第七話

 (長いこと来ていない間に、随分と変わったなあ)良彦は、駅の改札を出ると目に飛び込んできたロータリーの風景に少し戸惑いながら、歩を進めた。流行の洒落た眼鏡を格安で作ってくれる店、大型スーパー、雑貨屋、薬局・・・どれも全国チェーンの著名なもので、この駅前だけで生活用品の全てが揃いそうだ。(五年ぶりくらいか?いや、もうちょっと経つか?)以前に訪れたときは、駅前には、まだ舗装されてないところも残っており、雨が降ると土がぬかるんで、靴下にまで泥水が染み込みそうになったことを良彦は懐かしく思い出した。しかし、駅を離れるごとに、街の風景は幼少時代から慣れ親しんだものに戻っていく。車がぎりぎり一台通れる細く曲がりくねった道路の脇には、見覚えのある築四十年以上は経っているいるであろう家々や、地元の企業がくっつき合いながら、所狭しと並びたち、ほんの少しのスペースを利用して作った駐車場に、自動車が器用に駐められている。


(これも、東京だ。いや、むしろこれが東京なのではないか。ここから一時間程度で行ける都心の各地も東京であろうが、地方出身者の取るに足らない虚栄心と金にものを言わせて作り上げたきらびやかな街並みは、あくまで日本の首都、世界に対する顔、玄関口としての機能を果たすための都市に過ぎない。人が住むところじゃないよ。見てみろよ、この大切に使われている家々や二十年くらいは乗り続けられている車たちを。これが本来の東京の心なんだよ)そんな思いに駆られながら、さらに歩みを進めていくと、道が開けた。隙間を縫うようにこさえられた大根畑が、そこかしこに点在し、広大な敷地をもつ鳥獣保護区が目に入った。鳥たちのさえずりが心地よい。景色がよく、歩道も広くて快適だ。まるで遊歩道だ。彼は、緑豊かな景色を楽しみながら、琴子の待つ歯科医へとゆっくりと歩を進めた。


 久しぶりに見る白衣姿の琴子が、上から良彦の顔を覗き込む。

「んー。どうしようか、良彦君。ちょっと面倒なところに虫歯作っちゃったわねえ。飲んだくれたまま、歯も磨かずに寝ちゃうからだぞお。あのね、一般的には親知らずは抜いた方がよくて、残しておいても何のメリットもない、ということになってはいるんだけど、こういう上下セットでしっかりと機能している歯は抜かない方がいいかも知れないの。残しておくと、後でブリッジとしても使える可能性もあるしね。残しておいた親知らずが、他の歯の治療に使えたりするんだ」

「左側の方の親知らずは、もうないだろ?二、三年くらい前だったかな、そこに虫歯が出来たんだけど、琴子のところに見せに来る時間がなくてさ、会社近くの歯医者で抜いてもらったんだ。簡単に抜けますよって言うんで任せたら、それが痛いのなんのって。医者も汗をかいて、ふーふー言いながら、顔をしかめてペンチを握りしめて、何度も力いっぱい抜こうとするとするんだけど、抜けなくて、抜けなくて・・・。麻酔をかけ直して肉を何度もやり直して切りまくって、血は大量に出るし、ゴリゴリ削って・・・一時間くらいかかった大手術になったんだ。」

「一時間は、ちょっと大げさねえ」

 琴子はくすっと少し微笑んだ。


「まあ、良彦君の気持ちは分かるわ。抜歯に時間がかかると、しんどいもんね。体感的に長時間に感じたってことなんでしょう?」

「ほんとなんだってば。それぐらいの時間はかかってたよ。そのあと、高熱が出て、仕事もままならず、大変だったんだぜ」


「良彦君の歯は、どれもまっすぐに生えているから、抜いた親知らずもそんなに難しい歯じゃなかったと思うんだけどなあ。根が、よほど込み入っていたのかなあ。だとしたら、そのお医者さんも安請け合いせずに、口腔外科に任せたらよかったのかも知れないね。で、どうしよう、抜く、治療する?この程度なら、ここでも簡単に抜けるわよ。そのお医者さんとは違うわ。ほんとのほんとに簡単よ。仕事にもさほど支障は出ないと思う。ただしなんだけど、その場合、上の問題のない親知らずも、合わせて抜いた方がいいわね。通院回数も増えるわ。・・・そうねえ。わたしとしての総合的な判断としては、残しておいた方がいいんじゃない?って思うわ」

「それでお願いするよ。琴子のことは信頼してるが、やっぱり歯を抜くのは怖いし」


「分かったわ。丁寧に治療するから、お姉さんに任せなさい。セラミックにする?銀歯にする?他の歯の詰め物は、全部、銀歯だね」

「銀歯で頼むわ。俺がこれ以上の無駄遣いしたら、破産してしまう」


「大げさねえ。高給取りのくせして」

「それを上回る金食い虫が、うちには二人もいるんだよ」


「了解、了解。じゃあ、始めるね。今日は型とって、後で詰める日を相談しようか。その後、できたら歯石取りもやりたいけど、良彦君も忙しくって、ここまでしょっちゅう来るのも大変でしょう?歯石取りは、最寄りの歯医者さんでやってもらってもいいかもね。―――あれ?でも、へえ?ちゃんとフロスはしてるんだね、偉い、偉いぞ、少年。かなり綺麗だから、歯石取りは、すぐにやらなくってもいいと思うわ。一番奥だけ歯垢がたまってるから、それだけ、ちゃちゃっと取っといてあげる」

「じゃあ、歯石取りについては、また別途相談ってことで・・・。それもいずれかの後日、琴子にやってもらうよ。この街に来るの、懐かしいし、気持ちいいしなあ」


「この前は、『あんな田舎』、とか言ってたくせに」

「前言撤回。ごめんなさい。俺の大切な故郷だし。俺と琴子の大事な街だよ」


「ここ出て行って、どれくらい?七、八年くらい前だっけ?」

「そんなもんだよね。原風景って、その人の魂のあるべきところなのかも知れないね。何かに呼ばれて、ここに来たのかも知れない」

「大げさねえ」

 琴子は、嬉しそうに、そして優しく、良彦に微笑みかけた。


 *************


 治療が終わって、およそ二時間後―――。良彦は付近を楽しみながらブラブラし、約束の時間に合わせて、近くのラーメン屋に入った。席についたとき、琴子も店の扉からちょうど入ってきた。

「ごめん、ごめんね。待ったあ?」

「全然全然、いい具合に腹も減って、グッドタイミングだよ」

「わたしも、このお店、ずいぶんと久しぶりよ。もう何年も来てないかも・・・」

 琴子は、店内をきょきょろと見回しながら、そう言った。


「琴子の飯、うまいからなあ。自分の飯は自分で作った方が、そりゃあ、いいだろう。でも、ここのラーメンも最高だよ。変わってないなあ、ほんと懐かしい」

「お、なんか、今、久しぶりに、わたしのことをさりげなく褒めたな。少年よ」


「さっきから言ってるが、その少年ってのは何なんだ?俺らって、同い年じゃねえか」

「女の方が年取るの早いのよ。幼い頃は女の子の方が発育が早いし、年取ってからも女の方が老けるのが早いでしょう?あなたは、まだ子供を作れるけど、もう私には産めないもの。・・・したがって、君の知らないうちに、私から見たら、君はいつのまにか、少年になってしまっていたのだ。どうだまいったか。わはははは。そして、わたしは、うるわしの美魔女のお姉さん」


「どういう理屈だ。一度、お前の頭の中を見てみたいよ。しかも、自分で美魔女っていうか、普通」

「だって、この前、秀樹さんに美魔女ってあだ名をもらったんだもん。個人的には、あんまり納得してないけど、これからはこれで通すわ」


「通さなくてよろしい。お前はそのままで良い。変に美容なんかに時間かけるより、もっと家を片付けろ。仕事が大変なのは分かるけど」

「ごめんねえ。わたし、ズボラなところあるからな~。 ・・・って、なんであなたに謝んなきゃいけないのよ」


 琴子のラーメンに、良彦のラーメン・チャーハンのセットが届いた。

「めっちゃ旨そう!いっただきま~す」

 良彦は久しぶりのご馳走に、たいそう上機嫌になった。ろくに会話もせずに、料理を胃袋の中に次々とかきこんでいく。琴子は、高校時代から、こうしてガツガツと勢いよく食べる良彦の顔を見るのが好きだった。


「マジで、上手い。最高。チャーハンもうまいんだ。食う?」

「知ってるわよ。ここに何十年住んでると思ってんのよ。でも、一口だけちょうだい」

 琴子は小皿を差し出し、良彦はチャーハンを入れてやった。琴子は、ラーメンを食べきれず、半分ほど残したので、良彦はそれもたいらげた。


 *************


「あ~、お腹いっぱい。美味しかったねえ、ヨシくん」

 気が付くと、琴子の良彦への呼び名が高校時代のそれに戻っていた。良彦はいきなり、琴子に宣言した。

「琴子。近いうちさあ、俺、息子と対決するよ」

 自分では気づいていないが、鼻の穴を大きく膨らませながら―――。

 鼻息が荒く、フンフンという音が琴子に聞こえてくる。


「なあに、それ。殴り合いでもするの?」

「家族会議を開いて、息子とちゃんと向き合う。輝彦の考え、意見に真剣に耳を傾けて、これからの彼の生き方を家族全員で考えようと思ってさ。対決は言いすぎだな。対峙、かな??」


「わたしがこの前あなたに、伝えたことはさ・・・。海外の論文を読み漁ったり、自分なりに信ぴょう性のあると思った各国の医療機関などの情報を整理して、わたしなりにお話ししたつもりなの。日本はこの分野は、医療も法整備も遅れてると思うわ。考えたくないんだけどね、営利的なものが絡んで、後回しになっているのかも知れないわ。ゲーム障害とかって騒ぎ立てられると、困る人がたくさんいるのかも知れないわ。がんばってね。輝彦君が治るといいね。具体的なアドバイスが全然できなくて、ごめんね」

「何を言ってるんだい。俺が息子に前向きになろうという気持ちになれたのは、お前のお陰だよ。正直なところ、あいつは、もうどうしようもない奴だって、諦めかけてる部分もあったんだ。千夏に『お兄ちゃんはあのままなの?』って、言われなかったら、そして、琴子が忙しい自分の時間を犠牲にしてまで、息子のために頑張ってくれなかったら、俺は放っておいたと思う。そして、その結果、事態は悪い方向にしか進まなかった気がするよ。もう二年だぜ。静養するにしても十分だろ。しかも、彼は鬱病でもなんでもないんだ。外にでるための能力も十分だ。英語はできる。体にも不自由はない。あんな根暗で我儘なガキにしてしまったのは、俺たち両親のせいだ。今更、俺程度の父親が何かしたところで、これ以上は悪くなりっこなんてないんだから、あがけるだけ、あがいてみるよ」


「気をつけてね。本人は本人なりに、世間に対する後ろめたさは持っているかも知れないし、本当は外に出たいのかも知れない。あなたや家族に対して、罪悪感や申し訳ない気持ちも持っているかも、いいえ、持っていると信じたいわ。心に何かの闇を抱えている可能性もあるわ。でも、それがなんなのか、本人にも今は分からないし―――分かってるくらいなら自分で解決できるからね―――、家族で話し合ったところで、それは分からないかも知れない。そういうもんでしょう?良彦君も若い頃は、ご両親とそんなに本音で語り合うなんてことはできなかったでしょう?」

「ありがとう。また、琴子は俺の気がつかなかったことを教えてくれた。その通りかも知れないね。気をつけるよ。あいつが、心を開いてくれるといいんだけど・・・」


「家族でも、いいえ家族だからこそ、本心とは違う態度をとったりすることもあるかも知れないしねえ。なかなか、息子さんと父親が腹を割って話し合うのって、難しいみたいだし。あ、ごめんなさい。知ったようなことを言って。わたし、女なのに」

「あいつが話しやすい雰囲気を作ってあげられたら、いいんだけどなあ。なかなか難しいや」


「ヨシくん、一本気だからなあ。ズバッとやっちゃいそう。ま、そうなったら、そうなったで、それもありなんじゃない?もし、立ち向かってきたら、こっちのもんよね。思いきり本音をぶつけ合うことができたら、逆に、そっちの方がいいかもよ」

「そうそう。息子は父親を倒して、乗り越えていかなきゃいけないんだよ」


「一体、いつの時代の話なのよ。父だからこうしなきゃいけない、母だからこうしなきゃいけない。夫だから・・・妻だから・・・、、もうそんな時代じゃないのよ」

「分かるよ。でも、それって逃げることの言い訳に使うやつだって多いんだぜ。そのくせ、他人に対しては容赦ないんだ。学校の先生なんだからこうあるべきだ、あなたはそれでも教師なのか?とか。医者なんだから・・・政治家なんだから・・・。こんなことばかり言っていたら、日本って国は、ますます、まっすぐと真摯に生きようとしている人間は報われない国に、なっちまうぜ。みな綺麗事ばかり言うが、昔よりも、個人の努力や個性の認められない国になっちゃった、俺はそう思うよ。空気が読めないだと?そんな言葉は俺たちの時代にはなかった。

 空気??見えないものが見える訳がないだろう。確かに、力の暴力も言葉の暴力も認められない良い社会になったさ。それはいいことだ。しかし一方では、昔より、いじめは陰湿化した。子供の社会でも、大人の社会でもね。言いたいことがあれば、はっきりと言う、それが今の日本人に一番必要なものだと思う。海外では、年齢が上がるほどいじめの仲裁に入る人の割合が上がるのに、日本では逆に下がる、そんな調査結果があるらしいよ。国内での中途半端なグローバリゼーションが、結果的には個人に残された最後のアイデンティティさえも奪っている。それが、輝彦が日本に馴染めなかった一番の理由だよ、きっとね」


 琴子は頬杖をついて、懸命に語り続ける良彦の顔を、嬉しそうにいつまでも眺めていた

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