第4話 翔との取引

 彼はそれ以降近づいてこなかったが、昼時になって廊下を歩いていると偶然顔を合わせた。本日何度目かの嘆息。思わず反射的に踵を返して考える。


 ”反対側の階段から降りて売店に向かおう”


 そう思っていたのに、何の悪びれもなく彼は駆け足で近づいてくる。


「今朝はごめん、いきなり馴れ馴れしくし過ぎたよね」


「そういう問題じゃない」


「いや、本当午前中反省したんだって」


 そう言って並走してついてくる。パパラッチか何かなのか、こいつは。


「なら何で話しかけてくるんだよ。日本語通じないのか」


「いや、それでもやっぱり師匠の教えは乞いたいって思うじゃん。弟子入りを拒否されても引き下がれない心境、分かるでしょ?」


「話しになんねぇよ」


 今すぐにでも殴り飛ばして走っていきたい気持ちもあったが、結局燻ったままの気持ちはすぐに晴れなかった。


 どうしてこんなに素直になれないのか。それは、結局自分のコンプレックスと、トラウマの八つ当たりだってこと、心のどこかでは分かっていて。


“違う”


 すぐに内心で呟く。お前はもう出てくるな。そう抑え込む。そうだ、余計なことを思い出させるこいつが悪い。しかし、いくらつっけんどんな対応をしても、無駄に人懐っこい犬みたいに、後ろをついて離れない。


「でもさ、絡むなって言う割に無視しないでくれてるよね、相原」


「行先を邪魔されてるからだろうが」


「別に、走って逃げればいいだけなのに」


「何で俺がお前のために走らなきゃいけない」


「じゃあ走らないで俺の話を聞いてよ。少しくらいいいでしょ」


 ああ言えばこう言う。苛立ちは既にピーク。無視をしようにも走って逃げようにも、学校の廊下で常に走りっぱなしというわけにもいかない。


 それがもう自分の中で行き止まりになってしまって、風船が破裂したみたいに。


「お前は俺をどうしたいんだよ……!」


 つい声が大きくなると、廊下が一瞬だけざわめき立つ。ハッとしてその場から離れる。幸い階段付近で、舌打ちをしながら逃げるように階段を降りる。


 それでもコイツは変わらない。忌々しいほどに。


「いや、どうしたいとかじゃなくてさ。仲良くなりたいって、改めてお願いしにきたいんだけど。というか、少し強引にでもそのつもりで」


「なら勝手にすればいいだろ。この対応は変わんないけどな」


「なら俺もしつこくついてくことにするよ」


 勝手にしろと、彼の言う通り軽い駆け足で階段を降り、すぐさま売店へ。すると珍しく人だかりがない。ゆっくり売店に近づけば、張り紙が。


「……あれ、今日売店休みなんだ。というか、相原って買い飯なんだ」


 少しの間立ち尽くす。隣でガヤガヤ言い続けてる犬は無視してその場を後にする。


「ってあれ、どうするの? 昼飯は」


「うるさい。お前には関係ない」


 そうは言っても売店で買おうとしていたのがバレているため、バツが悪い。

 その表情を見てか、彼は自慢気な表情を隠そうともせずに。


「俺、パン余ってるけど」


 そう言って手にぶら下げた半透明のレジ袋。中に入ってるのはおそらくパンなんだろう。無視していたせいで気がつかなかった。


 そんなもの、と一蹴したい気持ちはあった。ただ、自分にとって昼飯は重要で、彼がいなければ売店の前で大きく項垂れ、舌打ちまでしていたところかも知れない。


 その八つ当たりに最適かと思えば、今の自分にとって喉から手が出る程の提案をしてくる水樹。葛藤に耐えきれず、結局八つ当たりしてしまう。


「は? だから何だよ」


「別に、わかりやすい取引でしょ」


「取引って。そのパンくれるってことかよ」


 もちろん。その代わり、話しようよ。目でそう答えて、彼は微笑むだけだった。その一瞬、こちらが油断して心を許したのを彼は見逃さずニヤニヤしながらパンを掲げて。


「昼飯に罪はないじゃん? どう、これだけでも」


 これほどまでに空腹を恨んだのは、人生で初めてだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る