第5話 メロンパン
不味い。
と、口に出して言うわけにいかなかった。それは本当に不味いならともかく、誰かの言う通りパンに罪はないからだ。
美味いと認めたくないのは、勝ち誇ったような顔をしているこの犬、もとい遊び相手を見つけて逃さないと引っ付いて回るダックスフントみたいな、水樹が原因だった。
「美味いでしょ、このメロンパン。俺のお気に入りでさ、家の近くで買って行くんだよね。売店には売ってないし。サクサクじゃなくてちょっとベタってして、バター風味が強いのがポイント」
そういって彼も同じものを頬張っていた。
空腹には勝てず、まんまと彼の策略にハマり、こうして中庭のベンチで、隣り合ってパンを齧っている。憎たらしいと思いながらも、空腹で苛立っていた頭に糖が回り、少しずつ今朝のことと併せて、落ち着きを取り戻していく。
自分自身の矛盾を、一時停止させてから。
「……あのさ」
「うん? 何?」
「痴漢。見てたってことか?」
「え? あぁ、朝の。見てたよ。って、痴漢現場を見てたんじゃなくて、相原が取り押さえてバタバタし出してからだけどね」
「……ふーん」
「まあ、だからって最初から俺が、犯人が痴漢しているのを見た所でさ。相原と同じことをしようって気にはならなかっただろうな、ってのが本心。かっこ悪いけどね」
彼が話し始めたのをきっかけに、無心でメロンパンを頬張る。
「ちょうどその時、男がどうとか女がどうとか、そんなネット記事見ててさ。俺、男なら尚更絶対痴漢とか許せない、って思ってるんだけど。それでも、いざ取り押さえてるの見たら、かっけぇ……って思ったしさ。それと同じくらい……今の自分には無理だな、ってのも思った。その数秒だけで、物凄いコンプレックスだよ。同じ男なのにさ」
メロンパンの端がポロと溢れる。気を取り直して溢さないよう噛み付いて。
「相原って、どういう気持ちで取り押さえたのさ、あの痴漢。格闘技やってたからって、そういう気持ちにはならないでしょ。色んなリスクもあるわけだしさ。それとも、体が先に動いちゃって、っていうタイプ?」
ゆっくりとその質問とメロンパンを咀嚼して。
“性別を無理解なまま、己のために利用する奴は許せないから”
ふと浮かんだ答えと口に含んだメロンパンを飲み込んでから、彼の問いに答える。
「……単にムカついただけだって。朝は運が悪くて、苛々してる時に痴漢を見つけた。あぁ、これはいいサンドバックが見つかってラッキーって組み伏せただけだよ。あんなの、普段なら俺だって無視してる」
そうしてまた、メロンパンを頬張る。誤魔化すみたいに、先よりも大きな口で口一杯に。
「そっか。それでも凄いと思うけどなぁ」
彼は続ける。シャドーボクシングの格好をして見せて。
「どんな強敵でも妄想の中じゃ一撃だよ。でも、あんな卑怯な奴相手でも、実際拳一つ出すのに全力じゃ足りないくらいの勇気が必要。そう考えたら、やっぱり相原っていい意味で普通じゃないよ。もっと自分のこと、褒め称えてもいい気がするけどな」
そしてヒーローのつもりなのか、謎の決めポーズをしてこちらに向かって指を差す。
「あの時の相原はマジでヒーローだし、女子からしたら、キャー!カッコいい!って抱きつきたくなるようなシーンだったでしょ」
口の中にメロンパンを詰め込んだことを後悔した。何か言おうにもメロンパンが邪魔をして、せめてもの抵抗と睨み付ける。あまりに小恥ずかしいセリフばかり言う彼を止めようと思ったが、もう遅かった。
「でもさ。相原って、貫禄ある割りに結構謙虚なんだ。軽く口悪いヤンキーかと思ったら、単なるツンデレって感じ?」
急にニヤリとした彼の言葉に思わず咽せそうになる。しかしまだ口の中が一杯で抗議することもできない。
「照れなくてもいいじゃん、それこそクラスの女子が知ったらモテると思うけどな。というか、そういう話もまだ聞いてないしね」
そんなやりとりをしていると反論する間も無く、やがてチャイムが鳴り響く。予鈴の音だ。彼は立ち上がって、メロンパンの袋をクシャクシャにしてゴミ箱に投げ入れた。
「やっぱりメロンパンあげて正解だったよ。俺の楽しみの一つだからよっぽどじゃなきゃ人にあげたりしないけど。相原と話せたんなら安い安い。ね、また話そうよ、メロンパン目的でもいいしさ。それこそ、もう友達を名乗ったら怒る?」
ようやく口の中のメロンパンを飲み込んで、彼を見る。何か言おうとして、彼に先を越される。
「相原といれば、やっぱり何か見えてくる気がするけどな。別に俺だってもうこの歳だから、アンパンヒーローやスパイダーヒーロー、アイアンヒーローになれると思ってないけど、ちょっとでも人のこと救ったりして、自分に自信持ちたいって思うんだよね。それで、ちょっとした野望もあったりしてさ」
彼は楽しそうにそう言って。
「野望?」
思わず聞き返してしまう。
「あぁ、野望って言うとちょっと大袈裟だけど。少し恥ずかしい気もするけど、相原には教えるよ。その代わり、次のメロンパンでね」
そう言って彼は走って教室に戻っていく。自分も早く戻らないと。そう思いながら、掌に残ったメロンパンの袋を見つめて。
“尊敬する、か”
何度再生しても慣れない、小恥ずかしい言葉。でもそれは、今になっては余りに薄すぎる勲章。たった一人の同級生から認められようが——
『真琴といると、男が感染る……!』
『異常なの、気づいてよ。皆迷惑してるって、何でわかんないの』
『オトコオンナ。都合よく変えられるって便利だよなー』
テレビの砂嵐みたいに、一瞬視界が濁った。思い出したくない過去の記憶。
痛い。
鼓舞する言葉を塗っても、癒えることのない傷。痛みに耐えようと袋をくしゃくしゃに握りつぶそうとして。
『凄いと思う』
たった一人の言葉が、反響して、手が止まる。くしゃくしゃになりかけた袋がゆっくりと開いて、中途半端に固まって。
「……うるさいな」
”ちょっとだけ救われた気になっても、いいのかな”
本鈴のチャイムが鳴り響く。メロンパンは、確かに美味かった。
「……ご馳走様でした」
袋をゴミ箱にそっと投げ捨てて、教室へと向かった。
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