学ぶべき論値

エリー.ファー

学ぶべき論値

 研究がひと段落して。

 少しばかりコーヒーを飲んで。

 ノートパソコンの壁紙を変えて。

 自分の指先についていた糸くずをとって。

 少し考える。

 あの、糸くずがずっとついていたとして、この研究に何か影響が出るだろうか。

 大丈夫だと思うことにした。

 コーヒーをまた少しばかり飲む。

 人類が滅亡した場合の、種の保存のための効率的な冷凍の仕方。

 そんな研究を続けて六年以上が経過した。意味のある研究であるとは思う。

 けれど。

 それが使われる日はいつなのだろうかとも考えてしまう。

 きっと何百年、何千年後であると思うが、その前に種の保存自体が無駄になるようなアクシデントが人類にふりかかったとしたら。

 人類以外の生き物の命に降りかかったとしたら。

 これも無駄になる。

 そんなことを考えたら、意味がないということになってしまうので、ここでその考えは捨て去ることにするが。

 しかし、どうなのだろうか。

 種を保存すれば、絶えてしまったとしてもまたそこから始まるという考え。

 それを望んでいるのだろうか。

 その生き物が、ということではない。その時の人間が、ということではない。

 命が、ということである。

 皮や肉、骨、血液、意思、そういったものの話ではない。

 命自体がそれを求めているのだろうか。

 そこまでして生きていたいのだろうか。

 命は、命を大切に扱うべきとの考えを持っているのか。

 もしも、もしもだ。

 その考えを持っているのなら、命に失うという機能を、死という機能を、備えるべきではなかっただろう。 

 永遠を搭載すべきだっただろう。

 しかし、命はそこに存在する限り必ず老いていく。存在することが死に近いのだ。存在し続けることで死にやすくなるという矛盾。

 保存され、生き残り、誰かが触れて、生み出されて。

 これは冷凍保存というものに限った話ではないのか。

 そうか。

 これは、普通のことなのか。

 どんな生き物も、その体に命をパックして、死にたくないからそれをできる限り質のいい形で運び続け、それに誰かが、もしくは自分から触れて、または触れさせることで新たに生み出す。

 冷凍保存というものを非自然的であると考えていた。

 けれど、それを繰り返してきたのか。

 だから、ここまで命は連なり、至り、人の手である程度コントロールされるまでになったのか。

 たまに思うことがある。

 私のしていることは本当に問題がないのかと。実はかなり先の世界で自分のしているこの行為の一つ一つが、何か重大な問題の一端を担っているのではないかと。

 この世の生命に重大な危険が及んだ場合のバックアップとして行われているこの研究が、その重大な危険を生み出すきっかけになっている場合はないのだろうか。

 私は今。

 何をしているのか。

 研究をしているのか。研究の必要性を高めているのか。

 私が研究をしなければ、この研究の必要性は下がるのではないか。

 研究をする前に、私たちが気付くべきなのはその点なのではないか。

 研究の結果ではなく、この研究が生まれるに至った過程なのではないか。

「主任。まだお帰りになられないのですか」

 私は振り向く。

 部下がこちらを見ていた。

 私は微笑む。

「いや、そろそろ帰るよ」

「そうですか。後は僕がやっておきましょうか」

「いや、いいんだ。私がやろう」

 研究棟にいる研究員は、間もなく私一人になる。

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