第12話 自分の正体

 詩織の声を背中で聞きながら、逃げるようにその場を立ち去る。胃の中がかき回されたように不快感が拭えない。急いで教室から抜け出して、廊下に出て彼女たちの声が聞こえなくなる。どっと力が抜けて、ふらふらとしながらも足を動かしていく。


 自分のことじゃない、関係ない。そう言い聞かせてなんとか平静を取り戻そうとするものの。なんでこんなに自分が動揺するんだろう。


 そうして気がつけばいつもの木陰。どうやってここまで歩いてきたか、記憶が曖昧だった。そこに座っている彼女が発した声で我に返って。


「あ、千秋! ってどうしたの!? 顔色悪いみたいだけど、また具合悪いんじゃ……」

「ち、違うよ、大丈夫。大丈夫だから。それより、遅れてごめんね、はる」

「ううん、私も遅れるって話してたから」


 はるはそう言いながら、ベンチに座る自分のことを心配そうに見つめていた。


 もう昼休みも半分近くになっていた。そういう反省や後悔、話したいこと、沢山の悪意とで、心の中はめちゃくちゃで。


 そういう中でパンを取り出して、両の手に収めたまま。一口も食べられないままに思う。それを、いつもなら熟考するのに、気がつけばやけくそとばかりに声に出していた。


「はるは、あの噂聞いた? 先輩たちの」

「え? あぁ、うん。一個上の先輩の話だよね。ちょっと聞いたよ。みんな騒いでた」


 はるは少し意外そうな顔をして、それでも自然に返してくれた。

 自分は、自分がどんな顔をしているか分からないまま続ける。


「はるは、どう思う?」

「どう、って?」

「そういう、ゲイとか。前に言ってくれてたよね。女らしいとかそういうの気にしないって」


 教室で縮こまってたのが嘘になるくらい、言葉が出てくる。けれど発した後に震える。彼女に聞きたいこと、それが今の騒動と混ざって、自分の内側から溢れ出すみたいに。


「うん、まあ皆が気にするのも分かる、って感じかな。見方によっては確かに珍しいとか、気になるけど」


 きっと自分は、彼女をテストしていて。それがどれだけ烏滸がましくて、卑劣なことだって分かっていた。それでも彼女が本当に、本当に信じられるのか。自分の中の声が言ったことを、撤回させたい。彼女は、本当にそういう人間なんだって、安心したい。身勝手な思いだった。


「そうだよね」

「でも、やっぱり自由だと思うよ。私たちに理解できないこともあるし、理解して欲しいって思わない人たちもいるだろうし」


 彼女は何か探るような、少し困ったような顔をしながらも、毅然と答えてくれる。


「もちろん、近い人だったり直接相談されたりしたら、もっと歩み寄って話をすることもあるかもしれないけどね。そういう難しいこと抜きにして、私はそれぞれが好きにすればいいと思う」

「そっか」

「……って、回答でよかった?」

「え? あ、う、うん」


 何か見透かされたような、そんな間があって。それでも不思議と嫌な感情はなく、彼女の屈託のない表情に吸い込まれる。重たい空気を振り払うように、彼女は笑って見せた。


「久しぶりにお昼食べてて、この話題はヘビーだよね」


 それはごめん、と言うべきなのか。考えている間に彼女が続けた。


「なんて、別に千秋を責めてるわけじゃないよ。パン、食べたら?」

「え? あ、そうだった」


 頷いてから、ふと手元をみればパンがあった。まだ一口も手をつけていない。自然とそれを口に運ぶ。美味しい。甘味が広がって、ゆっくりと噛んで行けば、五感を刺激する。


 彼女はきっと、悟ってくれていたんだろう。自分が何となく話したいことを。そう思うと、自分の中から何か込み上がってくるものを感じた。押さえ込むように、それが思わず溢れるように。


「やっぱりはるは、凄いよ」

「え? 急にどうしたの?」

「ううん、ただ思ったんだ」


 彼女は少しの時間、沈黙した。こちらの不親切な受け答えを、ゆっくりと紐解いていくように。


「この話題も、なんとなく千秋ならあんまり触れないような気がしたけど。何かあった?」


 ”千秋らしくない”という言葉を使わないのは、やっぱり彼女ならではだなと思った。それを問われて嫌な感じがしなかったのは、もうほとんど彼女に悟られていると実感していたからで。だからこそ、少しでも自分のことを知って欲しいと。


「自分は、あんまり自信がなくて。だから、素直にはるが凄いって思ったし、羨ましいなって。まだ何回かしか話してないのに、前から友達だったみたいって、自分は勝手に思ってて。それで、さっきの話も、はるならちゃんと話せるような気がしたから」


 少しでも彼女と並べるよう、毅然と話したつもりだった。けれど出てくるのは抽象的なことばばかり。


 ”友達だったみたいって、勝手に思ってて”


 結局それさえも、ちゃんと言えない。でも今更、彼女の前で劣等感なんて覚える必要ないんだと。少しでも肯定してくれる彼女の言葉を、素直に受け入れたいと、都合よく解釈した。


 けれど、彼女は自分の言葉を聞いて、


「そっかぁ。でも、私だって……というか、私の方が千秋が言うような大した人間じゃないと思うけどな」


 一瞬目を伏せて、憂いた表情を見せる彼女は、どこか妖艶さが漂っていた。

 その表情に何か揺れ動かされたような気がした。けれど、ふと目を向け直すといつもの彼女の笑顔で。


「でも、嬉しいよ。そういう風に直接言ってくれる人中々いないし。誰だって褒めてもらえたら嬉しいもんね」


 うんうんと頷きながら、彼女は思い出したように。


「そうだ。千秋が覚えてるか分からないけど、最初に会った時言ったこと覚えてる? 千秋のこと気になってた、って」

「え? あぁ、そういえば……」

「あれね、実は私も千秋のすごい所、たくさん知ってるんだよ。でも、今はまだ教えない」


 と、意地悪な表情で笑って見せて。その表情に、一瞬吸い込まれそうになる。

 言葉に詰まって、脈が早くなっていく。そのせいか、ほとんど反射的に言葉を返していた。


「え? な、なんで?」

「だって、まだあんまり喋ってないでしょ? 私だって千秋ともっと色々喋りたいから。その口実として取っておくの。そしたら気になるでしょ?」


 彼女がそうやって楽しそうにしてくれるのが、不思議だった。

 だってそれは、自分が求めていたものだったから。胸の内が熱くなるようで、もどかしかった。自分だって、もっと知りたい。もっともっと喋りたいよ。


 むしろ自分は、まだはるのことを知れていないよ。なのに、どうして。


 ――友達以上の。


 ハッと意識を戻せば、まただ、と自覚する。けれどそこに、見たこともない感情ばかりが並んでいた。不安、知りたいという気持ち、それに……


 嫉妬?


 瞬間、心臓が大きく脈打った。彼女に対して、自分は依存しているのだろうか。それとも、何か違う。いや、違う。分からない。分からないけれど。


 ”はる”


 言葉に出せない、胸の内で呟く彼女の名前は、いつも他の人とは違う響きを帯びていて。いつも、太陽のような輝きと温もりをくれる。そんな彼女を前にして、必死に平静を装って見せる。


「それなら、それでもいいけど。その代わり、いつか教えてね?」

「うーん、どうしようかなぁ」


 そうしている内に、また予鈴。パンはなんとか食べきれて、今日は二人で袋を捨てる。



 結局その話題以外はそれほど話せずに、人気のない廊下を歩く。


 ”明日もお昼一緒に食べよう”


 その一言を言う瞬間を見計っていた。


 すると、正面から一人の男子生徒。よく見れば一学年上。すれ違うかと思いきや、その人がこちらを見て、唐突に話しかける。一人驚いていると。


「あれ、はる?」

「翔、どうしたの? こんなところに来るなんて珍しいじゃん」

「それはこっちのセリフだよ。もしかして、野次馬? はるってそういうの興味なかったと思ったんだけどなぁ」


 男子生徒の方は爽やかな笑顔を見せながら、はるに当たり前のように話しかけていく。対するはるも、他の友人と話す時のように応えていく。二人は妙に親しそうだった。


「違うよ、お昼食べてただけ」

「なんだ、そういうことかぁ。……あれ、見たことない友達かも。ごめんごめん、勝手に話してて」


 目が合ってすぐに伏せてしまったものの、いわゆる好青年という風な男子生徒。あまり別学年にまで意識が向かないので、見覚えもないのだけれど。


「あ、千秋ごめん! この人は委員会の先輩で、幼なじみの翔……水樹センパイ、の方がいいかな??」

「別に、はるの友達なら翔でもいいんだけどね。改めて、水樹です。千秋ちゃん、でいいのかな?」


 はるはまた茶化すような表情で彼を冗談まじりに紹介してくれる。その水樹先輩は委員会の先輩、そして幼なじみ。そういう関係ならその距離感も納得、と一瞬思ったものの、実際どこまでの幼馴染なら異性とこれくらい仲良くなれるのか、というのは自分には分からなかった。


 ――そこに異性も同性もないんじゃないかって。


 聞こえない振りをして、自己紹介をする。


「あ、自分は瀬戸千秋、です」

「瀬戸さん、ね。あ、そうそう。はるは後で手伝ってよ。まだ少し仕事が残ってるからさ」

「えぇ、さっき少し手伝ったのに」

「ごめん、他の人があんまり捕まらなくってさ。っと、授業ももう始まっちゃうよ。二人も急いでね。それじゃまた、瀬戸さん、はる」


 そう言って水樹先輩は軽く走りながら去っていった。二人の話から、はるがお昼休みに遅れると言ったのはこのことだと、話が繋がった。


 はるは軽く手を振って、行こうと自分に声をかけて。幼なじみ。それがどういう関係なんだろうと問い詰めることはできなかった。


 二人が話していた時のはるの表情を見ても、いつもは透けて見えるはずの感情は見えてこない。何を怖がっているのだろう。危ぶんでいるのだろう。


 いや、それよりも。彼の、水樹先輩のはるを見る目に、何か見覚えがあった。


 ――背筋に悪寒が走る。


「ッ……」

「千秋? どうかした?」

「い、いや……なんでもない」


 その正体が分からないまま、気付けば感情の昂りが収まっているのが分かった。束の間の、初めての感情。違和感のある先輩。まだ混乱することばかりで、何も答えは出ていない。


 それでももう、疲れてしまったと、今日だけは思考のスイッチをオフにして。また明日も、はると喋れる。それだけで失いかけた熱が戻ってくるのが分かる。


 それに縋るように教室の前で別れて。


 ――自分の正体が分かったって苦しいのにね。


 そんな風にどこかで笑う声がしたけれど、気にしなかった。


 ”知らないまま死ぬより、いいよ”


 心の中でそう反論した。少し得意げに、彼女の笑い方を真似て。席につけばいつもよりも自分の色が濃く見えた。



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