第九話

 しばらくの後---、輝彦は、アルバイトを始めた。彼は、子供たちに英語を教える小さな個人経営のスクールで職を得たのである。週に二、三回の短時間勤務であったので、空いている日はコンビニエンスストアのシフト勤務にも入った。良彦は、良い傾向だと思った。子供と触れ合うことで良彦が人間味を取り戻してくれることに期待した。むろんいいことばかりではなく、職場内の人間関係、保護者とのコミュニケーションなど、長年の間、他人と関わらなかった彼にとって、気を使う大変な部分もあるだろう。しかし、それも良い勉強になるはずだ。コンビニのバイトは、瞬時に多くのマルチタスクをこなさなければならない。接客態度も重要であろう。彼が選んだ二つの仕事は、きっと、彼の心の闇を溶かしてくれる。


 良彦は、輝彦がアルバイトを始めたことを喜び、彼の社会復帰を待ち望んだ。さらに彼は、父の依頼の通り、自分で一年間、そして三年間の人生計画を立て、それを良彦に見せてくれた。最小単位を一ヶ月とし、あとは、三ヶ月、六ヶ月、一年ごとのマイルストーンが細かく記載されている。彼は、日本語教師、そして、社労士に加えて行政書士の資格をとり、三年後には家を出て、自活する計画を立てていた。これには、父も少々驚いた。


「少し、ボリュームが多すぎないか?」

「日本語教師の方は、そんなに難しくないみたいなんだ。社労士と行政書士は、確かにどっちか一つ取得するだけでもかなり大変そうだ。オレ、法学、学んだことないしね。ただ、割とポピュラーな資格で、片方だけ持ってたくらいではなかなか食っていけそうにないらしいんだ。それに、これから何か資格とるにしても、すぐに三十歳になっちまう。職歴のないオレが正職にありつくには、両方もってないと難しいんじゃないか、って思うんだ」


「俺の方こそ専門外だけど、取得までどれくらいかかるんだろうな」

「それぞれ、最低一年間の勉強は必要だって。社労士と行政書士の両方を三年間で取るよ。それぞれさ、法律家としては業務内容が被る部分もあるんだけど、お互いに手の出せない領域があって、両方を持っていると仕事の幅が広がって、事務所で雇ってもらって、いずれは独立して事務所を開いたりという可能性もありそうなんだ。一般企業への就職は難しいのではと思ってる。人事部あたりの社員が持っていたら働きやすそうだけど、会社側は人事の経験者か新卒の女性しか雇わないんじゃないかという話なんだ」


「ふーむ。完全に非現実的、という訳でもなさそうだな。地道にやっていけば、道は開ける、かな・・・。あとは、輝彦の情熱次第だと思うよ」

「死ぬ気で頑張るよ、もうオレの人生、あとがないんだと思って。まずは三千時間もやればたいていのことが、それなりに身に着くんだろ、親父?この二年間でゲームした時間の三分の一よりも少ないんだ。やれる、やれる」

「こいつめ、本当に頑張れよ」

 良彦は苦笑して、息子を見やった。


「もちろんだって。三千時間の次は、五千時間、その次は一万時間だ。これだけやって、何者にもなれないなんてことはないだろ?」

「初めから、大きく出ると、失敗するぞ。一歩、一歩、着実にな」

「分かってるって」

 息子は、屈託のない明るい笑顔で父に応じた。


「それにさ、親父のお陰でアメリカ行かせてもらって、英語がそこそこ使えるようになったからさ。国際問題を扱う本格的な弁護士なら英語くらいできて当然だろうけど、町の法律家くらいなら、これって、結構、ニッチな強みになると思うんだ」

 輝彦から、初めて『お陰で』という言葉を使われたような気がして、良彦は息子の心中をおもんばかった。


「この間、あんなこと俺が言ったから、気にしてんだろ。お父さんが悪かったよ、言い過ぎた」

「親父は悪くないさ。確かに、お父さんの言う通りだと思う。オレが甘えてた」


「あのさ・・・輝彦。お前が俺の血を引いているか、知りたければ、俺はDNA検査を受けるくらいの覚悟はあるぞ。お前がそうしたくなったら、いつでも言ってくれ。でもな、その結果がどうであれ、俺は、お前を俺の息子だと思っているからな」

「親父さ~、そんなこと言われて、検査なんか受けたくなる訳ないじゃんか。俺としても、親父の息子ってことで全然いいよ。あ、じゃなくって・・・これからもお父さんの息子でいさせてください」


「・・・ところで、なんでまた、畑違いの法の道に進もうなんて思ったんだ?」

「アメリカと日本では法律や保険の考え方やルールがだいぶ違うからさ、オレ、向こうにいるときに、いろんな申請ごとをしたり、書類作成や役所向けの手続きするのに、えらく苦労したんだ。在日や帰化した外国人たちも、本質的ではないところで大変な苦労をしているはずだから、その手助けができたらな、って思ったんだ」


「偉いじゃないか。父さんなんて、最初の会社に就職したのは、遊ぶ金が欲しいな、とか、外資系って言っておきゃ、女の子にもてるだろうな、なんていう程度の軽薄な理由だったぞ」

「へー。親父が?なんか想像できない」


「世の中、そんなもんだよ。世のため、人のために役に立ちたくて働く人間が果たして今の日本に何人いるかな?お前、なんでもかんでもやる前から、真面目に考えすぎちゃったんだな」

「そういうもんかねえ。オレは、どうせ働くならさ、人の役に立ちたいよ」

「ああ、お前はそれでいい。お前は俺なんかとは違うんだ。・・・っていうか、もう本当に後がねえんだぞ。もう、お前は道を決めたんだ。あとは突き進むだけだ。そのための努力を決して惜しむんじゃねえ。泣き言は聞かねえぞ?俺からは、大丈夫か?調子はどうだ?なんて、言わないからな。もし、どれだけ考えても、どれだけ頑張っても、どうしようもないときは、本気でぶつかってこい。そしたら、話だけは聞いてやる」


「話、聞くだけなのかよ?」

「それだけでも有難いと思え。この放蕩息子、バカ息子め」

 その父の言葉に、輝彦は嬉しそうに笑った。


 *************


 家賃については、初めの半年間は月三万円、それ以降は月五万円納めることで、滞在させてくれないだろうか、というのが、息子が父に打診してきた内容であった。良彦はそれを減額し、最初の一年間は月二万円、それ以降は月五万円とし、しばらく様子を見ることにした。そして輝彦は、琴子や良彦が、あれほど気にかけていたソーシャルゲームへの過度な熱中を、驚くほどにあっさりと断ち切ることに成功した。


 何か特別な努力をしたという訳でもなく、バイト探しや、自分の将来のために図書館に調べ物に出かけるようになった彼は、日増しにログイン頻度が減り、一週間もすると、ゲームを起動することさえしなくなった。彼によると、しばらくログインしない日が続いたら、どうでもよくなってしまったのだという。そして、彼はゲーム用に使っていたSNSのアカウント全てをことごとく削除した。彼は、あえて、仲間に別れの連絡をすることさえしなかった。冷たいようだが、そうすることは、仲間からの引き留めを心のどこかで期待している証拠だし、実際、いったん引退したのに―――ソーシャルゲームを辞めることを仲間内では『引退する』というらしい―――戻ってくる者も多いのだと、輝彦は父と妹に語った。


「生身の友人じゃないからね、これでいいんだ。いやこれが一番いい方法なんだ。全ては幻だったんだよ」

 輝彦のこの言葉ほど、彼の父を安心させたものはなかった。


「なあ、輝彦・・・」

「うん?」


「父さん、お前には偉そうに言ったけどさ、俺、仕事、ずっと辞めたくてしかたないんだ。というか、もう限界なんだ。体は大丈夫だよ。しかし、心が悲鳴をあげている」

「親父が?信じられない。いつくらいからなのさ」


「何年前からかなあ・・・安定剤やら抗うつ剤、睡眠薬を飲んで、凌いでいたんだ。特に、ここ二、三年は酷いな。まともに仕事をしているように見せかけて、なんとかやり過ごしてきただけ、というのが正直なところだ。薬の袋は見えないように捨てて、お前たちにも、それを悟られないようにしてた。お前たちがさ、なんとか一人前になるまでは、踏ん張るしかない、そう思ってな。・・・こんなこと言って、子供の気持ちに負担かけるなんて、親、失格だけどな」

「そんなことない・・・親父は、ぐちゃぐちゃになった家族の問題に、何の小細工も弄せず飛び込み、真正面から斬り伏せたんだ。叩き伏せたんだ」


「おいおい、それって、こんないい年こいたおっさんに対して言うには、あまり良い誉め言葉じゃないなあ。猪突猛進の無鉄砲な若造みたいじゃないか」

「言ってくれて、ありがとう。親父は、・・・父さんは・・・格好いいよ。立派な父親だよ。オレは誇りに思う。オレも親になるときが来たら、父さんみたいな父親になりたい。その前に、早く一人前にならなきゃな。いや、必ずなるよ」


「あせるなよ、くさるなよ。諦めるなよ。ただ、本当にどうしようもなくなったら、相談しろ。その時は、あれこれ理由を聞かずに、まずはお前の意見を一番に尊重しよう、約束する」

「ありがとう。がんばるよ、オレ」


「お前はさ、出遅れたと思っているかも知れない。確かに、仕事をするための技術は、何もないだろう?でも、お前は、お前で有利なものも持っているんだよ」

「そんなことあるのかな」


「よく、学歴と仕事は関係ない、って言うだろう?お父さんは、そう思わないんだ。上に上がれば上がるほど学歴は必要になる。学歴というと、語弊があるな。必要なのはいろいろな学問の基礎、つまり、教養なんだ。それは、今の日本では学校で学ぶことはとても難しい。一介の平社員やっているうちは、確かに仕事と教養なんてことは何の関係もないさ。たとえば、すごく極端な話、分数の計算すらできなくても、仕事さえ覚えるのが早ければ、それでいい。日本は、そういう傾向が強い国で、欧州の国々なんかに比べると、だいぶ教養や学問―――アカデミックな事柄―――を軽視する傾向があるんだ。アメリカの大学は、日本よりも実務主義だ。しかし、それでも日本に比べるとかなりましだと思う。日本のように、教養がない人間ばっかりが集まって、経営をしたり、法律や何かのスペシャリストになったり、科学者になったり、医師になったりしたら、どうなると思う?日本の大学生は、勉強したがらないんだよ。受験勉強でもう勉強なんて懲り懲りだよ、遊びたいよ。こんなこと学んだって、何の役に立つんだ、ってな。お前も俺と同じく文系に進んだから分かると思うんだけど、たとえば高校生の頃なんか、思っただろ?対数だの、三角関数だの、こんなの社会に出て何の役に立つんだよって。ところがな、そうじゃないんだよ。モノづくりをする会社の経営陣が、自然科学の基本である数学や物理を中学生程度のレベルも理解していない、なんてことがあるけども、そうなるとどうなると思う?原発事故などの訴訟問題が起きたとき、自然科学の基礎知識がない裁判官や弁護士が担当したらどうなると思う?教養のない医師が、法や社会を知らなくて、病院を経営するとどうなる?・・・法や政治経済に無頓着な科学者や技術者がいたとしたら、いずれとんでもないことをしでかすかも知れない。―――どんな分野でもそうなんだけど、教養のない人間が、上に立ったり、人の人生に影響を与える類の専門職に就くと、誤った判断をしやすい、俺はそう思ってる。そういう、幅広い教養が学べるのが、大学の一、二年生くらいの時期なんだよ。その貴重な時代をお前は、アメリカで過ごしたんだ。ちゃんと勉強しないと単位すらもらえないだろ?日本では、出席を他人に頼んで、それだけで単位取れる授業なんていくらでもある。出席さえ取らず、期末のテストで合格点とれればOKなんてのもあったな。テストなんて言ったって、先輩からその教授の過去問を入手して、内容が理解できなくても一夜漬けする程度でたいていの単位取れちゃうんだ。どうかしたら、テスト中に友人からカンペが回ってくることもあるしな。考えられないだろ?」

 良彦は、輝彦を見て、くすっと笑い、話を続けた。


「向こうでは、大学生は授業以外に五時間くらいは平気で勉強するだろ?」

「いや、そんなもんじゃないよ。できる子は、それくらいの時間で済む子もいるのかも知れないけど、七、八時間くらいは平気で勉強するのが当たり前だと思うよ。というか、しないと宿題すら終わらないんだよ。ネイティブじゃなかったら、―――中国、インド、韓国、ベトナムなどからも留学生たくさん来てたけど―――、彼らは授業時間以外に、少なくとも十時間以上は勉強してたと思う。休む間も惜しんで励んでいた。オレも同じくらいはやったけど、英語力の問題も大きくてさ・・・いくら勉強しても全然追いつかなかった。アメリカの経済学って、日本と違って数学をバリバリ使うから、それもきつかった。授業終わるとさ、宿題が出るんだけど、真っ先に教授のところに行くんだ。言葉が不安だから、宿題がどこからどこまでなのか、確認するんだ。恥ずかしいなんて言ってられなかった。夜、悔しくて悔しくて、泣きながら、宿題やってたよ。他の国の留学生はすごかったよ。向上心が高い、人に流されない自分というものをしっかりと持っている。誰かのために役に立ちたい、帰ったら故郷のみんなのために役に立ちたい、そんな話を真顔でするんだ。日本からの留学生も少しだけいたけれど、そいつらは自分の欲しか頭になかった。一人になって土壇場に立たされたとき、その人間の本性って出ちゃうんだよ。昔から言うだろ?男の価値ってのは、好きな女と別れるときに決まるって。そいつの本性ってのは、そいうときに出るんだって。それ、正解だったんだよ。俺は、あえて同じ国の人間とはつるまないようにしてたんだ。そうじゃなきゃ、俺、自分に負けちゃうんだよ。卒業だけはどうしてもしたかったからさ」


「こんな話、したことなかったな。お前、すげえよ、偉いよ、立派だよ。よく頑張ったじゃねえか。もっと早くにこんな話をしておくべきだった。ホント、ダメな親父だよ、俺は」


「輝彦・・・日本人はこのままではもうだめなんだよ。尊敬される格好いい大人なんて少なくなってしまった。ちょっと話がそれるかも知れないが、今の日本の大学生は、新聞すら読めないのがいくらでもいる。ネット社会だから読まないとかじゃないんだ。読んでも理解できないんだ。中学、高校の教員ですら、―――モンスターペアレントとかいうやつらの対応に追われたり、部活動に時間を取られたりで土日もないくらいらしいから、そのせいかも知れないけれども―――読書をしなくなったという。インプットすらまともにしていないのに、アウトプットが出来る訳がないだろう?人間を育てられるわけがないだろう?この国の学生の意識やレベルは、かなり低い方なんだよ。大学は、酒を飲んだりバイトをしたり男女交際を学ぶ場だ、そういう社会勉強をするのが大学なのだ―――こんなバカなことを平気で言う大人がいまだにいる。そして、そういう大人は、さっき言ったように、学歴と仕事は関係ないなんて、うそぶくタイプであることが多い。奴らの言うことも一理はあるとは思うんだが、極論すぎるんだよ。たぶん、自分自身が学歴にコンプレックスを持ってるから、あるいは自分自身が遊んで学生時代を過ごして、それが良い思い出になっているから、そういうことを言うんだろうけどな。新聞に書いてあるようなこと―――つまり、世の中で起こることってのは、人文科学、自然科学、社会科学といった三つの学問の基礎ができていないと理解できないんだ。それを『教養』というんだ。お前は、日本の学生よりも教養というものをしっかりと学んだはずなんだ。それは、お前が社会人になって、年を重ねれば重ねるほど、強い武器になる。お前がそれを実感する頃は、もう俺はこの世にはいないかも知れないが、将来、重要な判断が必要なことが起こった時、そう言えば、あんなことを親父が言ってたなって、思い出して欲しいんだ。教養に基づいた判断をすれば、そんなに間違ったことにはならないから・・・」


「な~んてな」良彦は、そう言うと息子の頭を『くしゃくしゃっ』と、撫でた。まるで、幼い男の子を愛情たっぷりに撫でるように。


「またまた、自分のことは棚にあげて、ずいぶんと偉そうなことを言っちゃったなあ・・・。あるいは、琴子ならば、これくらいのことは言ってもいいと思うんだけどなあ」

 良彦は、微笑みを浮かべて愛する息子の顔を見た。


「俺には、本当はこんなこと言う資格はないのさ。けどな、大人になってから、思ったよ。俺は教養がない。もっと、勉強をしておくべきだったって。教養がないってことは、学歴が低いことよりも遥かに、人として恥ずかしいことなんだって、社会に出て、仕事をすればするほど、分かった。俺は、もともとは、そういうクチの人間だったからな。絶対にお前の方が苦労したはずだ。お前の方がたくさんのことを―――人生の基礎というものを―――学んできたはずなんだ。それはお前がこれから何をやろうと、糧になるんだよ。まあ、遺言とでも思ってくれたらいいよ。実際、お前はよくやったよ。日本の学生が遊び呆けている間に、言葉も通じない異国で、泣きながら努力をしたんだ。それは絶対、無駄にはならない。お前は、高校時代の同級生に比べると人一倍苦労をした、努力をした。それはお前の一生の財産だ。苦しくなったときは、アメリカで過ごした苦しい日々、折れそうになった心を『畜生』と歯を食いしばりながら、勇気を奮い立たせて自分一人の力で握りつぶして過ごした日々を思い出せ。それがあれば、何だってできるはずだ」


 *************


 千夏は、『リケジョ』になることを決心し、より一層、勉学に熱を入れるようになった。少し早いがそのために部活も引退した。どうやら本気のようだ。学校が終わると、よく琴子のところに数学と理科を習いに行っている。週に何日もだ。そのまま泊まり、琴子の家から学校に通うこともある。これでは、いくら琴子とは言え、たまったものではないだろう。良彦はどうしたものか、気を揉んだ。しかし、琴子は、教えるというより参考書を見て思い出しながら、千夏と一緒に問題を解いているだけだから心配しないで、と言う。そうすると、千夏がかなりできるようになってきたそうだ。琴子によると、学生時代に学習したことだとは言え、それらは既に忘却の彼方なのだが、逆に、それがいいのではないか、思い出しながらではあるが理解したての自分だから、千夏が何が分からないか、どこでつまづきやすいか、想像がつくのだという。彼女は、『わたし、特別に事前に予習とかをしている訳ではないのだから、本当にわたしのことは心配いらないわよ。それに千夏ちゃんの勉強中、ずーっと見ている訳ではないのよ。家のことをやりながらなんだから、本当についで、ついでのことなの。それにね、わたしにとってもいいことなのよ。頭の体操になってボケ防止にもなるし、千夏ちゃんの顔も見れて仕事にも精が出るようになったし、一石五鳥くらいのもんなのよ』と、働き過ぎの琴子の体を心配する良彦に対し、そのように何度も念を押した。


 美奈子は、一見、何事もなかったように、無表情で淡々と日々を過ごしている。しかし、以前のように手の込んだ料理を作ったり、神経質なほど家を磨きあげることはなくなった。年相応のくたびれた雰囲気をまとい、自分の身なりにも気を配らなくなった。ベランダの花や植木に水をやることもしなくなった。それは、いつの間にか、千夏が代わりにやるようになった。もともと少なかった美奈子と家族の間の会話は、さらに減った。


 彼女は、ただ黙々と、かつ、あっさりと家事を行い、一日を終える。そんな日々が軽くひと月以上は続いただろうか。家族は、彼女に対して挨拶だけはするようにした―――輝彦でさえも―――のだが、それに美奈子が答えることはあまりなかった。完全に無視する訳ではないが、目すら合わせない。



 そんなある日―――、

「あれ、お母さんは?」帰宅した良彦は、息子に聞いた。

「いないんだよ。親父も何も聞いてないんだよね?」


 父と輝彦が約束した期限の三ヶ月まで、あと二週間に迫った頃、妻の美奈子は、家の中から、忽然と姿を消した。良彦が長旅を終え、夕刻に帰宅した日のことであった。彼は、本社から来日した重役クラス数名を伴って各地の有力顧客を訪問するため、名古屋、大阪、広島、と駆けずり回り、連泊で家を空けていた。その一週間の出張の間に、妻は家を出て行ってしまった様子だ。輝彦の話によると、ここ二、三日の間、何やら段ボールに詰めこんでいたらしい。美奈子が不在のときに、彼が覗き見ると、夫婦の寝室には、たくさんの段ボールが積み上げられており、何やら数字で番号が書かれていたそうだ。良彦が出張を終えて帰宅する日、その日中の間に、美奈子は荷造りされた荷物と共に、どこかに消えてしまったんだと息子は言う。


「オレ、朝は図書館に行って、その足で午後のコンビニのバイトだったんだ。さっき―――ちょうど一時間くらい前かな―――帰ってきたら、母さん、もういなかった」

 彼らは、置き手紙などや何らかの痕跡を探すも、それらしいものは何も見つからなかった。携帯電話も鳴らしてみたが、着信を拒否されている様子がうかがえる。決定的だと思わせたのは、家からタンスや衣装ケースのいくつかが、なくなっていたことであった。彼女が業者に持ち出させたのであろう。


「この数日、母さんの様子、特におかしかったんだ。あの母さんがだよ、うす化粧すらしないで外に出ていくし、髪もぐしゃぐしゃになっていることが多くてさ、話しかけると、うるさいって怒鳴りつけるし。こんなことも言われたよ。『お前には、あの卑怯で冷酷で、仕事しか取り柄のない機械のような男の血が混ざっているかも知れない。汚らわしいから、近寄るんじゃない』ってさ。他にも汚い言葉ばかり使ってた。鬼のような形相で、怖いくらいだった。あんな母さん、生まれて初めてみたよ」


 そんな美奈子の状態を良彦には想像することが難しかった。しかし、息子の落ち着いて説明する口調を見るに、それほど大げさに言っているわけでもなさそうだ。美奈子は、いつも上品さを意識してまとい、身なりも言葉遣いも、いいところの奥様であろうと心掛けるようにしていた。それは、自分のせいでもあったのだ。良彦はそう思う。無理をさせてしまった。良彦は、美奈子が本来の自我を取り戻し、自分らしく今後の人生を歩んでくれることを願った。


 しかし―――、ほぼ同時に彼は気がついてしまった。俺は、人としてそうすべきだから、そう願うように自分の心に強いているだけなのだ。これまで、いかな数多くの不貞を働いてこようとも、長年連れ添った元妻の幸せを願うことは、自分が人格者であり、器の大きい男だということを意味するだろう。そうして、自分で自分を騙そうとしていたのだ。これは、彼女のことを思ってのことではなく、あくまでも自分のための願いだ。俺ってやつも、つまんねえ人間だなあ、彼は心中で、そう呟いた。


 美奈子が家を出ておよそ二ヶ月後、彼女からレターパックが届く。開けてみると、家の鍵と離婚届が同封されていた。離婚届には、相手側の必要な署名、押印は全て完了している状態だった。袋の中をくまなく探してみたが、手紙やメッセージ、メモの類は何一つ、同封されていなかった。良彦は、彼女の意図を理解した。そして、署名、押印を行い、返送した。彼女は、富山市にいるようだ。良彦には、美奈子が縁もゆかりもないはずの、その地にいる理由には全く見当がつかなかった。


 彼女の実家に電話をかけ、起きた一連の出来事を伝える。彼女の母は、「そうですか・・・」としか言わなかった。美奈子は最後までそれを良彦に語ることはなかったのだが、彼との結婚前後から、複数の相手と交際のあったこと―――良彦は、結婚後ずいぶんと経ってしまってから知ったのであるが、『そのこと』―――を彼女の母も知っていたのだろうか。


 良彦は、美奈子の実家には数えるほどしか行ったことがなかった。千葉県九十九里、外海に面した漁師町出身の美奈子は、極力、実家に家族を連れて行こうとはしなかった。良彦も果たして三度も訪れたどうか。あまり記憶がない。したがって、彼らの子らも祖母や祖父に関する知見は、ほとんどない。もし会っていたとしても幼少時の頃のことで、よく覚えてはいないだろう。特に千夏は、一度の面識すらなかったはずだ。良彦は、義母に対して、離婚することになったことをお詫びしたく、ぜひご挨拶に伺いたいと申し出たが、頑なに辞退された。


 美奈子は、良彦が持っている口座のいくつかから、半額程度の金を引き出していた。一体、どうやったのだ?委任状や本人確認は、どうしたのだ?夫婦でも贈与税だってかかるんだぞ?小賢しいことは得意な彼女だ。他にも何かやっているだろうが、良彦には追及するつもりはなかった。こちらから慰謝料を請求するつもりもない。ひょっとしたら、後になってから、逆に彼女の方から何らかの追加請求があるのかも知れないが、そんときはそんときさ、と彼は楽観的に考えた。親権についても、年齢的に子供たちの意思次第ということになるだろう。まあ、美奈子が引き取ろうとするはずもないだろうが。そうこうするうちに、二、三年なんて、あっという間に経ち、殆ど全てのことが時効になるはずだ。


 離婚というものは、結婚よりも遥かにパワーがいると人は言うが、良彦にとっては、さほどの労力は感じなかった。むしろ、簡単で楽しい仕事のようにすら思えた。彼は、粛々と、まるで事務処理でもするかのように、必要な事柄を進めて行ったのである。


 *************


 良彦は、家を手放すことを考え、輝彦と千夏に相談をもちかけた。彼らもその方がよいと全面的に賛成をした。千夏など、こうなる以前から「あたし、この家、嫌い」と言っていたものだ。彼は思った。みんなで練馬に帰ろう。一人残された彼の母は七年前に他界しており、長兄が処分したために、実家と呼べるものは既にそこにはなかったが、やはりそれでも、そこは彼の生まれ育った故郷であった。


 新居を探し始めた彼は、良さそうな物件を見つけては、子供たちに見せた。彼らは、興味を持って物件資料を一緒に見てくれるものの、双方、将来に向けて多忙な日々を送っている。不動産屋に足を運んだり、内覧に行くのは、主に父が担当することになった。千夏の希望としては、家が狭い方がいい、その方が家族が一緒にいられるから、ということだった。輝彦の希望は特になく、自分の部屋さえあればいいよ、と彼は言う。良彦は、息子の部屋に陽がよく入る造りの家にしようと思った。


 賃貸する部屋の候補を五つ程に絞ったところで、彼は内覧に赴いた。美奈子がいない今となっては、もう、ぜいたくをする必要はない。今のマンションは駅から遠いので、そう高く売れないかも知れない。貯金も残り多くはない。あと何年働けるかも分からない。来月、頸になったっておかしくはないのだ。俺は、従業員ではない、会社側の人間だ。業績も落ちている。社長が俺のことを苦々しく思っていることも知っている。辞めさせるのは簡単なことだろう。


 新しい耐震基準とハザードマップは念のため、確認しておいた。あとは、周辺環境、駅へのアクセス、日当たりなどに大きな問題さえなければ、それでよかった。―――そして、築二十五年ほどの五階建てマンションの三LDKの部屋に決めた。三階の部屋と五階の部屋が空いていたがエレベーターがないので、三階の部屋を選んだ。

美奈子との暮らしのお陰ですっかり当たり前のものになっていたオートロックすらついていなかったが、そんなことはどうでもよかった。オートロックのマンションでも、たびたび事件が起こったりする。家族みんなで、防犯上の意識を高めればいい。最終契約前に、子供たちも連れて行こうと、彼らに打診したが、輝彦は父に任せるといい、千夏は琴子のとこに行ったときに、ちょっと見てくるから、それでいいよ、と言った。仕事の都合もあるので、何回も足を運んではいられない。空き家賃は発生するが、新居に入居する二ヶ月前には契約を行い、現在の住まいの売却相談を不動産業者と開始した。


 こんなにとんとん拍子で進んでもいいのだろうか。彼は、少し拍子抜けする思いすらした。まるで、長い間積り積もった汚れが瞬く間に浄化されていくようだ。これから、息子と娘と一緒に、新しい家族生活を始めるのだ―――。

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