第二話

 良彦は自宅に辿り着くと自分たちの住む高層ビルを見上げる。不確かな土台の上に立つ実体のない摩天楼―――俺にとっては、虚偽で固められた精神的な牢獄だ。俺は、このビルで、妻がハイソサエティをきどって、欺瞞の愛に満ちた家族ごっこを維持するために、あと何年、魂を削って働かなければならないのだ。許可したのは、自分だ。だから自分にも責任はある。古い考えだろうが、自分は家長だ、一家の父だ。俺が守らなければならない家族だ。しかし、どうにもやりきれない思いを捨てきることができない。


 エレベーターを四十五階まで上がり、鍵を開けて、ドアを開く。


 ガシャーン


 音が響く。U字ロックがかかったままだったようだ。良彦は舌打ちをした。下のセキュリティチェックで、どうせここまでは上がってこれないんだから、せめて朝になったら開けとくとかしろよ。俺がまだ帰ってこないと思って、掛けといたのか。・・・それになあ、クソ高い家なんだから、今どき、この鍵はないだろう。玄関口にもせめて指紋認証くらいつけられなかったもんなのかね。


「おーい、美奈子、開けてくれ」

 彼はドアの隙間から妻を呼んだが、返事がない。代わりに娘の千夏(ちなつ)がロックを外して良彦を入れてくれた。まだ寝巻のままだった。


 千夏は、明らかに憮然とした表情を浮かべて、良彦に噛みついてきた。

「また朝帰りなの?。パパ、マジ臭いって~。お酒の匂いもプンプンしてるし、パパの体臭にも耐えらんない。これからあたし、自分のお弁当作るけど、パパの朝食、あたし、やらないからね。ママにでも勝手に作ってもらって。作ってくれるかどうかは知らないよ」

「別に頼んでないから、いらないよ。今日は部活があるのか?」


「十一時には出るわ。だからお弁当作るって言ったのよ。夜遅くなるから」

「帰りの時間は、ママには知らせとけよ」

「うっざー。マジ超うざい。はい、はい、分かりました」

 千夏は、形だけの返事をすると自室に戻っていった。


 妻の美奈子は、ベランダに出て植木に水をやったり、窓ガラスの拭き掃除をしていた。話しかけようとすると、千夏からの大声が飛んできた。

「パパ、脱いだもの、洗濯機に入れないでよ!シャワー浴びてる間にあたしの下着を洗っとこうと思ってたんだから」


 その声で、美奈子は良彦に気付き、「お帰りなさい」、と声をかけた。

 その作り笑顔が俺は苦手なんだよ。怒ってるのか、関心がないのか、本心で帰ってきてくれて嬉しいのか、ちっとも分かりゃしない。嬉しいってのは、まずないだろうが。家族ごっこはもうやめろ。もっと素直になれ。本心で喋ってくれ。


「琴子さんと一緒だったんでしょ?楽しかった?」

「一緒に行ったんじゃないよ。店に行ったら、いたんだよ」

 弁解をする必要もなかったので、事実を言ったまでだが、なんだか下手くそな言い訳みたいな返事だな、良彦はそう思った。


「琴子さん、お元気?あなたのストレスを彼女が発散してくれて、またお仕事に頑張れるんだから、とてもありがたいお友達ね。後で、お礼の電話しておくね」


「いいって!」

 つい、声の音量が大きくなってしまった。妻は少し顔を曇らせたものの、すぐにいつもの表情に戻り、仕事を再開した。


 *************


 昼前に、娘の千夏は家を出て行った。演劇部に入っている彼女は高ニになってようやく役をもらえて、その練習に余念がないらしい。なんでもいいから何かを一生懸命にやるのはいいことだ。良彦は心の中で、娘の成長を願い、喜んでいた。


 しかし、夜の七時を過ぎても彼女は帰ってこない。良彦は心配になってきて、美奈子に聞く。

「遅くなるって連絡は入ったか?」

「いいえ。七時頃には帰るって、出がけには言っていたけど」


「何かあったんじゃないのか」

「もう高校生だもの。いろいろありますよ。部活の後片付けとか、居残り練習とか。年頃なんだから、あまり干渉しすぎるのもよくないんじゃない?」


 何が干渉か。お前はそれほど注意して家族を見てるのか。関心がないだけだろうが。

 彼はイライラしながら、居間でタバコに火をつけた。新居に移ってからは、ベランダで吸うことを自分に課していたので、この家の中で吸うのは初めてだった。八時を過ぎたその時、彼の携帯が唐突に鳴った。琴子だった。彼女は大きな声は出さなかったが、その喋り方から、とても慌てていることがすぐに分かった。

「今、話せる?千夏ちゃんが大変そうなの。パパとママには絶対知らせないでって、電話があって、琴子さんだけで来てって言うの。ラブホテルにいるらしいんだけど、詳しい状況は聞けずに、電話が切れてしまったわ。これから、わたし、すぐに家を出るわ。あなたも、一緒に来てちょうだい」


 良彦は自分の顔からみるみる血の気が引いていくのが分かった。とりも直さず、上着だけ羽織り、靴下をはいた。美奈子には、平静をとりつくろい、外でちょっと飲みなおしてくるわとだけ言い残し、家を飛び出した。美奈子は気にした様子はなかった。


 急いでタクシーを拾い、待ち合わせのホテルのロビーに乗りつけたのだが、千夏はもちろん、琴子の姿も見えなかった。どういうことだ?フロントで話を聞く。琴子の名前を出すと、メッセージをお預かりしております、とボーイは言う。差し出されたメモには、『五〇三号室で待ってます』と書かれていた。


 何がどうなっているんだ?彼は、エレベーターのボタンを何度もたたき、五階まで上がると、指定の部屋まで廊下を走った。


 *************


 良彦が駆けつけるよりもずっと早くに部屋に入っていた琴子は、真っ黒に日焼けした体格のいい若者五名と対峙していた。


 彼女は、良彦との電話を切った後、すぐにホテルに向かったのだが、その道中、彼女の携帯に、千夏から『五〇三号室、おばさん、助けて』とショートメールが入ったのだ。一刻を争う危険を感じた琴子は、良彦の到着を待たずに、部屋に飛び込んだのだった。むろん内鍵はかかっていたが、ドアを叩くと、悪びれもせず、連中の一人が琴子を部屋に通した。部屋の奥にはこれといった趣向も施されていないビジネスホテルにあるような普通のダブルベッドが置かれ、千夏はシャツのボタンを外され、下着が向きだした状態でそのベッドの上に横たわっていた。そして、一人の男が彼女にまたがり、その隣で別の男がスマホで動画を撮影しているようだった。



「琴子さん!」

 千夏は叫んだ。あられもない姿で撮られているのに、ほっとしたのか、それほど取り乱している様子はない。どうやら間に合ったようだ。


「来客だよー。結構、綺麗なお姉さん」

 琴子を入れた男が皆に紹介する。


 男たちは、へらへら笑いながら、口々に喋りはじめた。

「お姉さんって年じゃないだろ。おばさん、誰?」

「ヒュー、BBAとJKで、3Pでもする?なっかなか、シュールな絵が撮れそうだねー。新ジャンルのエロビが開拓できるんじゃね?熟女と女子高生の乱交パーティ、とかさ」

「おばさん、いくつ?顔はまあまあだよな。なんだっけ、たまにわき役で出てくる四十歳くらいの女優に似てるよね、顔がよくて胸さえ垂れてなければ俺はいけるよ」

 一人の男が片方の口角だけをあげて、舌なめずりをした。


「あなたたちの顔・・・、よくもまあ、そんな下品な表情ができるものね。ある意味、すごいわ。素直に感心する。ところで、BBAって何?3Pってどういうこと?何がシュールなの?」

 琴子が努めて冷静を装い、男たちに聞く。冷静を装おうとしたのは、むろんのこと、恐怖からではない。怒りが爆発しそうだったからだ。


「やっぱさあ、こんなおばさんの出る幕じゃないんじゃない?この子とは合意の上のことなんだよ?この子の何なのか知らないけどさあ、勝手に乗り込んできて、人の恋路を邪魔する権利はないんじゃないのかなあ?」

 特別に黒々として体の大きい男がそう言いながら、琴子を見下ろしてきた。


「あなたがリーダー?ボス?そうね。おばさん、場違いだったわね。大変申し訳ございませんでした。心よりお詫び申し上げますので、どうぞご容赦くださいませ」

 琴子は仰々しい口調でそう言うと、その青年に深々とお辞儀をした。頭を上げた彼女は、さらに言葉を続ける。

「でも、わたしもお仲間に入れてくださらないかしら?意外と、いいかも知れなくてよ?」


 あっけにとられている青年に背を向けてハンドバックから煙草を取り出し、彼に背を向けたまま一服、吸う。


(え?琴子おばさん、煙草吸うんだ。組み敷かれたままの千夏は、

 状況も忘れてその光景にみとれていた)


 その次の瞬間―――琴子は振り返りながら、持っていたバッグを遠心力を付けて振り回し、男のこめかみに力いっぱい叩きつけた。目に入ったら失明していたであろう、それほどの勢いだった。そして、男が叫ぶ間もなく、目を押さえた瞬間、ハイヒールで彼の股間を蹴り上げた。男はひとたまりもなかった。苦しそうなうめき声を上げ、いったん膝まづいた後、床に倒れこんだ。バッグの角には、縫い止めと装飾のための金具でもついていたのだろう、男のこめかみは切れて、血が流れていた。琴子は、さらに容赦がなかった。目の前に横たわる男の前にかがみこみ、股間を押さえている彼の手に煙草の火を押し付けた。自然、男は、たまらずに手をどけ、急所をさらした。そして、時が止まったように呆然としている周囲の真ん中で、彼女はゆっくりとした動作で新しく、二本の煙草を取り出した。それらに火をつけ、数度ふかすと、組み倒した男の股間に服の上から火をゆっくりと押し当てて焦がし始めた。


「わたし、こう見えても医者なんだー。切ったり貼ったりするのは得意なの。」

 彼女は、そう言って狂気じみた微笑みを顔に浮かべ、そうかと思ったら、次の瞬間、般若のような怒りの表情で、組み敷いた若者を一喝した。

「ゲス野郎、動くなよ。ちょん切るぞ」


 琴子の迫力はたいしたものだった。男は、身じろぎ一つできず、なされるがままだった。ズボンに穴が空くと、火をそこからつっこんで、彼の男性器に押し当ててもみ消した。組み敷かれた男は、精神的に完全に制圧され、恐怖のあまりか、固まったまま、動くことはなかった。琴子は、その哀れな男の様子を冷たい眼差しで確認し、立ち上がった。さらに、彼の股間をハイヒールのかかとで踏みつけながら、他の男たちにもドスをきかせる。


「だれがおばさんだよ!お前らがおばさんって言ったから、そのおばさん流のやり方でやってやったんだ。これであいこだ。さっさと出ていきな!」


 男たちは、いそいそと外にでる準備をして服を着始めた。その中の一人が、「千夏、いくらだっけ?全然、撮れなかったから、とりあえずこれくらいでいい?詳しいことは、後でメールするな」と、数枚の一万円札を渡してきたが、琴子はそれを奪い取り、男たちの背に投げつけた。男は、慌てて金を拾い集め、ドアを開けて部屋を出た。良彦が部屋についたのは、その少し後のことだった。


 *************


「琴子おばさん、琴子おばさん!」と千夏は叫び、琴子の胸に顔を沈め、泣きじゃくっていた。良彦は彼らに近づいた。彼には何が起こったのか分からない。


 琴子は、千夏に話しかけた。

「何されたの?シャツを脱がされただけ?パンツは履いてるの?入れられてはないよね?」

 千夏は、泣きながら何も喋らず、ただ、うんうん、と頷いた。


 しばらく時間が経って千夏が落ち付くと、まだ興奮が冷めていない琴子は、千夏を引っぱたき始めた。


 バチーン!「これは、お母さんの分!」

 バチーン!!!「これは、お父さんの分!」

 バチーン!!!「そして、これはわたしの分!」


 千夏の頬は、またたくまに真っ赤にはれあがった。


 ホテルを出た彼らは、少し遠回りをし、バスを使ってゆっくりと帰ることにした。千夏のシャツは、ボタンをはめられる状態ではなく、電車を使うと人目につきそうだ。琴子は、自分の首に巻いていたスカーフを使って、千夏の下着が露出した部分を隠した。シャツの上から、胴巻きかはちまきを巻いているような感じになってしまい、上着で閉じて極力見えないようにしたが、じっと見られるとその変な様子に気づかれてしまうだろう。千夏はバスの席につくと、隣に座った琴子に口を開き始めた。


「あのね、あの大学の一年生の子と付き合ってるんだ。アメフト部でね、上下関係も厳しくて断れなかったらしくって、その、そういうことを先輩たちともやってくれないか、って頼まれたの。報酬も払うからって。えっとね、彼に頼まれたからってだけでもなくて、お金目当てでもなくて、正直なところ、興味もあったんだ。でも、いざとなったら、怖くなって、あの人たちも、お前、頼んだらいくらでもやらしてくれるんだろ、とか言うし。撮影のことも聞いてなかったし・・・」


 通路を挟んで座っていた良彦にもようやく状況が分かり、愛娘の前に立ち上がって、手を振り上げた。それを琴子がかばった。

「もういいの。もう済んだの。大丈夫だから。良彦君の分も力いっぱい殴ったから、許してあげて。怖かったね、千夏ちゃん。怖かったねえ・・・」


 千夏はまたぐすんぐすんと泣き始めた。良彦は拳を収め、自席に座りなおした。


 良彦たち家族の自宅近くのバス停が来たので、三人で一緒に降りる。千夏は、つぶやいた。

「琴子さんが、本当のお母さんだったらよかったのに。あたし、家に帰りたくない。あの人が心配するのは、周りの人からどう思われるかだけなのよ。あたしのことなんか、何とも思ってない。」


 彼女は、長い間ため込んでいた思いの丈を良彦にぶつけた。

「それに、もう嫌なんだ!お父さん・・・あのね、お母さんは、ずっと長い間、浮気ばかりしてるんだよ」


「知ってたよ」

「じゃあ、なんで・・・」

「今日はともかく家に入ろう。お父さん、琴子さんを送っていくから」


 琴子は、その申し出を有無を言わさない調子で、すぐに断った。

「良彦君、いらないわよ。自分で帰れるから大丈夫よ」

「連中が待伏せでもしてて、襲ってきたら、どうするんだ」

「大丈夫だって。たっぷりとお灸をすえてあげた。すぐに立ち直って、反撃する気力は彼らにはないわ。たいした連中じゃあない。今日は、とにかく家族でゆっくりと過ごしなさい。ね、千夏ちゃん」


 琴子は、タクシーで駅まで行くから、と言って、二人を残し、その場を立ち去った。


 *************


 その晩、家に帰った琴子は、風呂に入るのだが、湯船につかっているといつの間にか寝入ってしまった。はっと目が覚めて、胸をなでおろす。

「やばいやばい。あのまま寝てたら、わたし、孤独死してたわ」

 実家は近いが、診療所を自宅兼用としていて、彼女は一人暮らしをしている。


 さすがに、ちょっと疲れたなあ。歯磨きとフロスだけはして、髪は半乾きのままで、ベッドに潜り込む。昨日は朝まで飲んでたし、今日も結局あまり寝れなかったもの。うとうとし始めて、寝れそうだなあと思ったら、千夏ちゃんのエマージェンシーコールだし。


 でも、大事にならなくて本当によかったわ。千夏ちゃん、大きくなってしっかりしてきたと思ってたけど、まだ子供なのね。あんな手口に引っかかって。今の恋人とも一刻も早く手を切らせなきゃ。―――今日は、思わずブチ切れてしまったけど、これ以上干渉するのは、さすがに、やりすぎかな。あとは、良彦と美奈子さんと千夏ちゃんたちの問題よね。それに、千夏ちゃんももう十分、どんな男と付き合っていたか、分かったでしょうし。まあ、いいわ。今度、それとなく聞いてみよう。・・・あ、なんかつらつらと考えていたら、眠気が襲ってきてくれたわ。今度こそ、ようやくぐっすり寝れそうね・・・。


 落ちかけたその時、忘れていたことを彼女は思い出してしまう。警察に届けるべきだったのかしら。奴ら、千夏ちゃんのシャツのはだけた胸の動画を撮ってたわ。当然、顔も映ってると思う。そこまで、思いが至らなかった。動画を仲間内では配るだろうし、ネットにでもアップされたら・・・。


 ただ、訴えたら、千夏ちゃん、学校に行けなくなっちゃうかも知れないよね。でも、それって、あの動画が晒されたら、同じことなんだから、やっぱり事前に手を打っておいた方がいいのかしら。―――早いうちに、良彦と千夏ちゃん交えて、対策を相談しよう。うん、そうしよう。方針が決まり、とりあえずの安心はしたためか、ようやっと、琴子は深い眠りに落ちることができた。長い週末が終わったような気がした。


 明日は九時から患者さん予約入ってるから、どんなに遅くても七時四五分には起きなきゃあね・・・。半分夢の中で、琴子はそう考えた。

 

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