第十話
新住居の契約が完了した。引っ越し業者など事前に必要な手配も全て終えた。あとは荷造り程度だが、引っ越しまであと一ヶ月もある。一息ついた良彦は、池袋のバーを訪れた。ずいぶんと久しぶりだったので―――あれほど足しげく通っていたのに、少なくとも半年は顔を出していないだろう―――、行く前に店に電話をかけ、店主に一言、二言、挨拶をし、パスタを作ってもらっておくことも頼んだ。
店主の料理はどれも美味いが、一人で店を回すことが多いので、でき上がるのに時間がかかる。店主にとっても、行く前のオーダーはありがたいことであった。その日、彼は、激務で朝からまともに食事もとれなかったため、空腹で体がふらふらするほどであり、腹もぐーぐーと鳴っていた。彼の胃袋は、何でもいいからと、食べ物の摂取を要求していた。このまま飲んだら酔ってしまうだろうし、何か胃に入れておかないとぶっ倒れそうだ、良彦はそう思った。店主のナポリタンは絶品だ。バーにしては似つかわしくない料理だろうが、鉄板の上で焼いた太目の麺の上にふわとろの卵焼きが乗り、ケチャップベースでしめるそのパスタは、昔ながらの家庭料理の一品のような風情で、良彦はそれを好んで食べていた。だから、パスタとさえ言えば、店主は「あ~良彦さんの好きな、あれね」といい、作ってくれる。店のメニューにはない良彦専用のオリジナル料理だ。
琴子とも久しく会っていない。いるだろうか。会えればいいな。良彦は、微かな期待を胸に抱きながら、店の扉をくぐった。話したいことがたくさんある。
「良彦君!?」
琴子は、はたして彼の想いを裏切らずに、そこにいた。いつものようにカウンターの右側の方に腰かけて、ビールを飲んでいたようだ。ビールということは、まだ店に来てそれほどの時間は経っていない。良彦は、勝手に店のおしぼりを取り、彼女の隣に座る。
「ようやく、ここに来たってことは・・・解決したのね。解決させたのね」
「うん。もう、やるべきことはほとんど終わったよ。約九八%完了だ・・・って今の適当な数字だけど、まあそんな感じだよ。もう後は、引っ越して家の買い手がつくくらいのことなんだ」
「まったくぅ、この男だけは。人がどれだけ心配したって思ってんのよ。千夏ちゃんからは概ねのことは聞いてたけどさ、どれだけあなたからの連絡を待ってたって思ってんのよ。あなたの口からも聞きたかったんだから。あなたの声を聞きたかったんだから。遠慮して連絡しなかったんだから。今日は、とことん付き合ってもらうから、覚悟なさいよ」
「輝彦は、夢想の世界から現実の世界に帰ってきてくれた。美奈子も同じだ。彼女は彼女で、虚構の世界からようやく脱出することができた。離れた違う土地に旅立っていったようだ。もう、彼女は俺の家にはいない。富山に住んでいるらしい」
「そう・・・」
しばしの沈黙が続く。二人とも思い思いのことを考えていた。
それは、ぼそっとした小声だった。しかし、唐突に、良彦ははっきりとした口調で告げた。
「琴子・・・会いたかったんだ。俺は・・・君が好きだ」
「あら、わたしもよ」
「いや、そういう意味じゃなくってね・・・。唐突すぎたか。それとも嫌か?いや、やっぱ、通じてないな」
彼は、腕組みをしてしばらく考え、再び口火を切った。琴子は、頬杖をついて、良彦の顔を眺め、彼の言葉を待っている。
「あ~もう!違う!よし、こうしよう。お前にも分かるように、お前のレベルに合わせてやる。・・・琴子、今日はとても月が綺麗だなあ。こう言えば伝わるか?」
「あら、それっくらいのこと、最初っから、わたし、分かってたわよ。んー。どう言おうか。―――わたしもあなたと同じ気持ちだと思うわよ。ずっと、ずっと前からね。ヨシ君、いい?一回しか言わないからよく聞いて。今夜の月が綺麗なのは、君と一緒に見るからなのだよ。これが、わたしの答えだよ。分かったかね?まっすぐで純粋な目をした世界で一番幸運な少年よ」
そう言うと琴子は右手の人差し指を良彦の鼻の上において、にこりと微笑んだ。
パ・パーン!
厨房の中から、暖簾を少しだけめくり、彼らを覗き見ていた店主と秀樹が、飛び出て来たと思ったら、次の瞬間、上を向けてクラッカーを鳴らした。秀樹は手の指でOKサインのような形を作り、それを自らの口につっこみ、ピーっ、と大きな大きな音の指笛を鳴らした。その横で店主は拍手をした。
「どういう演出だよ。この店は、いつもそんな小道具を置いてるのか?」
「いつもだよん。お客を心から持てなし、祝福するのが我々の流儀なのだ」
店主は、おどけた口調でそう返す。
琴子は、彼らににっこりと微笑み、座りなおして良彦を正面から見た。
「こんな銀河系一の美魔女に思われるなんて、光栄に思いなさい?」
「全宇宙ではなくて、銀河系で一番なのか。ちょっと見ない間に、琴子もずいぶんと謙虚になったもんだなあ」
「あら、あなたこそ嫌味が上手になったわねえ。わたしはいつでも謙虚で、自分に正直だわ。今日は、ちょっと控えめに言ってみただけよ」
「・・・で?わたしへの口説き文句、それで終わりなのかしら?」
「まだ必要なのかよ。何て言って欲しいんだ?」
「そう来るかあ。一生に一度のシーンだぞお。もっと何か言え。この老いさらばえつつある、しかしながら、大地の全てを輝き照らさんばかりの慈愛と美貌の光を放つ魔女を欲するのならば、自力で答えを導き出すのだ、少年よ。さすれば、君だけに、誰もが羨むような、このわたくしの永遠(とわ)の献身と純愛が手に入ろうぞ」
「まったく、おおげさなやつめ」
やれやれという表情でそう言いながらも良彦は、もう一度、真顔で琴子に向き直った。
「琴子さん、俺は君が大好きです。これは断じて子供のような告白ではない。俺と連れ添ってください。・・・俺は・・・、俺は・・・。残り少ない人生を君と共に生きていきたい。」
琴子はまばたき一つせず、良彦の目を見つめた。どれくらいの時間がたっただろうか。いつもの茶化した表情ではなく真顔になり、こう答えた。それは、良彦が初めて聞く、人生の中で彼に対して最も慎ましい返事だった。たった一言だったが、琴子は自身の思いの全てをその一言に乗せ、はっきりと言った。
「はい。こちらこそよろしくお願いします」
琴子は良彦に寄り添って座り直し、その肩に自分の頭を載せた。遠慮して厨房に引っ込んだのか、誰も見ていない。いや、二人は誰かが見ていようが見ていなかろうが、気にも留めていなかっただろう。
「ねえ、ヨシ君。二人で一緒に老人ホームに入れるまで、長生きしようね」
「ああ、お前は俺の歯の主治医でもあるし、いつだって俺のメンタルを救ってくれた心療士ですらあるのだからな。どこまでも一緒についてくるのが当然だ」
「そこなのお?しかも、わたしはただの歯の町医者で、心療士などではないぞお。ずっと一緒にいようね、とか、もう離さないぜ、とかさあ、他に言い方はないのお?」
琴子は少しむくれて、しかし、嬉しそうに微笑みながら、良彦のほっぺたをつまんだ。その頃合いで、生ビールと共に、良彦のパスタが運ばれてきた。
「さー、食うぞー。もう、腹ペコで死にそうだったんだ」
彼は、フォークも使わず、箸で次々に口の中に放りこんでいく。生ビールを流し込みながら。無我夢中で食している途中で、自分の顔を見ている琴子に気付き、小皿に取り分けてやった。
「いいわよお。お腹空いてるんでしょ。たーんと召し上がりなさい」
「琴子、これ、食ったことあったっけ。旨いんだぞお。一度、食ってみなよ」
*************
帰り際、店主と秀樹は二人に握手を求め、笑顔で送り出した。
「お幸せにね。いや違うな。必ず君たちは幸せになるよ」
酔っている秀樹は、店の外の手すりによりかかりながら、階段を下りていく二人に向かって、大声で叫ぶ。
「ホテル行くんじゃねーぞー。わはははは。」
「行く訳ゃあ、ないだろうが。あんたじゃねえんだよ!」
「行ってもいいけど、どうだったか、おじちゃんに報告しろよー。がはははは。」
「このバカ野郎!」
そうして、二人は店を後にした。
池袋駅まで三十分の道のりを歩いて帰る。
「あの・・・」
「えっと・・・」
「何?」
「ヨシ君こそ、なあに?」
「いや、その・・・」
「ええい、まどろっこしい。ねえ、ヨシ君・・・。今夜、わたしを抱いてくださいな。月の綺麗な今宵、この夜に」
*************
良彦はスマホを使い、空いているシティホテルを見つけた。彼らは、その一室に入ると、すぐに、しかし、ゆっくりとした動作で見つめ合い、どちらからともなくお互いの体を引き寄せあった。そして、静かに生涯初めての口づけを交わす。唇の先同士をわずかにくっつけ合っただけで、琴子は、すぐに唇を外した。彼女は、微かな潤みを帯びたその美しい瞳で良彦を見つめた。
「ねえ、ヨシ君。何か言って」
良彦は、その言葉には答えず、自分の唇を再び、彼女の唇に押し付けた。琴子も目を閉じ、それに応じた。今度は口を少し開け、お互いに上下の唇を優しく愛撫しあった。良彦は、自分の肉欲が沸いていないことに少し驚いた。加齢に加え、精神系の多量の薬剤の副作用が加わった相乗効果で、ここ数年、性欲をすっかりなくしていた。しかしながら、自分を見つめる琴子は乙女のように可憐で、わずかに盛り上がった下唇はみずみずしい弾力に溢れ、抱きしめている彼女の体はいまだ適度にふくよかな弾力を保っており、良彦のそんなものを覆すには十分なほど、艶やかな魅力を放っていた。
それなのに・・・。付き合いが長すぎて、ひょっとしたら、もう家族のようなものになっていたのかも知れないな、俺たちは。
そう思いながら、彼は唇を離して、何かを言った。それは、ほぼ無意識にしたことで、自分でも何を言ったのか分からなかった。すると、ついに、良彦を見つめる琴子の瞳にたまっていた涙がこぼれ、彼女の頬に細い一筋の線が描かれた。琴子は、そのまま良彦の頬を両手で包み、微笑みながらささやいた。
「ただいま」
「え?どういう意味?俺、今、琴子に何か言ったの?一瞬、頭の中が真っ白になって、体が勝手に動いたみたいな気がして、何を言ったか分からないんだ」
琴子は彼の頬に置いた両手を少しまるめ、まるで子供にするように、また彼のほっぺたをつまんで左右に引っ張った。
「あまりの感動に我を忘れちゃったの?あなたは、『おかえり』って言ったのよ。なんて素敵な言葉だろうって、嬉しくなっちゃったのに・・・。なんだか、一瞬、若い頃に戻ったような気がして。わたしたちが一緒に高校を卒業したあと、わたしは、あなたの元に帰ってきた・・・そんな錯覚がしたの。変ね、大阪から帰ってきたのは、あなたの方なのにね」
そう言うと、彼女は、今度は自分の方から、割と素早い動きで良彦に唇を重ねた。彼の下唇を自分の歯で軽く、何回か噛んだ。それは、まるで小鳥が親愛の情を示す時にする甘噛みのような愛撫で、良彦もその彼女の想いを確かなものとして受け取った。そうして、彼らは、キスをしては離れて見つめ合い、微笑み合い、またキスをしてはまた離れ、と何度も何度もそれを繰り返した。
そうこうしているうちに自然と唾液がお互いの口に入ってくるようになったとき、とうとう、その均衡は崩れた。良彦は、彼女の首筋に唇と舌を這わせ、彼女の胸を服の上から手で優しく包みこんだ。
「頼むから、俺の大事なところを蹴っちゃいやだよ、琴子の姉御」
「バカねえ。いくらわたしでもそんなことしないわよ。・・・それにね、今日からはそれ、あなたのものじゃなくってよ。わたしの大事なものになるんだから」
可愛らしく、くっくっと笑いながら、しがみつく琴子を、良彦も笑いながらベッドへ誘導した。二人は抱き合いながら、ゆっくりと歩を進め、重なりあってベッドの中に静かに倒れ込んだ。
良彦に服を脱がせられ、下着姿になった琴子は、小さな声でささやいた。
「ねえ、ヨシ君、お願い。電気消して」
良彦は、ベッドサイドに手を伸ばし、照明を落とした。部屋の明かりは、お互いの顔がぼんやりと見える程度になった。
「ねえ、お願い。もっと消して」
「これ以上、電気落とすと真っ暗になっちゃうよ」
「それでいいの。それがいいの。わたし、最近、胸がね、下がってきちゃって。その・・・恥ずかしいの。だから、見ないで」
良彦は、ルームライトを完全に落とした。本当に完全な真っ暗闇になってしまった。
「全然、見えない。これじゃ何もできないよ」
「見ちゃいやだ。心でわたしを愛して」
「分かった。心の目で見るよ」
「それもダメ!想像もしちゃダメ!!」
「一体、どうしろって・・・あぐっ!」
琴子は、手で良彦の目を隠そうとしたが、暗い部屋の中、しかもまだ目も全然慣れていないため、良彦のあごを下からかち上げてしまった。
「いっ、痛いよお、琴子」
「きゃっ、ごめん。ごめんなさい。だって、本当に恥ずかしいんだもん」
しかたなく、良彦は、真っ暗闇の中、手探りでできるだけ優しく下着を取った。生まれたままの姿になった彼女の裸体のあちこちに口づけを交わす。性的な愛撫にはほど遠い、本当にただのキスだ。しかし、彼のその行為は、彼の心情そのものを現したものだった。
良彦は、彼女の下半身にはまだ触れなかった。彼の唇は彼女の上半身をほぼ一周し、琴子の顔のところまで戻ってきた。次第に目も暗闇に慣れてきたちょうどそのとき、彼は気づく。琴子は、良彦の純粋な愛を全身で受け取りながら、目からかなりの量の涙を流し、枕を濡らしていた。
「どうしたの?」
「ううん。ごめんなさい。こんなときに言うべきことではないとは分かってる。でも、わたしはいつもあなたに正直でいたい。わたしね、夫のことを愛してたのよ。本当に。そして、今でも彼はわたしの中にいるわ」
「知ってるよ、そんなこと。そして、そんな一途な君が大好きなんだよ、俺は。
・・・でも、今日は、ここまでにしておこうか」
彼女は、本格的に声をあげて泣き出した。わーん、わーんと、良彦の裸の胸に顔をうずめて、泣き叫ぶ。泣きじゃくりながら、琴子は喋った。
「夫はね、自殺じゃなくて、失踪の可能性もあるのよ」
「ああ。・・・分かってるよ。警察だってその可能性も含めて捜査したはずだろうなっていう想像もしてた。もし・・・、彼が生きていたら、君はどうする?八年か。法的には・・・あくまで法的にはだよ、それを盾にとるつもりなんか俺には全然なくって・・・でも、君たちはもう夫婦ではないと言ってもいいんだと思う」
「彼はね、失踪したんだとしても、わたしのいるこの世界からは消えたのよ。別の世界に転生したのよ。生まれ変わったのよ。それはね、つまり、彼は、この世を捨てたってことなの。それは自殺したのと、同じことだわ、少なくともわたしにとっては。彼は、わたしが自分の体と心を保つことのできるこの時空軸には、既に存在していないのだから。だから、彼は、確かに亡くなっているの。もし、彼が再びわたしの前に現れるようなことがあったとしても、それは実体ののないただの幻―――。それにね、わたしは過去を悔いて悔いたわ。嘆いているわ。でもね、でもね・・・。現在を、未来を嘆いてはいないのよ」
良彦は思う。分かったようで分からないが、彼女らしい理屈だ。あくまでも、琴子は琴子だった。
「わたしは彼が好きだったの。一生を共にしようと思わないと結婚なんてしないわ。彼がいなくなって、自分の人生も終わったような気がしたわ。ずっと何年も自責の念に囚われながら、なんとか生きてきたわ・・・。もし、クリニックがなかったら、わたし、どうしていたか分からないわ」
「あのとき、こうしていたなら。もっと早くああしてあげられていたなら・・・。その想いが強くて消えないほど、琴子にとってその愛は深く、彼との生活は大事なものだったんだんじゃんないかな。俺が言える確かなことは、彼と琴子が一緒に暮らしたささやかで大切な日々がそこにはあったということ。優しくて暖かい時間が、紛れもなく、そこには存在したんだ、ということ。忘れる必要なんてない。ずっと胸の中に大事に持っていればいい、俺はそう思うよ」
良彦は、琴子の頬を両手で支えると、彼女の瞳の中を覗き込むようにして見つめ、心の底から語りかけた。
「とっても琴子らしいよ。俺はね、そんな君だから好きなんだよ。君を抱くことができなくってもいいんだよ。君への愛は、肉欲なんてものをとっくに超越してる。俺たちは、そんじょそこらの若造のカップルではないんだぜ。一体、何十年の付き合いだと思ってるんだい?俺と君は恋人ですらなかったけれど、間違いなく、君は俺とずっと一緒に生きてきたんだ。いや、違うな。君が俺と一緒に生きてくれたんだ。支えてくれたんだ。俺はただ、ひたすらに、君のことが『愛おしい』―――それはね、実を言うと高校生の頃から、それほど気持ちに変化はないんだ。恋心というのとは違かったけれども、俺の心の中には、いつだって君がいたんだから」
「糸しい、糸しい、という心・・・。恋という字の語源、間違ってるわね。愛しいと恋しいは、全然意味が違うわよね。わたしもよ。一度も体を重ねたことのないわたしたちだったけど、わたしも、確かに、あなたと共に生きてきたわ。わたしもあなたが、愛おしくてたまらなかったわ」
「わたしね、旦那が亡くなった原因の一つに少しだけ、心当たりがあるの。ううん。たぶん、わたしに関してはそれしかないんだわ。あれは、彼が海で姿を消すしばらく前のことだったわ。彼は、ベッドに腰かけたまま言うの。『だめなんだ。君が若い男におもちゃにされる姿が目の裏側にちらついて離れない。とても苦しい。こんな心の狭い自分を許してほしい』って。彼を追い込んだのは、それだけじゃなくて、もっといろんなことが絡み合った複合的なもので、たぶん一言では説明できないことで、わたしのそのことは一因にしか過ぎないとも思うんだけど。何らかの精神疾患も発症していただろうし・・・」
良彦は、驚くべき琴子の一言を捕まえて、話を遮った。
「若い男?おもちゃ?」
「・・・わたしね、大学三年生のときに、合コンにメンバーが足りないから、今回だけはどうしてもって連れ出されて、飲みに行ったことがあるの。そしたら・・・途中から記憶がなくって。気が付いたら、ラブホテルのベッドの上だったわ。そして、わたしの体には、なにかたくさんのことをされた痕跡が確かに残っていた」
良彦が琴子の話を呑み込むのには時間がかかった。そう言えば。良彦は思う。俺、だんだんと実家に帰ることが少なくなっていたな。携帯もまだ持っていなかった。琴子と会う機会がなくなっていた時期があった。あの頃の出来事か。しかし・・・。
「琴子が酒に溺れて、そんなことになるなんて・・・。考えられない。薬を入れたんだな」
「そうだと思うの。どうやって、飲み屋さんから出たのか、どうやってホテルに連れていかれたのか、全く分からないの」
「なんて連中だ。立派な犯罪じゃないか。しかも、相当悪質だ」
「でもね、わたしは乱暴される最中、動けなかった訳じゃないみたいなの。されるがままじゃなくって、自分から男たちを求めた、応じた、自分でも信じられないんだけど、なんだかそういう記憶の断片みたいなものが、うすらぼんやりと残っていたの。それは、まるで、霧にかかったような景色で、記憶と呼べるほど確かなものではないんだけど。睡眠薬とアルコールで、夢遊病のように体を動かしていたんじゃないか、って思ってる。旦那は、その頃、数少ない友人の一人だったの。彼とは、まだなにもなかったわ。その事件のあと、―――たぶん、わたしへの同情からそれは始まって―――、お付き合いすることになったんだけど、そのあと、何年も何年も、彼を苦しめ続けていたことにわたしは気が付けなかった」
「わたしたちの世代―――当時の大学生ってさ、まだ昔ながらの苦学生もいたけれども、その反対に、無茶苦茶な人たちも結構、多かったでしょう?お金持ちの親から買ってもらった外車やスポーツカーを乗り回し、飲酒運転なんて当たり前。体育会系のサークルでは女子マネージャーや合コンで知り合った子を脱がせたり、女の子を回したり・・・。なぜかあまり報道されなくて、社会問題にもならなかったけど・・・。世間では猟奇性の高い残忍な大事件がいくつもあったから、きっと、その程度のことにはさほどマスコミは注目しなかったのね。わたしみたいな目に会った女の子なんて、たくさんいるわ。自分から言い出せる社会ではなかったし、『合意』と言われれば、それで片付けられて、結局、傷つくのは女性の方だけ」
良彦は、黙ったまま、相槌を打ちながら琴子の話を聞く。彼の顔はよく見えないが、琴子は、良彦が耳を傾けてくれていることは分かった。しかし、彼は、琴子のことを想い、加害者に腹を立てながらも、同時に我が子らのことにも思いをはせていた。そうだ、三十年前と今は全く違う。まるで別の国のように違う。家も職場も公共の場も全く変わった。一流の会社ですら、社内では怒鳴り声、恫喝、机を叩くような行為など当たり前で、自席で電話をしながら煙草を吸う上司が突然に怒り狂って机を蹴り、灰皿が飛んでくるようなことも、あったと思う。あの時代を過ごした俺たちが―――輝彦や千夏とは異なる文化的背景を持つ俺たちが―――親になったって、今の世の中で子供を育てるなんて、難しいことだったんだよ。あのままだと、輝彦は三十を過ぎてもなお、ずっと部屋の中に引きこもっていただろう。千夏は―――相手が学生だから、あれは、あるいは援助交際とは呼ばないのかも知れないが、少なくとも児童買春行為の一歩手前までは行った。俺は、心で決めた通り、彼らに正面から向き合ったつもりだ。でも、うまく行ったのは俺の力ではない。琴子がいたからだ。もし琴子がいなければ、俺には家族と向き合うことすらできなかった。こいつは、俺と俺の家族を救ってくれた。美奈子も含めてだ。彼女も自分で自分自身にかけた呪縛から解放されたのだ。琴子は、全力で、俺たちを霧に包まれた牢獄から、外に出してくれたのだ。親子とは言え、文化が違う別の人種なんだ。そんな相手と理解し合うには、腹を割って、体当たりするしかないだろう。それがうまくいくかどうかは別だ。ただ、最終的にはそれしかないじゃないか・・・。
琴子は、話を続けていた。良彦も我に返り、彼女に向き合う。
「でも・・・女の子たちの方も、たいがいだったわよね。一見、真面目そうに見える女子大生でも、性に奔放な子は、そこら中にたくさんいたわ。大学で学業に身を入れる学生なんて多くはなかった。歯学を学ぶ人でも、近くの私大生なんてひどいものだったわ。そんな中で、わたし、今の言葉で言うと、『空気を読めない』っていうか、ううん、読まない人、というか、ともかく嫌われていたみたいなの。うち、家が楽じゃあなかったから、早く一人前の歯医者にならなきゃって、誰のお誘いにも乗らず、勉強ばかりしてたのね」
「琴子は悪くないよ。絶対に悪くない」
そう言うと、良彦は彼女を抱き寄せた。
しかし・・・子供たちが立ち直った直接的な原因は何だったのだろう。理由は、自分にも、―――たぶん、彼らにも―――よく分からない。しかし、彼らはもう大丈夫だ。きっと大丈夫だ。輝彦には三十を過ぎたら、彼がどんな状況に置かれていても、家から出て行ってもらおう。自分の力で生きてもらおう。彼にそうすることが、俺の親としてできる最後の仕事だろう。ずいぶんと遅いことだが、いいではないか。それが彼の巣立ちの時になるんだ。そうして、ようやく彼は一人前の人間、いや、大人の生き物になれる。テレビをつけると、毎日のように、引きこもりだの、子供部屋おじさんだの、聴こえてくる。マスコミが、単にキャッチ―な造語を拾って、注目を引こうとしているだけではないことは、この身をもって知った。日本人は、このたった数十年で生き物としての本能を失ったのかも知れない。他の哺乳類は、自ら巣立っていく。もし自立しようとしない個体がいた場合、親は我が子に噛みついてでも、全力で巣から放り出す。進化の最終形態の一つである鳥類―――哺乳類とは全く異なる別の進化を遂げた彼らも、全身の愛をもって巣立つ若鳥を見送り、巣どころか自分の縄張りからも、完全に子供たちを追い出す。『ヒト』も、つい少し前までは同じだったはずだ。それは、ほんの、ほんの少し前のことなのだ。いつの時代でも、人が昔を振り返ったとき、それは別の世界に見えたことだろう。しかし、ここ数十年の変化は、これまで人間が繰り返した歴史の中におけるそういった『よくあること』とは、まったく異質なものなのではないだろうか。俺達は、もはや従来の生き物の枠組みから、大きく外れようとしているのかも知れない。これは日本だけのことなんだろうか。
琴子を抱きしめたまま、またもや、もの思いにふけり、宙を漂う良彦の心を、琴子が呼び寄せる。
「遠い目をしちゃって、どうしたの?心、ここにあらず、って感じだったわ・・・こんなわたし、やっぱり嫌いになっちゃった?」
「違う、違う。ごめんね。そんなこと、ある訳ないよ。ちょっとね・・・君のことと子供たちのことを考えていたんだ。そしたらさ、なんだかいつのまにか、自分の中で話が膨らんじゃって、生物、人類、地球・・・そんなことを考えていたんだ。」
「それはまた随分と壮大なスケールのお話だわねえ。ねえヨシ君、その話、今度、飲みながらしようよ。今は・・・」
琴子は良彦にしがみついた。
「もっとぎゅっとして。ヨシ君、ヨシ君、大好きよ。こんなわたしでも本当にいい?」
「少しだけ違うよ。そんな琴子がいいんだよ」
二人は、座ったまま抱き合った。それから、裸のまま手をつなぎ、仰向けになってしばらくの間、天井を見つめていた。
*************
「今日はごめんなさい。男の人って、こうなったら、我慢できないんでしょう?ほてって静まらなくなっちゃうんでしょう?後で、自分でしなきゃいけなくなるんでしょう?」
琴子は、良彦の下半身に顔を近づけ、それを口に含もうとした。お互いに暗闇にも目が慣れてきて、体の輪郭くらいは見てとれるようになっていた。
「わたし、どうやったらいいかよく分かんないんだけど、頑張ってみる。どれどれ、お姉さんに任せなさい」
そんな琴子を良彦は制した。
「いいって、いいって。無理すんな。もう俺も若くないから、これ、力抜けて半分しなびてるから、もう大丈夫だよ。それに、こんな汚いものを君の口に入れられないよ。俺たち、シャワーすら浴びてないんだぜ」
「そうだったわ。忘れてた―――」
良彦は、くすっと笑った。
「琴子らしいなあ。でも、ありがとう」
「んー。でもやっぱり、あなたに何かしてあげたいの。じゃあ、手で・・・。」
良彦は、その提案は受け入れることにした。
「うん。じゃあ、お願いしようかな」一言だけ、そう言った。
軽く十年は、女性との性交渉を持っていなかった良彦は、彼女のぎこちなくも純粋な愛に包まれて、短い時間で果てた。
絶頂に達するとき、彼の口からは、彼女の名前が続けて漏れた。
「琴子、琴子、琴子・・・」
「うん。うん。うん。」
琴子は、体をもっと、より寄せ、空いている左手で彼を抱きしめながら、ただ、そう答えた。
「ヨシ君、辛かったねえ、大変だったねえ。これからはわたしがヨシ君を守るから。大好き・・・」
彼のそれがドクドクと波打つ微かな振動を手の中で感じ、そこから迸るものが彼女の体のあちこちに降り注ぐのを浴びながら、琴子は万感の思いで、良彦にそう囁いた。彼女は、丁寧に、それらを拭きとり、彼らはお互いの顔を見つめながら、横になった。
「ヨシ君、もうちょっと待っててね。わたしの体、きっとすぐにあなたを受け入れられるようになるわ。だって、こんなにも、あなたのことが好きなんだもの」
「気にしなくていいよ。ゆっくり行こうね」
「琴子・・・俺のこれ、握っておいてくれない?」
「こう?」
「うん。なんだか、琴子の愛にくるまれているようで、とても安心する」
「そうなの?そう言われると、わたしも嬉しくなるわ。このまま一寝入りする?」
「そうだね。眠たくなってきちゃった」
「わたしも寝るね。・・・でもさあ、こういうのって、普通、男と女の役割は反対じゃないのお?わたしもヨシ君の愛に包まれて寝たいわよお」
ようやく、いつもの彼女らしさを取り戻し、さてこれから減らず口を叩くんだろうなと良彦が思った矢先、彼は既に彼女が寝息を立てはじめたことを知った。
さらに琴子の寝息が変わり、良彦は彼女がより深い眠りにいざなわれていることを知る。彼女は、良彦のそれを自分の左手のひらで優しく包んだまま、彼の体に隙間なく、ぴったりと寄り添っていた。良彦は、ほんの数刻の間、安心しきった琴子の寝顔を眺めていたが、それは彼の睡魔を誘い、じきに彼も琴子と共に深い眠りに落ちていった。
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