(これは、少々不味いかもしれないね)


 そんな影人の様子を眺めつつ、口元の蓋にペン先を差し入れていると、里穂は「おや」というように眉をひそめた。


(路地を抜け切るまで、残り100メーター強といったところか)


 ここまでは、どうにか人目に付きにくそうな裏道を経由して影人を誘導してこれた里穂。

 等々、それにも限界がきたようで、あと幾ばくかもすれば駅前大通程幅広でないものの、比較的交通量の多い片側二車線の道路に辿り着いてしまいそうだった。


(唯一、追い込めそうな角は過ぎてしまったし……)


 微妙にくらくらしだした頭で〝己の見立ての甘さ〟に臍を噛みながら、里穂はちらと背後を振り返る。

 常に、人通りのない方へ影人の足が運ぶよう差し向けてきた里穂も、すでに「影人を追い立てられそうな分岐や角はなさそうだ」ということを、空き瓶を爆ぜさせた後になって気付く。


(やはり、思いの外疲労が蓄積しているようだね)


 すぐに向き直った里穂は、またもや額に張り付く髪の毛を払い除け、「どうしたものか」と思案を巡らす。


「仕方ない、か)


 ここにきて、否が応でも〝色行使の反動〟を意識させられた里穂は、多少眩暈のし始めた頭のこめかみを押さえる。

 そんな里穂が逡巡している間にも、影人の速度は緩まることを知らない。


(距離で稼げないなら手数を増やして足止めするしかないね!)


 コンマ秒で方針を切り替えた里穂は、垂れそうになる頭を無理矢理上げて、影人が一直線に進んでいく方向――数10秒置きに通過していく車両のヘッドライトと、通り向かいの街灯から微かに届く明かりに照らされた路面を真っすぐ見据えた。


(2秒でも3秒でもかまわない。〝表〟に出させなければぼくの勝ちだ!)


 出した結論を実行しようと、里穂は重みの増したように感じる右腕をもう一度持ち上げた。

 そうして、汗で滑る指先をボトムのスカートに擦りつけてから、ペンを抜き取って〝掲げたノート〟に氣力を流し込もうとした瞬間、


「会長さん! 伏せろ!!」


 不調を訴えてくる己の身体に鞭打って、ペンを握りしめた里穂の耳に上空から声が降ってきた。

 そんな状態でも咄嗟に身体が動いたのはさすがというべきか、その言葉が言い終わるよりも先、里穂は回していた両脚に急ブレーキを掛けすぐさま半身を伏せた。


「っ……!」


 取り落としたペンもそのままに、フリーになった左手で頭を庇いながら、里穂は目線だけで〝降ってきたそれ〟を追いかける。


 屈むのと同時、目に入る汗でにじむ視界に映るのは、アパートの屋根から流星のごとき勢いで飛び降りてくる青年の姿。

 術式で覆っているのであろう鈍く光る両足で、屋根をトンっと蹴った青年は、眼下の【影】に向かって飛び掛かろうとする。


 足底に纏わせた五角形(五芒星)の輝きは、長点から次の一角に向かい右回りに「青・赤・黄・白・黒」に光る線を伸ばしている。青年が滞空していたのもわずかな時間、咄嗟に影人が振り仰いだ頃には、その頭上に踵が振り下ろされていた。


「全く、君というやつは……加減ってものを知らないのかい?」


 勢いもそのままに青年がスニーカーの踵を振り終えると、鈍い振動と共にアパートの壁や屋根に堆積していた土埃がパラパラと振ってくる。さらに、着地に合わせズシンという重い音が響くと同時、固いコンクリートの地面に無数の亀裂が拵えられた。


 反射的に、目を瞑ってしまった里穂は、思わずケホコホと舞い散る埃に咳き込む。

 口元を右手のノートで押さえつつ、何度か瞼を瞬かせると、里穂は未だ中空に浮かぶ埃の向こう――構えを解いたと見える青年をねめつけた。


「いや、だから〝伏せろ!〟ってちゃんと忠告したろ?」


「そういう問題ではなくてだね!?」


 待ち望んでいた助っ人がきたとあって「ようやく、ぼくの負担も軽くなりそうだ」と里穂は氣の出力を落としかけていた。


 これで、少しは呼吸も整えられそうだね。と悲鳴を上げる身体のサインに従って一息吐こうとしたその矢先、味方であるはずの天満から受けた仕打ちに思わず大きな声が出てしまう。

 一方、駆け付けた青年こと月代天満は、そう抗議してくる里穂に対し不満げなご様子。


 術式の五芒星(エフェクト)――光源がなくなってしまったせいでその表情をはっきりと伺い知ることはできないが、いかにも心外です。というようにその釣り目を不服そうに細めていた。


「そんなことよりもだ。影人は?」


「……わりい。その、なんだ。助けに来てなんだけどよ……どうやら逃がしちまったみてえだわ」


 かといって、里穂と天満の間に険悪な雰囲気が流れることはなかった。2人とも、さすがにこの状況で〝大事な目的〟を見失ってはいない。


 なので、文句もそこそこに里穂はすぐ〝影人の所在〟を尋ねた。

 が、天満から返ってきた答えはと言えば何故か本人も困惑しているような、どこか煮え切らない物だった。


「逃がしたって君、封剋できたんじゃないのかい? 現に……」


「俺も、そう思ったんだけどよ?」


 だとしたら、何悠長なことを。と何か言い募ろうとしていた天満を押し除けて、里穂は彼の身体に隠れていた路地の奥や屋根の上を見やる。


「どうなっているんだい?」


 そのセリフは、ド派手に登場したにも関わらず、みすみす影人(ターゲット)を取り逃がした彼に対するものというよりは、もっと根本的な疑問。


 ここから路地の出口までは一本道。天満が降りてきたのと入れ違いに影人が屋根に飛び乗った様子もなく、もちろん里穂の感知に引っ掛かってくるものもない。

 というか、間違いなく〝術式を帯びた左足で蹴り下ろされる〟瞬間を目にしていたのだ。影人には回避行動を取る余裕などなかったように思える。


「さあな。そんなの俺が一番聞きてえよ! 確かに、踵が当たった感触はあったんだけど」


 別に、答えを求めて漏らした言葉ではなかったのだが、律儀にも応答を返してくれる天満の声を聞きながら、里穂は何度も周囲を見回す。

 あれから数秒程経過しているが、数十メートル離れた通りで何らかの騒ぎが起きているような雰囲気もなさそうだ。


「念のためにもう一度確認するが、〝封剋を済ませられた感覚〟はなかったんだね?」


「ん、ああ。術式をすり抜けられた。とかじゃなくて、文字通り〝影も形もなくなった〟っていう方が近いだろうな。実際、式は展開していたけど、まだ〝封剋の封〟の字もする前だったしよ」


 ただでさえ、出所の分からない影人が封剋も待たず消息を絶ったという現状に、思い切り顔を顰めながら天満が言う。


「もしもし雪音、聞こえているかい?」


 そんな天満が何やら術式【燥土風転】を発動している傍らで、里穂は手元の腕時計型端末の通信をオンにした。

 通話をつないで里穂が呼び掛けている間に、両脚を淡く青色に発光させた天満が、宙を蹴りつけ身体を浮かび上がらせていく。


『はい、こちらオペレータールーム。ええ、聞こえているわよ』


 ふわりふわりと、ゆっくりした動作で半径数十メートルの範囲を、上空から偵察しに行った天満を視界の端に捉えつつ応答を待っていると、瞬時に通信相手からの返事が返ってきた。


「月代とは合流できたが、問題が発生した」


『そのようね。モニターはしていたから、だいたいの状況は把握しているけど……』


「なら話は早いね。それで、影人の反応は?」


『そう、ね。端的に言ってしまうと、消失(ロスト)したということになるのでしょうけど。正確には、月代君の生転術式――星生(せいしょう)天陣(てんじん)が展開された直後、捕捉していたはずの〝影の氣〟が追えなくなったというべきかしら』


 先ほどの一連の模様をモニター上で注視していた雪音は、落ち着いた口調で里穂に事実を告げる。

 淡々と語られるその〝ありえべかざる事象〟に、里穂は思わず息をのんだ。


「……それは」


『残念ながら、封剋は失敗。というよりも、処理を行う前に〝消息が途絶えてしまった〟ということを、どう捉えたものかといった感じね』


 ただ、封剋が行われていないというのは確かだと思うわ。その際の兆候が見られないもの。と今夜得られた氣(データ)を見返しているらしき雪音から、難し気な声が漏れた。


『それに……』


 そう続ける雪音が、マウスを操作して〝消えた反応〟を探しているような音が通話越しにも聞こえてくる。


『里穂のおかげで貯まった影人のデータを元に、そもそもの噴出ポイントとなる歪みを割り出せないかとも思ったのだけど……やっぱりダメね。そんな場所どころか、発生因子も見当たらないわ!』


 封剋が済んでいないのだとしたら、発現箇所の氣もまだ残っているのではないかと思ったのだけど。と手を止めた雪音が、考え込んだように呟く。


「どういう理由か不明だが、ずいぶん長い時間逃げ回っていたからね。例え初めはぼくらに感知されないレベルだったとしても、影人に引っ張られて歪みも大きな反応を見せるかと思ったんだが……」


 結局、どちらも掴めずじまいとは。と増える一方の懸案事項に、里穂は苦笑しながら肩をすくめた。


「分かった。ひとまず、ぼくらは急いで支部に戻るとするよ」


 月代のせいで誰かがやってこないとも限らないしね。と延伸上にひび割れた地面を一瞬ウェアラブル端末のフラッシュライトで照らしてから、里穂は呆れたように踵を返した。

 完全に、色を解いてはいないものの、ようやく呼吸や汗が落ち着いて今度は肌にへばりついてくるシャツや下着が気持ち悪い(というより、早くシャワー浴びたい)というのもあるが、検討しなければならないことをとっとと帰って詰めたかった。


「雪音は、一応そのままモニタリングを続けてくれ。何か変わったようなことがあったらすぐ連絡を!」


『了解よ』


 一体全体、追い詰めた影人はどこに姿をくらましたのか、果たして本当に歪みは発生していなかったのか。またしても増えた懸案に、疲労感を覚えつつもさっさと撤収しようとして、


「やっぱ、どこにもいなさそうだわ。ざっと見回ってきたけどよ」


 徒労感にも似たやりきれなさを抱え、重たい足を前に出そうとしていた里穂の背後に、リサーチを終えたと思われる天満がストンっと降り立った。


「やはりかい。今雪音の方からも、ちょうど術式生天後に〝消息を追えなくなった〟」という報告をもらったところだよ」


「そっか。あっちの通りも軽く探ってみたけど、何の残滓も感じられなかったわ」


「あれほど〝人の気配〟がする方角へ進もうとしていたのにね。……近場のバックストリートにも反応なし、か」


 まあ、それもこれも帰投してから検証することにしよう。と里穂が沈みかけた思考を打ち切って、今度こそ一歩を踏み出した。


「そう、だな。このままここにいてもらちが明かなそうだし。ってか、ちっと待った! 会長さん」


 里穂の提案に頷いて、後に続こうとした天満がピタと足を止める。


「ほい、これ会長さんのだろ?」


 何事だい。と怪訝そうに振り返った里穂に、彼女がさっき落としたボールペンを拾い上げた天満が、それをひょいと手渡した。


「あ、すまない。ありがとう、すっかり忘れていたよ」


 身体を伏せた時に取り落としたと見えるペンを受け取って、彼に礼を告げながら、里穂は元来た道。車の走行音やうっすら聞こえてくる雑踏とは反対の、澱んだ空気と静けさが漂う裏路地を引き返し始めた。

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