エピローグ

 良彦と琴子が新婚旅行へ旅立った日の夜、輝彦と千夏は、リビングでコーヒーを飲みながら兄妹会議を開いていた。千夏は、兄にはメロンを、自分には兄の半分サイズのメロンとモンブランのショートケーキを用意していた。


「お兄ちゃん、いい?お父さんたちが帰ってきたら、琴子さんのことを『お母さん』って呼ぶのよ」

「お前の言いたいことは分かるさ。でも、急にそんなことする必要はないだろう?オレたち、家族になったんだからさ、そのうち、時が来れば、自然とそう呼ぶようになるよ」


 千夏は、毅然とした態度で兄に言い返す。

「初めが肝心なの。兄貴の言うことも分かるけどさ、きっかけって、待ってたってやってきてくれないものなのよ。自分たちで、機会を作っていかなきゃ。わたしたち家族の大事な一歩なんだよ」

「お前は、分かったようなことを言うなあ。確かに、オレも琴子さんを自分の母と認めてるよ。親父との結婚を心から喜んでいるよ。オレも琴子さんが母になってくれて嬉しいんだよ。昔から自分の子供のようにかわいがってくれてたし、あんな素敵な人が自分の母だなんて、誇りにさえ思えるよ。ぶれない芯をその内にしっかりと秘めて、でもとても優しくて、真摯だけど面白くて・・・尊敬すらしてるんだから。でも、急すぎるよ・・・」


 千夏は、黙って兄の言葉を待っている。

「・・・ええい、クソ。いいか、正直に言うぞ。お兄ちゃんは、恥ずかしいんだ。照れ臭いんだ。美奈子さんにも、最近はずっとそんな呼び方はしてこなかったんだぞ」

「んー。でもね、お兄ちゃん。気持ち的に、どっちが楽で、どっちが大変かというとさ、やっぱり、初めに言っておく方が楽なのよ。絶対、その方が簡単で、気持ちもすぐ楽になるんだから。この大事な時に言いそびれてしまったら、後で修正する方が大変よ。よっぽど、そっちの方が恥ずかしいし、照れくさいもんだと思うわよ」

「そんなもんかねえ・・・」


 この妹は、最近、言い出したら聞かないようになった。いや、昔からそういうところはあったんだったけど、以前のそれは、単なる我がままな要求が多かったから、真面目に相手をしなくてもすんだ。近ごろは、自分のためじゃなくて、家族のためを思って、確固たる信念を持って、自分の意見を正論のように主張してくる。そして、自分はこいつの言う『正論』に、理屈で反論することができない。反論すればするほど、言いくるめられてしまう。どうやら従うしかなさそうだ。これじゃ、どちらが、兄なのか、分からないな。輝彦は、まいった、まいった、と心の中で呟いた。


「なに、ニヤニヤしてるの?」

「え?オレ、そんな顔してたか?」

「してたわよ、思いっきり」


 輝彦は、そうかあ、と言うと下を向き、しばらく腕組みをした後、千夏に笑いかけた。

「なあ、千夏・・・生きるって楽しいことだったんだな!」

「そうよお、お兄ちゃん。こんなに楽しいことってないんだから!!」


 *************


 二人の旅行期間中、兄妹は、産みの母、美奈子のことについても意見を交わした。

「ねえ、お兄ちゃん、あの人―――美奈子さんって、何だったのかしら」

「それ、オレもときどき思うよ。分からない、が答えかな。だって、オレはあの人じゃあないんだからな」


「それって、いいの?思考停止じゃん。考えるのをあきらめちゃったら、そこで終わりじゃない?」

「いいんだよ。じゃあ、聞くけどさ、考える必要あるのか?理解する必要があるのかい?オレたちを産んでくれた。それは感謝すべきことなのかも知れない。しかし、ただそれだけの人だ。それ以上でもそれ以下でもない。お前も十分、分かってるだろ。あの人たちは、オレたちのことなんか何っにも見ちゃあいなかった。家族も、家庭も、あの家も―――自分を飾り立てるためのアクセサリーでしかなかったんだから」


「さすがお兄ちゃんだね。やっぱり頭、いいんだね。理性的に、客観的に、事実だけを見つめるとそういう答えになる―――あたしもそう思う」

「もう、いいじゃん。これから関わることもない人なんだから、気にする必要なんてないよ。持ち逃げした金でどっかの男と遊んで暮らして、それが尽きたら、どこか別の地に流れて、体でも売って暮らすんじゃないの?そんなもん、誰が買うのか知らねえけどさ」


「お兄ちゃんって、すごいことをさらりと言うのねえ。それがお兄ちゃんの割り切り方なのね。あたし、自分の兄貴のこと、全然、分かってなかったのかも知れない。お兄ちゃんってさ、もっと・・・その・・・なんていうか・・・そうそう、難しい人だと思ってた」

「なんだよ。口ごもっちゃって。煮え切らないやつとか、そういうことを言いたかったんだろ?オレ、引きこもり生活で、十分、ウジウジしたよ。数年もそうしてたら、そんな態度を取るのには満足したんだ。いや、ああいうのは、もう飽き飽きなんだ。たぶん、自分の中にある煮え切らなさの一生分を使い切ったんだよ」


「なんだかよく分からないけど、言いたいことはなんとなく分かるわ。確かにお兄ちゃん、変わったもの。でもね、あたしは・・・一人の女性として、あの人の正体が何だったのか、考えていきたいの」

「それは偉いけど・・・ほどほどにしときなよ。血のつながりって恐ろしいんだぜ。気が付かないうちに、美奈子さんの心の闇に呑み込まれるぞ。だから、あまり近づくな。お前自身も、年をとって、あるとき、ふと気が付いて後ろを振り返ったとき、自分も似たような人生を歩んでいた、なんてことになるぞ。君子、危うきに近寄らず、だ」

「分かったわ、お兄ちゃん。千夏、気をつける」

 兄の言葉に、思い当たる節のあった千夏は、素直に頷いた。


 *************


 三日目の午後。雲が高く、青空の澄み切った晩秋のその日、良彦と琴子が帰ってきた。ショートメールで彼らの帰宅時間のおよその見当はついていた。


 ガチャガチャッ・・・鍵を開けようとしている音が聞こえてくる。


 千夏が、輝彦に急いで合図をし、二人は足早に廊下に出て角の隅に隠れる。夫妻が家に入ってくるのを待ち構える。

「準備はいい?お兄ちゃん。行くわよ」

「お、おう」


 ノブがカチャッと静かな音を立てて回る。外からの光が差しこんでくる。ゆっくりとドアが開いていく―――。明日への扉だ。


 カバンが床に置かれ、玄関に二人が揃ったのを確認すると、兄妹は、飛び出していき、揃って声をかけた。

「琴子お母さん・・・お、お母さんとお父さん、お帰りなさい」

「か、か、か・・・母さん。お帰りなさい」


 良彦と琴子は互いの顔を見合わせ、そして顔を真っ赤にしている子供たちに向かうと、にっこりと笑って、兄妹に言葉を返した。

 夫妻は、その言葉に、ありったけの思いを込めた。


「ただいま。輝彦、千夏・・・」


 本当の家族になった彼らの新しい歴史が、今、はじまる――――。


                             (完)


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水面の楼閣-みなものろうかく- 蒼草太 @AoiSota2

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