第四話
土曜日の夕刻になった。そろそろ行く時間だな、良彦は荷物を片付け、会社を出る。そして、池袋のバーに向かった。少し早いが、まあいいだろう。飲みながら、我が戦友を待つとしよう。店に着いた彼は、電信柱の陰から飛び出てきたブレザーを着た制服姿の少女を見て、飛び上がって驚いた。
「ち、ちなつ!?」
「お父さん、遅いよ~」
「お、おま・・・、な、なんで・・・」
「なんでって、今日、琴子さん来るんでしょ。あたしが来ない理由がないじゃない」
「今日は、大人の話なの!」
「大人の話って、そういうこと。ふ~ん、そうなんだ。そりゃどうも、お邪魔さまでした!あたし、帰るね。ごゆっくり。うふふ」
一瞬で態度を変えて、きびすを返す彼女の肩をつかんで呼び止める。
「違うって。お前、また訳の分からん勘違いしてるだろ。そういうんじゃなくて、今日、琴子が弁護士さんに相談した結果が聞けるんだって。お前の例の件で、告訴すべきかどうかって話だよ」
「じゃあ、やっぱ、あたし関係あんじゃん。入ってもいい?ほんと、お邪魔なら帰るから、無理しないでね」
千夏は、いたずらっぽくウインクをして、父を見た。
「だから、お前さ~。ここ、大人が酒飲むとこだし、それに今日、結構厳しい話になるかも知れないから、俺が一度消化して、丸めてからお前に分かりやすく伝えようと思って・・・」
「子供扱いしないでよね~。もう、あたし、何聞いても大丈夫なんだから」
「えーい、分かった、分かった。ついてこい。傷ついても知らねえからな」
「うおっ!おじさん、男前なセリフ、かっくいい~」
こいつ、すっかりキャラ変わったな。苦笑しながら、良彦は千夏を連れて、バーのドアをくぐった。
「あれ、ちなつちゃん?」
「きゃあ、ことこさーん」
千夏は、カウンタ―席に座る琴子のところに、すっ飛んで行った。
「早かったんだな。早めに出て正解だったよ」
「今日、土曜日にしては不思議と患者さん少なくってね。後片付けや会計なんかも、すぐ閉められたんだ」
琴子は、まとわりつく千夏をあやしながら、そう答えた。
*************
「そうか、やっぱり告訴の線は、難しそうか」
「うん。やるとしたら、強姦未遂ってことになるんだけど、行為があることを了承した上で、ホテルの部屋に入ったのは千夏ちゃんの意思な訳だし、警察側も告訴するなら受けるしかないけど、状況的に裁判沙汰になるのは必至で、そこに勝算があるわけでもなし、まともに取り合ってくれないだろう・・・って言うのよね。警察の人に、真面目に取り組んでもらうには、児童買春の立場を取るという方法もないこともないんだけど、そしたら、千夏ちゃんは―――」
良彦は、頷いた。
「俺もさ、被害届出したときに聞いてみたけど、似たようなこと言われたよ。悔しいが、どうしようもないかな。―――隙があったこちら側も悪い。千夏にも非がないこともないわけだし、諦めるか。とすると、現実的な問題としては、動画だけだなあ」
「それはね、弁護士さん経由で請求すれば、取り返せるだろうって。コピーなんて簡単にできるけど、拡散させないための抑止力にはなるからって」
「そうだな。その線でお願いしようかな。千夏、聞いてたか?」
千夏は、真顔に戻って、頭を深々と下げ、神妙に返事をした。
「はい。お父さん。本当にごめんなさい。琴子姉さんも本当にすみませんでした」
「お父さん、もう何回も言わないからな。以降は、自覚をもって行動すること!」
「うん。お父さん、琴子さん、ありがとう。千夏は、とても嬉しかったです。たぶん、生きて来た中で、一番嬉しかった」
「ま、いい勉強になったな。千夏とも仲直りできたし、よかったところもあるっちゃあ、あったな」
「そうだ、千夏。言っておいた件、電話するから、お父さんに携帯電話を貸しとくれ」
「良彦君、それ何の話?」
「いやな、親として、彼と、それから、彼の親と一度は話をしてケリをつけとこうと思ってな。千夏には、彼の携帯番号を消さないように言っておいたんだ」
「それって、いいのかしら。もう、弁護士さんに完全に任せてもいいと思うよ」
「いや、これはケジメだ。千夏としては連中に接触するつもりもないし、話もするつもりもないんだが、俺は千夏の父親として、言うべきことは言っておきたい」
「はい、お父さん。よろしくお願いします」
千夏は、電話番号を表示させた状態で、自分のスマホを良彦に手渡した。
「あのとき、彼は良彦君のこと、見てないと思うからさ。まずは私から話そっか。一言、二言だけ、あいさつしたら、すぐにあなたに代わるよ」
「そりゃ助かる」
こうして、琴子は、良彦から受け取った千夏のスマホの発信ボタンを押し、彼女の元恋人に電話をかけたのだった。
*************
「もしもし。ホテルでおばさん呼ばわりされたあげく、千夏ちゃんと3Pさせられようとしたお姉さんです。覚えてる?わたしにも言いたいこと、いろいろ、たっくさん、あるんだけどさ、千夏ちゃんのお父さんが話したいそうだから、代わるね。いいかな」
「はい、お父さん」
琴子は、そう言って、良彦にスマホを渡す。(彼、相当、びびってるよ)小声でそう囁きながら。
「千夏の父です。娘がいろいろお世話になりましたね。彼女の保護者として、言わせて欲しいことがあります。まず、もう金輪際、一生、二度と、娘の前には顔を出さないでください。連絡も娘にはしないでください。よろしいですか?警察にも被害届を出させてもらいました。それと、撮影した娘の下着姿の動画は回収させてもらいます。後日、法的な手段を取らせていただいて、弁護士経由で請求させてもらいますので、コピーも含めて、全動画を返却あるいは、確実に消去していただきます。輪姦しようとした全メンバーに、誓約書も提出していただくことになりますので、他の方にも伝えておいてください。いいですね」
千夏は、下を向いたまま、電話中の父の顔を見ようとはしなかったが、父がだんだんと苛ついてきていることは、その声色で理解した。
「・・・はい、はい、はいって、君、本当に自分がしたことが分かっているのか?あとで、ご両親から私宛に電話をもらえますか?私の携帯番号は×××‐××××です。メモはとってくれましたか?必ず、お願いしますね。その様子だと、ご両親には何も話してないんですね。言えなかった君の気持ちも分からなくもないが、いずれ、バレることです。何を伝えるかは、君に任せますが、ご両親に私に電話をすることだけは確実に伝えてください。もし、今日、明日中に、ご連絡いただけなかった場合は、私は君の大学に行き、理事長やアメフト部の監督さんに会うなど、あらゆる手を尽くして、君たちの起こしたことを明らかにしていく覚悟があります。以上です」
ほぼ一方的に、宣告をしたような形で、彼らの会話は終わった。
「はい、はい、はいって、それしか言わねえんだよ。なんなんだ、この男は」
良彦は、電話中は、かろうじて平静を装ったが、切ったあと、怒りを押さえられなくなって、吐き捨てた。
「まあ、人間のクズの集まりだったからね」
琴子も、一緒になって、ぺっと唾をはくまねをし、「ゲス野郎どもめ、わたしの千夏ちゃんに今度何かしたら、半殺しにしてやるんだから」と息巻いた。
「両親からは、連絡あると思うよ。大学のアメフト部ってさ、就職活動が目的で部活やってる連中も結構いるんだよ。不祥事は困る。履歴書にアメフト部って書いときゃ採るバカな人事って今だに多いんだ。どっちにしても、大学に押しかけてやろうかな。それか、週刊誌に、記事売るか」
「やめなさいよ、千夏ちゃんがかわいそうじゃないの。どうなるか分かってるの?」
「週刊誌は、冗談だよ。する訳ないだろ。ともかく、親からの電話を待つさ。本日の業務は、これにて終了!飲もうぜ、相棒さん」
*************
まだ時間が早く他の客もいたため、店主は参加せず、三人で飲み始める。カウンターに千夏を間に挟んで並んで腰かけた。千夏は、ウーロン茶だ。店主を交えて飲むのは、客が引けてから、と決まっていた。それほど流行っている店でもないため、日によって、客足には、かなりのばらつきがあった。彼らの本格的な酒宴が始まるのは、十時頃のこともあるし深夜一時を過ぎてからのこともあった。
琴子と良彦が、ビールからウイスキーにスイッチしたころ、珍しく、秀樹が店に顔を出した。店主の大学時代の同級生で、たまに店でバイトをしている男だ。
「あらま、珍しい~。お元気?」
琴子が声をかける。
すかさず、店主が厨房から飛んできた。
「今日は、珍しく若いお嬢さんがいるから、来たんですよ。まったく、この男には、若い女の子の匂いを嗅ぎつける能力があるんじゃないか、ってわたしゃあ、つねづね思ってる。千夏ちゃんでしたね、かわいらしい子だねえ。でもね、こいつにだけは、気をつけるんですよ」
「あら、千夏ちゃんは、痛い目にあったばかりなんだから、大丈夫よね」
「はい。大丈夫です。琴子姉さん」
千夏は、琴子と良彦の間に座り、ずっと琴子にくっついていた。
「ん~かわいい。かわいいったら、ありゃしない。ねえ、ヨシ君、この子、わたしにくださいな」
琴子は、千夏に頬ずりを始めた。
「お前、もう酔ってんのかよ。ああ、いいよ、いいよ。お前にならくれてやる。もってけ、もってけ。・・・ってか、お前、まさか、そっちの気があったのか?」
「パパも一緒にもらわれるんだからね。琴子さん、このおじさんとセットでも、もらってくれるよね」
「一体、何を言っているんだ、お前は」
秀樹は、三人の会話に入ろうと隙を伺っていたが、諦めて厨房の奥に引っ込んでいった。
「あたし、オレンジジュース飲みたいな」
千夏がそう言うと、琴子も続いた。
「あ、いいなあ、わたしも飲みたい。スクリューくださいな、秀樹さん」
「はいよ!」
このやさ男は、人当たりは良く、客から好かれるのだが、料理もカクテルも作れない。閉店後に掃除をするのさえ、見たことがなかった。彼がやることは、生ビールをつぐか、配膳と会計をするくらいだった。それは客の少ないこの店では、たいした役には立っていない。働くためではなく、ほとんど、自分がなじみの客と飲むために、店にやってきているようなものだった。注文や会計計算の間違いも多い。
「マスター!オーダー二ついただきました!!琴子さんに最上級のスクリュードライバー、一丁!!千夏ちゃんにもスペシャルなオレンジジュース出しとくね」
そう大声で叫ぶと、厨房に引っ込んでいった。
「相変わらず大げさな人だなあ。オーダーいただきました、って場末の外人パブじゃねんだからさ、こんな小さい店できゃんきゃんわめくなよ。それよりも伝票かなんか書けよ。ホント使えない人だなあ。・・・俺、おしっこ行ってくるわ」
良彦は、席を立った。
「お父さん、『おしっこ』って言うのはやめなさいよ。おじさんって、やーね、琴子さん」
「この人、いっつもそういうのよ。『トイレ』って言うときは、小じゃなくて大の方ね」
「琴子さんもやだ~」
笑う二人を背にして、「俺、ついでに外で、一服してくるからな」と、言葉を残して良彦は場を離れた。
(ここ数週間、大変だったなあ。リストラ係に、千夏の事件に・・・。琴子も全然、寝てないんだろうなあ。ほんと、お互い、大変だったなあ。ありがとな、琴子。でも、なんか平和だ。ごたごたする前の時よりも今の方が平和になった気がする。平和っていいなあ)
良彦は、外で煙草を吸いながら、安堵のため息をついた。
席につくと、彼女たちは、二人並んでオレンジ色の液体をコップから飲んでいる。ああ、オレンジジュースとスクリュードライバーね。色は一緒だわな。良彦も久しぶりにカクテルを飲みたくなり店主に、ソルティドッグを頼んだ。オールドタイプのジンではなく、なんとなく気分で、ウォッカベースにしてもらうことにした。
いつのまにか、千夏は、琴子の膝の上に頭を乗せていた。眠っているようだ。
「これ、千夏。琴子が重いんだから、やめなさい。琴子、ごめんな」
「いいのよ、全然。わたしもこれだけ懐かれると嬉しいわ。子供、できなかったし」
「ご主人、七周忌くらいだったっけ。無神経だったかな。ごめんな。でも・・・」
「気にしないで。あの人は、わたしの中に生きてるから、今もしっかりと」
琴子の旦那は、海に釣りに行き、行方不明になった。捜索しても遺体は見つからなかった。磯場では、綺麗に揃えて置かれている彼の靴と荷物が、すぐに発見された。自分で靴を脱いだのだろう。それが意味することは何であったろう。
「今でも、時々、夢に見るわ。最後の日、釣り道具を持って出かけていった主人の顔を。いつものように、にこにこして、行って来ますって。なぜ、わたしは気が付かなかったんだろう。あの人は何に悩んでいたんだろう。何に疲れていたんだろう。わたしに疲れていたんだろうか。いくら考えても分からないの。そのうち、考えなくなったわ。でも、夢だけは見るの。わたしの中では亡くなってないの。だって、あの人が海に飛び込む理由なんてなかったんだから。いいえ、分かってる、分かってるのよ。理由は絶対にあった。それはわたしのせい。でも、それが何なのか分からない。夢の中で、いつも聞くのよ。なんでなの?って。夢の中のあの人は何もしゃべらない、何も答えてくれない」
酒も入って、一人、同じことを繰り返し話し続ける琴子に、良彦は、何も声をかけることができなかった。
「琴子しゃんは悪くないもん」
急に、彼らの下から---琴子の膝の上に乗った千夏の頭から声が聞こえてきた。
「じぇったい、じぇったい悪くなんかないんだから」
「こいつ、寝とぼけてるのか?」
琴子は、千夏の頭を撫でた。
「んー。どうだろうね。寝てるのに、夢の中でわたしたちの会話が聞こえて来て反応したんじゃない?そういうことってあるよね」
むくっと千夏が起き上がった。
「ちなつは、寝てなんかいましぇん」
「お前、ろれつが回ってないぞ。まさか・・・」
良彦は、千夏のコップに口をつけてみた。
「これ、酒だ。しかも結構、きつい・・・」
「え?え?え?」
琴子が動揺する。
「わたしのもオレンジだけど、これはカクテルよ」
「珍しく客が多いもんだから、間違えて同じもの二つ出されたんだな。ショートじゃなくって、結構な量だったぞ」
「もう一杯、千夏にもください」
「もうやめときなよ、千夏ちゃん」
良彦はちょっと考えて、ま、いっかと思った。
「マスター、ブラッディマリーをコップで娘に作ってもらえる?」
「ちょっと良彦君、何を・・・未成年だよお」
「いいの、いいの。たまには。親の見ているところでなら、高校生がちょっと酒飲むくらいなら、ありだろ。俺がこの子くらいの頃は、だいたい自分の限界、知ってたぜ。これも勉強、勉強。それにさ、マリーは二日酔いに効くんだぜ。トマトジュースだから健康にもばっちしだし」
「あなたと一緒にしないでよ。マリーは、アルコールたっぷり入ってるでしょうが。・・・あなたの血を引いてるんだから、お酒はいける口なんだろうけどさあ。まったく、あなたって人は、よく分からない人ね。適当なんだか、抜けてるのか。ぼーっとしてると思ったら、急に思いついたように、すごくしっかりしたり、かっこいいこと言ったりするし」
「千夏は、パパの子供で、パパ似なの、じゃなくて、です。あたしにまかせなさい、じゃなくて、まかせてください」
「ダメだ。こりゃ。酔ってるわ。千夏ちゃん、無理に敬語使わなくていいのよ。明日になったら覚えてないだろうけど、教えておいてあげるね。敬語ってね、相手を尊重する気持ちさえあれば、何だっていいのよ、少なくとも気の置けない仲では、ちゃんと伝わるの。逆にね、敬ってもないのに、敬語なんか使われると、相手って分かっちゃうのよ。慇懃無礼、って言うでしょ」
「酔ってる子に小難しい説教を垂れるお前も、たいがいだな。酔狂してんじゃないのか」
「わたしがこれくらいで酔う訳ないでしょ。・・・そうでもないか。なんか、今日はほっとして、いつもより回りは早い気はするわね。でも、もっと飲みたいわ」
「いっときますか、我が戦友よ」
「何よ、それ」
「俺の中では、琴子に対する最大限の敬意と感謝を表した呼称だよ」
「なんのこっちゃ、えーい、良彦、酒だ。酒、持ってこんかーい」
「へいへい。今すぐに」
その後、千夏は、ブラッディマリーを美味しい、美味しいと、ごくごくと飲み干し、三杯もおかわりをし、カウンタ―テーブルに突っ伏して、軽いいびきを立てて完全に寝入ってしまった。
「この子、初めてでしょ。いい飲みっぷりだわ。強くなるわー、この子は」
「だろー。さすがは俺の子だ」
「いばることなの?」
「人生は、酒と泪と男と女よ。酒が飲めずに男も女もやってられるかってんだい、なあ、新しい相棒さん」
そう言って、良彦は、千夏の頭を軽く、優しく撫でた。
「あなた、恵まれてるわねえ。年頃の娘さんが、親父さんの飲み相手になってくれるなんて、そうあるもんじゃないわよ。近ごろは息子さんだって、父親とは飲まないって聞くし」
「お兄ちゃんは、お母しゃんに似てるんでしゅ。ちなつは、パパ似なんでしゅ」
また、不意に千夏が会話に入ってくる。寝たままで。
「この子、本物だわ」
「すげーだろ」
「よーし、今晩は飲み明かすか。ね、タクシー拾って、わたしんとこで飲みなおさない?この子、たぶん、ひと寝入りしたら、まだ行けるわよ」
無茶苦茶な大人たちだよなあ、良彦は可笑しくなった。
「その話、乗った。おい、千夏。今日だけだぞ。高校卒業するまでは、お父さんが見てるときだけ、飲むんだぞ」
「良彦くん。千夏ちゃん、聞こえてないって」
小一時間ほど、千夏を寝かせていると、トイレに行ったので、そこで会計をして、いったん外に出た。少し歩けば、流しのタクシーは簡単に拾えるだろう。マスターたちも今日は忙しそうだ。金にならない俺らは、早めに退散した方がよさそうだ。
「お父さん、おんぶ」
「マジか、正気か、どうした、狂ったか。お前、本当に千夏か」
「何よ、嫌なの?また、反抗期に戻るぞ、千夏は」
「分かった、分かった、ほら」
良彦は、しゃがんで千夏を背に乗せて、夜の池袋の街を歩き出した。琴子は、彼らの後ろについて歩いた。
「・・・結構、恥ずかしいな、これ」
「あたしが恥ずかしくないのに、お父さんが一体何を照れる必要があるのさ」
だいぶ、千夏の酔いは引いたようだ。口調がはっきりしてきている。それなのに、正気なのに、おんぶされたいのか。良彦は、かわいいなあ、と思った。こんなの十年ぶりくらいじゃないのか。
良彦は、千夏に優しく語りかける。
「お前はさあ、本当にかわいらしい子供だったんだよ」
「うん。そんなこと知ってる。お父さんっ子だったしね」
「なんで、そんなに素直になったんだ?お前、魂が入れ替わってないか?何か得体の知れない悪霊にでも取り憑かれたんじゃないのか?」
「なんてこと言うのよ。千夏ちゃんは、いつだってかわいいもんねー」
琴子が後ろから会話に入ってきた。
「お父しゃんも、しゅきしゅき。琴子しゃんも、しゅきしゅき。だーいしゅき」
「急に、照れくさくなって、酔ってるふりをはじめやがった」
「反抗もいっぱいしたけどさ、あたしは、いつだってお父さんの方を向いてたんだよ」
「そうだなあ、お前は、甘えるときも、反抗するときも、まっすぐに向かってくる子だったなあ」
「ねえ、お父さん」
「んー?」
「お兄ちゃんは、ずっとあのままなの?」
急に話題が変わった。しかも、良彦の頭の一部を常に陣取っている大きな悩みの種であるその話題に、戸惑いを隠すことすらできず、彼は、正直に、言葉を絞り出すように思いを吐露した。
「お兄ちゃんか・・・。考えても考えても、お父さんにも分からないんだよ。最初は頑張って話しかけようとしたさ。でも結局、彼がどんな気持ちなのかすら分からないんだ。情けない父親でごめんな」
「お兄ちゃんもお母さんも、千夏のこと見えてないのよ。きっと、お父さんのことも見えてないんだと思う。二人とも、わたしたちの方に顔を向けているときも、目は、わたしたちを通り越して、どこか遠ーい、遠ーいところを見てるの」
良彦は、分かるような気がした。いや、まさにその通りだと思った。彼女の直感的なものなんだろうが、なんだか、すごく的を得た表現のような気がする。千夏は、怒ってるときも、笑ってるときも、泣いているときも、つっかかってくるときも、ちゃんと自分のことを見る。しかし、彼らは・・・
「ねえ、いつも聞きそびれていて・・・。というか、聞いていいかどうか分からなくて・・・。聞いてもいいかしら?」
「何だよ、琴子らしくないなあ、遠回しでまどろっこしいぞ」
「お兄ちゃんは・・・輝彦君は、今、どうしてるの?随分と長いこと会ってないわ」
「あいつはね・・・。部屋から出てこないんだ。もう二年になる」
「ごめんね、言いにくいこと、聞いちゃって。今、そういう心の病、増えてるもんね。彼だけじゃなくて、たくさんいるんだもん。きっと、社会も悪いんだよ」
「うーん。ちょっと一般的な精神疾患系のケースとは違うみたいなんだ。心療内科にも無理矢理に連れて行ったことあるんだけど、うつ病とかではないらしくって。アメリカの大学から帰ってきてさ、就職したんだけど、一ヶ月経つか経たないうちに会社辞めちゃってね。自分のやりたいことじゃなかった、とか言ってさ。じゃあ、何がしたいんだ?やりたいことあるなら親として応援するから言ってみなって、当時、そういうやり取りを何度もしたんだけど。やりたいことなんかないって、言うんだ」
彼は、ふーっとため息をついた。
「ちゃんと食事も取るし、睡眠もとってるようなんだけど、部屋で一日中、ゲームだけをしているようなんだ。言葉や動作も、引きこもる前と後で、特別変わったこともない。ネットでつながっている仲間と会話しながら、そりゃまあ、楽しそうに遊んでいるよ。たまに部屋の中から、大きな笑い声が聞こえてきたりもするんだ。金も相当、入れてる。見かねてさ、―――本当は小遣いを停止したいくらいだったんだけど―――いきなりはあれだからさ、まずは月の上限を決めさせてもらったんだ。けど、美奈子のやつが息子可愛さか何なのか、内緒で結構な額の金を渡し続けていて、輝彦は、それを全部、ゲームにつぎ込んでる。どうしたものかなあ。昔からね、少し神経質なところがあって、叱りにくいんだ。うまく言えないけど、褒めるのも難しいんだよ。褒めたつもりなのに、落ち込まれてしまったりして。千夏は、結構、褒めたり、叱ったり、しやすかった。兄妹なのに、全然ちがう。そりゃ違って当たり前なんだけど、ともかく彼への接し方が分からない」
琴子は、良彦の話を聞きながら、考えていた。うつ病から来る引きこもりはよく聞くが、確かに、輝彦のようなケースは心当たりがなかった。強いて言うなら、依存症の一種なのかなあ。依存症って、どんなのがあったっけ。行為系は、ギャンブル、買い物、ネット、ゲームくらい?セックス依存は、病気と診断している医者と、病気ではないと主張している医者に分かれていて、依存症と呼べる病気かどうかは、はっきりしてなかったんだっけ?薬物系は、アルコールに煙草に麻薬か。薬物系は確かに人生が崩壊するほど中毒性がある。行為への依存はどうなんだろう。一日中、しかも長期に渡って、一つの行為に依存し続けられるものなのかしら。ちょっと調べてみよう、彼女はそう思った。
その後、彼らは、タクシーで琴子の家に行ったものの、琴子が布団を用意するのも待てないほどの速さで、床で気絶するように寝入ってしまった。琴子は、彼らに毛布をかけて、自分も横になった。最初は、優しい眼差しで、隣に寝ている千夏の頭を撫でていたが、数分も経たないうちに、彼女もすぐに眠りに落ちた。三人で川の字になって、昼過ぎまで熟睡したのだった。
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