第八話

 少しどんよりとした雲の広がる日の朝、美奈子は、ベランダの花々の手入れをしながら、もの思いにふけっていた。彼女は、出社の支度を終えた良彦が家を出る少し前に、言い残していった言葉が気になっていた。『今日の夜、七時半に家族を集めてもらえないか』・・・仕事を切り上げて帰ってくるから、家族全員で食事をしようと、彼は言ったのだ。

「輝彦も?」

 彼女は、自室に引きこもっている息子も同席させるのかを聞く。良彦の回答は即決、明快であった。

「もちろんだ。彼も家族の一員じゃないか。みんなにとって大事な話があるんだ」



 良彦の依頼したような類のことは、もう何年も我が家の日常生活には存在していなかった習慣だ。美奈子は戸惑い、様々な思いを巡らせる。家族全員で食事?大事な話?テーブルを囲んで、一家団欒するの??何の話だろう。あたしの『あのこと』ではないわよね。・・・それとも、『あのこと』のことかしら?彼には知られないように細心の注意を払ってきた。しかも、子供たちのいる前で、一般的とされる常識と理性は持っている彼がそんな話をするとは思えない。輝彦を呼べ、という。彼の将来、生活態度について苦言を呈するつもりなのだろうか。では、なぜ家族全員なんだろう。先に夫婦で、もしくは、夫と息子だけで話をするべきでは?それとも、自分の知らないときに、既に彼らは相談をしており、それに対して、家族の同意が欲しい?家族の意見が聞きたい?


 ・・・いずれにしても、夫らしくない方法だ。彼は、転職を繰り返しながら出世や昇給を果たしてきた。それにしては、裏表がないというか、駆け引きのできない人だし、芝居がかったことや小細工とも無縁の男性だ。特に、家族のことになると、それは余計にそうであり、作戦めいたことを練って考える気持ちすらないだろう。万に一つ、何かを企んでいたとしても、単純でストレートな性格の持ち主の彼には、その性格故に、あるいは彼自身のポリシーとして、実行できない類のことであるはずなのだ。彼女は何度も彼の真意をいぶかったが、彼は凝った腹芸はできない、しないはずだ、ということ以外の結論に達することができなかった。・・・何の話だか見当もつかないけど、でもやっぱり何だか怖い。息子にそれとなく聞き出そうとも考えたが、彼の部屋のノックをするのはもっと恐ろしい。彼女は一人、悶々と悩み、心の底から湧き上がってくる得体の知れない怯えと共に、良彦と千夏の帰りを待った。

 早く、今日が終わればいいのに・・・。


 *************


 美奈子は、輝彦の部屋の前に行き、ドアの下からメモを差し入れた。『お父さんが家族全員にお話があるそうです。七時半に食卓について、家族みんなでお食事をしましょう』

 何時間経とうと、輝彦からの反応はなかった。ドアの前に置いた朝食のトレイは、いつの間にか、野菜を残して完食された状態で、廊下に返却されていた。自分はちゃんと伝えたのだ。それでも出てこないようならば、夫に任せればよい。やることはやったのだから、『後は私のせいではないわ』、彼女はそう思った。ディナーは、フォークとナイフを使う料理にしよう。エレガントな家族の食卓の風景を演出するのだ。その思いつきは、彼女を底の知れない不安な気持ちから解放させ、少しだけ楽しい気持ちにさせることに成功した。


 *************


 ヒラメのソテーを切り分けてフォークで口に運んだ後、美奈子は口を開いた。

「今日のお仕事はどうだったの?」

「うん。何も問題ないよ。順調だよ」

 良彦は、口角を少し上げ、そう応じた。彼は、美奈子の言葉で、一人の営業部員に対して行った退職勧奨の打ち合わせ場面を思い出した。彼に対しては二回目だ。面談結果を人事と相談し、次の三回目に備えなければならない。そろそろ退職強要と申し立てられる可能性が出てくる。次回は短時間で効果的な話をして、早めに切り上げなければ・・・。相手は、録音をしているだろう。ことを慎重に運ばなければ。自分の部下ではないとは言え、同じ会社の社員だ。心が切り裂かれるように痛い。しかし、俺の仕事だ。逃げる訳にはいかない。


 千夏は、表情を翳らせて黙り込んでしまった父を横目で見て、少し慌てながら、早口で自分の話をまくしたて始めた。

「あたしはねー、今日、超面白いことあったんだよ。えっと、えっと・・・。数学の時間ね、洋子がね~、居眠りしてんの。しばらくしたら、先生が気付いてね。近づいてきて、自分の耳に手をあてて、それを洋子の頭に近づけて、耳を澄ませているふりするの。」


 「それでね、みんなにこう言うの。『お、寝言でサイン、コサインって言ってるぞ、偉い偉い、睡眠学習だな』そしたら、男子が『そんな訳ないじゃん』、とか、『先生、今度から俺も、それやっていい?』とかって言うの。それがなんだか可笑しくって、みんなで声出して笑っちゃったの。それでも洋子のやつ、起きないの。そしたら、先生、教科書を丸めてね、洋子の頭をポン、ポンってやって、みんなにこう言うの。『ほらな、数学やる子の頭を叩いてみれば、サイン、コサインの音がする』洋子、それでやっと目を覚まして、ぼ~っとした顔で頭を上げたんだけど、すぐに素に返って口元を手で一生懸命に拭うの。本当によだれが出てたのか、よだれが出てないかどうか心配になっただけなのかは、分かんないんだけど、その仕草が可笑しくって、可笑しくって。今の数学の先生、とっても面白いの。あとね、えっと、えっと、部活ではね・・・」



 美奈子が言う。

「学校、楽しい?」

「うん、めっちゃ楽しいよ」


 良彦も尋ねる。

「千夏は、将来、何かやりたいことある?」

「うーん。まだ具体的にはないんだけどね。琴子さんみたいに知的で、でも気さくで優しくて、弱きを助け、強きをくじく強い女性になりたいの」


 良彦は、思わず笑ってしまう。

「そりゃあ、大変だなあ。勉強もいっぱいいっぱいして、体も鍛えなきゃなあ」

「何よお、お父さん、また子供扱いしたみたいな言い方してえ」


「ははは、ごめん、ごめん。千夏は、どの教科が好きなんだい?」

「好きなのは英語!お父さんやお兄ちゃんみたいに英語ペラペラになるんだ」


「本場仕込みのお兄ちゃんはともかくさ、お父さんのは、なんちゃってイングリッシュだよ。参考にはならないよ」

「でも、たまに夜中に誰かと英語、喋ってるじゃん」


「あれは、仕方なくさあ。全然、流暢じゃないし。語彙なんかもめちゃくちゃだよ。会社には、日本語できない人も多いからねえ、ほんと、仕方なくだよ」

「なんでいつも夜中なの?」


「外国とは時差があるからねえ。彼らと話したり、会議するのは、どうしても夜中か早朝になっちゃうんだ」

「ふーん、大変なんだね・・・。無理しないでね、お父さん。あとね、あとね、千夏、数学頑張るの!今の先生、めちゃめちゃ分かりやすくって、面白くって、あたし、数学大嫌いだったのに、好きになってきたんだ。ねえ、歯学部とか医学部って理系だよね。あたしにも行けるかなあ」


「好きになったんなら、頑張りさえすればきっと伸びるさ!成績を人と比べたりしなくていいから、楽しんで勉強しなよ。好きこそものの上手なれ、だ。それにしても、歯医者か医者になりたいの?また、琴子にかぶれたなあ。将来は、あいつの病院で雇ってもらうか?ま、何にせよ、今、『リケジョ』って、流行ってるからいいんじゃない?・・・お、丸眼鏡掛けて、両手の試験管を見比べている白衣の千夏を、今、想像したぞ。意外と似合うかもな。かっこいいぞ、きっと」

「えへへへへ、そうかなあ」

「がんばれ、がんばれ。お父さんは、いつもお前の味方だ。応援するよ。おっと、でもな、私大の医学部ってのはな、莫大な軍資金が必要なんだ。もし医者になりたいってんなら国公立にしてくれよ。お前には申し訳ないが、うち、お金ないんだ。これ以上、お金なくなったら、お父さん、マジ死んじゃうって」

 彼にしては、皮肉っぽい動作で、美奈子と輝彦をちらっと見たが、彼らが良彦の嫌味に気が付いた様子はなかった。


 そんな二人を見て、美奈子は不思議に思った。いつの間に、夫と娘はこんなに仲がよくなったんだろう。一方で、安心もした。どうやら自分の心配は杞憂だったようだ。夫は、家族の団欒がしたかったのだ。きっと、そうに違いない。しかし、その後、すぐに、彼女の期待は裏切られることになる。


 皆が食事を終えた頃、―――輝彦も人参だけは残し、それ以外は全て食べ追えた―――、良彦は話を切り出した。

「お父さんは、みんなに謝らなきゃいけないことがある」


 家族全員が良彦を見つめる。彼は話を続けた。

「俺は・・・私は、みんなにちゃんと向き合ってこなかった。言いたいことも言わなかった。結果的に、物分かりのよくて優しいだけの父親をただ演じ、波風のない幸せそうに見える、中身のない家庭を作ってしまった。それは、自分でも分かっていたんだ。でも、どうしたらよいか分からなかった。・・・いや、違う。分からなかったというより、仕事が忙しいことを自分の心に対する言い訳にして、みんなのことを考える時間、みんなに向き合う時間を作ろうとさえしなかったんだ。私は、変わろうと思う。本当に、みんなのお父さんになろうと思う」

「お父さんは、とってもいいお父さんだよ。千夏の自慢のお父さんだよ」


「ありがとう」、そう言って、良彦は、隣の席の千夏の頭を優しく撫でた。それは美奈子を再び驚かせた。以前の千夏は、父に触れられるだけで、嫌がっていた。


「オレ、そろそろいいかな?あと十分くらいで、仲間と集合しなきゃいけないんだ」

 良彦と向かい合う席に座っていた息子は、おもむろに立ち上がった。

「輝彦君、君は、バーチャル世界の仲間がそんなに大事なの?彼らは、君の何を知っているんだい?君は、彼らの何を知っているんだい?彼らとゲームすることは、家族と面と向かって話をすることよりも大事なことなのかい?今晩は、時間をとっておいてもらうように、お母さんからお願いをしてあったはずだ。席に戻ってくれないだろうか」

 良彦は、息子を初めて『君』づけで呼び、言葉を続けた。



「お父さんも君と同じだったのかも知れない。大事な仕事があるから、と、みんなからのお願いを断ったり、みんなとの約束事を反故にしてきたのかも知れない。だから、急に変われというのは、ずいぶんと身勝手なことだろう。自分でもそう思う。でも、いつかは君も変わらなければいけない。君は本当に、本心から今のままでいいと思っているのかい?」

「・・・・・」息子は下を向いて何も答えない。が、席にはついた。


「まもなく二七歳になろうとしている君に伝えたい。君を大人として扱い、成人男性同士として、接したい。何年も今の暮らしを続けてきたんだ。今すぐに、最終的な答えを出す必要はないけれど、まずは、今、君が考えていることを教えて欲しいんだ。君は、何年もあの国で―――全体よりも各自の自己主張を尊重し、ディベートを重視し、個人主義をよしとするアメリカで―――いろんなことを学んできたんだろう?できるようになったのは、英語だけじゃないだろう?精神的な面でも、ずいぶんと鍛えられてきたはずだ」


「かの国にいると必ず聞かれるだろう?So, what's your opinion? ―――それで、君はどう思うの?―――ってさ。『正しい』返事を聞きたいんじゃあない。私はただ、『君』の意見を聞きたいんだ。君は―――これから、どうやって生きていくつもりなんだい?何をやりたいんだい?」

「・・・・・オレは・・・だいぶ前に何度も親父には言ったと思うけどさ、やりたいことがないんだよ。それを今、探しているんだよ。今、やりたいのはソシャゲだけなんだ。もういい?本当に仲間が待っているんだ」


「分かった。君がやりたいことはゲームなんだね。今のところは、それに自分をかけているんだね?分かりました。それは尊重します。以後、『やるな』とは言わないことにするよ。でも、もう少しだけ、付き合ってくれないか。次の話をしたい。人間は、社会的な動物だ。君はね、自由を謳歌する権利を持っている一方で、大人として、君の属するコミュニティとソサイエティに対して、責任も持っているんだ。それに対してはどう思う?」

「ニートやってないで、働けってんだろ?仕事の好き嫌い言わなければ、社会人にはなれるんだから、義務を果たせって言いたいんだろ?」

 輝彦の語気が強まった。高まっていく、ぶつけどころのない苛立ちが、彼の顔を次第に赤く染めていく。


「私たちは、親子だ。したがって、お互いに扶養の義務はあると思うんだ。しかし、一方で、成人した君、病気でもなく、働ける君を保護する社会的、法的な責任は、もう私にはない。出て行ってくれとまでは言わない。成人同士として、ちゃんとした対等な関係を築きたい」

「どうしろってんだよ。お前らが、勝手に産んだんじゃねえか!オレはあんたらに産んでくれって頼んだことは一度もない!!!」

 もはや、論理的な会話を続けることは難しそうだ。ついに、輝彦は爆発し、父に英語でまくしたてた。


「That's why it's not your business! You are not at all my father as well. My life is not yours and you don't have the right to....you don't deserve to say anything about my life!!!」

 良彦もカチンときてしまう。

「日本語を忘れてしまったのか?それとも、日本語で話しかけても、お前の心にはもはや通じないのか?」


 良彦は、だんだんと、怒りが増してくるのを感じていたが、それは自身で御することは難しいものへと変化していっていた。

「笑わせるなよ。お前がいくら勉強しようが―――そもそも、勉強したのか?友達やガールフレンドと遊びながら英語を覚えただけだろうが―――、経済学部を出ただと?何を勉強したのか説明してみろよ。できないだろうが!卒業に何年もかかりやがって!俺が、美奈子に高い家と車を買ってやり、お前が長い大学生活を送るために、一体どれだけの犠牲を払ったと思ってるんだ。 しかも、やっと帰ってきたと思ったら、ゲーム、ゲーム、ゲーム。おい、美奈子、こいつ、ゲームに何千時間、費やしたんだ。いや、何千どころか、一万時間くらいは使ったんじゃないのか?二年以上、そんな生活を続けてきたんだ。一日あたり軽く十五時間くらいは、ゲームしてたとしたら、すぐに万単位の時間になる。その一万時間があったら、いったいどれだけのことができると思ってるんだ。三千時間の法則、一万時間の法則って聞いたことあるか?そして、一体、いくらの金をつぎこんだ。美奈子、お前が小遣いを渡してきたんだろう。こいつ、一千万円は使ったんじゃないのか。俺には関係ないだ??・・・それになあ、お前の英語はその程度なのか。外資で軽く二十五年、分かるか?四半世紀だぞ?そんなに長い間、首の皮一枚ぎりぎりで生き抜いてきた俺に、三十にもなろうとする大の男が、そんなガキの寝言みたいな台詞でケンカを売るつもりなのか!その程度のお前が、俺に勝てるとでも思ってるのか!」


 激情して、ついに思いのたけを吐き出し続ける良彦の話は、もはや止まりそうになかった。隣に座っている千夏が父の袖を引っ張る。

「お父さん、落ち着いて!気持ちは分かるけど、勝ち負けじゃないから。お兄ちゃんだって、お父さんの言いたいこと、きっと分かってるから!でも、体が動かないんだよ、きっと。

 ・・・っていうか、お父さん。お兄ちゃんは、英語でなんて言ったの?」


 良彦は、ようやく、千夏のお陰で、冷静さを取り戻すことができた。

「お兄ちゃんが言うには、お父さんには関係ない。お前は父親なんかじゃない。オレの人生に口出しする権利なんかない、ってさ」


 良彦は、再び、息子の方を向き直る。

「君は、たった一度しかない君の貴重な人生を・・・」

 その時だった。傍観していた美奈子が割って入った。

「あなた、もう止めて!この子は、この子は、あたしの息子なのよ!あなたにどうこうする資格はないんだから!あなたこそ、少しでも父親らしいことしたことあるの?」


 良彦は、しばらくの間、そんな美奈子の顔を無表情で見つめた。そして、ぞっとするほどの冷たい視線を美奈子に浴びせた。

「この子が、俺の本当の息子じゃないから、君はそんなことを言うのか?」

「い、一体、な、何を・・・」


 美奈子が凍り付く。良彦はそんな彼女のことは全く意に介していない様子で、再度息子の顔を見ると、今度は冷静に、しかし、断固とした口調で、輝彦に告げた。


「My son, what you gonna do with your life? You absolutely have a kind of responsibility to live like human beings and you are enough old to make your own living. You definitely belong to our community and Japanese society as a member of our family. You should be more independent and matured. You are a man.」


「お父さん、どういう意味?」千夏が聞く。

「さっきお兄ちゃんに言ったのと同じようなことを言い直しただけだよ。どうやって生きていくんだい、君には責任があるんだよ、もっと大人になりなさい。君はもう一人前の男だろって言ったの」


 返事のない息子に対し、良彦はある提案をすることにした。

「輝彦君、三ヶ月後から、家に家賃と食費を入れてくれないか。ゲームを何時間やろうが、いくら使おうが好きにしなさい。それで君の人生がどうなろうと私の知ったことではない。ただし、家からは―――お父さんからも、お母さんからも―――君にお小遣いは一切あげません。お母さんにもそのようにしてもらいます。ゲームがやりたければ、自分で賄ってください。そして、自分の力で稼いだお金を家に入れるようにしてください。これでどうだろうか?」

「いくら払えばいいのさ?」


「金額は、君に任せます。君が今させてもらっている暮らしに見合っていると思う額を決めて、私に教えて欲しい。ほんの少額から初めて、少しずつ増やしていく計画を立ててくれてもいい。それから―――、今日から三ヶ月後に、君の人生の計画を聞かせてくれないか。一年間の短期的な計画と三年先のことくらいを見据えた程度の中期的な計画、そんな簡単なレベルでいい。あくまで計画だ。途中で遅れたっていい、進む方向が変わってもいい。だけど、君がこれから、どうやって歩いていくのか、君自身で考え、その考えをお父さんとも共有して欲しい。私は、父として、できる限りの支援はする。けど、けどな、輝彦君。主役は『君』なんだよ。これだけは忘れないでくれ」


 良彦は、言い終えると、すぐさま、美奈子の方を向いた。

「君は、輝彦が誰の子か、確信を持っているのかい?それとも分からないのかい?父親は、今の君の相手なのかい?それとも、今の相手は、また別の人なのかい?答えなくてもいいよ。どうであろうと、二人とも、君の子供でもあるし、輝彦も含めて、俺の子供だと思っている」

「あなた、子供の前で止めてよ!あたしを責めればいいじゃない。子供たちの見ていないところで、あたしだけを責めればいいじゃない。こんなやり方で、仕返しをするなんて酷すぎるわ。卑怯よ!最低よ!違うんだから、違うんだから。輝彦、お父さんの言うことを信じないで!」

 美奈子は、取り乱し、家族が見たこともない表情で、大声でわめき散らした。


 良彦は、美奈子の顔を見据えると、ゆっくりとした静かな口調で、語りかけた。

「この子たちは―――少なくとも千夏は―――、すっかりと、もう分別のつく子になった。君が思っているより大人になってるんだ。輝彦も千夏も、もし、自分の本当の親が違うのならば、それを知るべきだ。結果的にそうなってしまったのかも知れないが、別に君を悪者にしたかったわけじゃない。いいかい?彼らは事実を知るべきなんだ。君は答えなければならない、人として。彼らは、自分の頭で考えて、判断できるほど、成長したんだよ」


 千夏が口を挟む。

「あたしは、お父さんに一票だわ。あたし、ママがずっと浮気してるの、知ってたのよ。いつか、ちゃんと説明してね」


 再び、美奈子が叫ぶ。

「あなた、いつの間にこの子を手懐けたのよ!」

「手なずける?いかにもお前らしい発想だな」

「こんなことしなくっても、男らしく、あたしを殴ればよかったじゃない」

「君が殴られた程度で変わるタマなのか?一体どれくらいの年月、一緒に暮らしてきた?君のように性欲が強い浮気性の人間に、何を言おうと、何をしようと変えることはできない。理性でコントロールできる類のものではないんだから」

「それは、あなたの決めつけでしょう!」


「・・・そうかもしれないね。でもね、そもそもなんだけど―――俺には君の浮気を咎める気持ちなんて、いつのまにか消え失せてしまっていたんだよ。だから、君に言ってきかせる必要も、君を殴る必要もなかったのさ。ただ、子供たちにとっては、いい母親でいて欲しかった。勝手な言い分だ。しかし、これは嘘偽りない俺の長年の本音だ。でも、彼らが大人になった今、もうその必要はない。彼らにとって、君は今でも母であることには変わりはないんだが、それよりも、君は、一人のまっとうな成人女性として彼らと向き合って欲しい。それを俺は、この子たちの父親として君に対して強く願う」


 輝彦は、呆然としていた。種類の異なる様々な情報を短時間で聞かされ、心の整理ができない、いや、頭の中の整理すら、まともにできない。俺が親父の息子じゃないかも知れない?誰の子か分からない?千夏も??母さんが昔から浮気?俺の人生計画?小遣いなし?家賃?・・・しかし、逆に、いきなり彼に突き付けられたこの複雑な事がらと、父の現実的な指示は、彼を現実世界に引き戻すきっかけとしては、十分であったのかも知れない。彼は、家族それぞれが発した台詞の一つ一つを思い出し、心の中で反芻し、まずは必死に、情報を整理しようとしていた。



 良彦は、最後に家族にこう伝えた。

「みんなが悪いんじゃない。俺が悪かった、本心からそう思っている。俺は、美奈子を見ていなかった。俺は、美奈子にいつも思ってたさ。『家族ごっこはやめろよ。こんな中身のない高価な家に住み、高価なものを買い、息子にも分不相応なものを買い与えて自分の見栄のために留学までさせて、それで君は本当に満足なのかい?幸せなのかい?もし、それで君が幸せだっとしても、自分さえ幸せならいいのかい?家族は、君に幸福感を与えるための道具なのかい?もっと、ちゃんと家族を見ろよって。』・・・でもね、それは自分に対しても言えることだったんだ。自分の身の丈に合わない仕事をし、身の丈に合わない稼ぎを得て、特に美奈子と輝彦には言われるがままに、好きなものを買い与えて・・・それは、俺の自尊心を満たしてくれた時もあったさ。それは紛れもない事実だ。美奈子だけじゃなくって、俺自身も、実体を持たない、ただの虚像でしかなかったんだ。・・・俺は、みんなに誓います。これからは、みんなに向き合って、みんなの心をちゃんと見る父親になります。ちゃんと、言うべきことは、正直に、心を込めてみんなに伝えます。何が正しいのかなんて、分からない。ただ、その都度、その都度、『最善』と思ったことをみんなに伝えて、その都度、その都度、『最善』と思った行動をします。それが、俺にとって、俺たち一家にとって、生きる、ということだと思うんだ」



 千夏は―――、良彦の話の途中から、床に自分の膝をつき、父の膝に腕を組んで乗せ―――、そこに頭を置いて突っ伏した状態で顔を隠し、静かに、ずっと泣き続けていた。

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