第一話

「女ってつまんねえ生き物だなあ。あんな家、ただの団地じゃねえか。何がそんなにいいんだか」

「あら、品川の高層マンションに住めるような稼ぐ旦那さんを見つけて、家庭を作り、それを支える奥さんなんて、凄いと思うわよ。わたしにはできないわ」


「そんなこと思ってないだろうに。無理にフォローしようとしなくていいよ。俺は、どうも、『あれ』の中で暮らしていると、空高く積み上げられた蟻の巣、いや、蟻塚に住んでいるような気がして仕方ないんだよ。雲を触ろうとして天空に向かって行ったけど、どんなに手を伸ばしても届かない、そんな虚しさを感じるんだ。・・・それにさ、琴子は、それでいいんだよ。お前は、もっと高等な生物だよ。地に足をつけて生き、生と性の尊さを理解している。人間の雌という枠では、くくれない」


 琴子は、良彦の話を聞きながら、ロックで飲んでいるジョニ赤のグラスを右手で軽く振って、ちりんという心地よい音を鳴らした。彼女は、安価なのにちゃんと味のするこのウイスキーが好きだった。これより高価なものを飲んでも、自分にはスモーキー過ぎたり、味の良さが分からないことが多い。


「あら、それって高等なの?良彦の言う通りなら、わたしって、ヒトとしては進化してないってことじゃないの?人類は、前へ前へ、上へ上へと高みを目指して発展してきたんだから。地に足をつけたままじゃ、進歩はできなかったのよ」

「・・・で、進歩したその結果、俺たちは幸せになったのかい?そもそも、前へ、上へ、って言っても、どこへ進んでいるんだい?何のために進んでいるんだい?一体、俺たち、人は、どこに向かって、何のために?」


 琴子は、軽めのスモーキーな香りを味わい、グラスからウイスキーを口に含んだ。美味しいなあ。ハチミツのような少し甘めの味もする。すぐに飲み干してしまったので、ボトルからつぎ足した。

「あなたの言わんとすることも分かるわ・・・。でも、個の一つ一つ、小さな集団の一つ一つが、それぞれ、好き勝手に、前を、高みを目指せば、それは自然と統合され、人類の共通財産となり、個の一つ一つも、豊かにしてくれる・・・それが、人類の辿ってきた歴史じゃあないの?」

「『見えざる手』じゃあ、あるまいし。自然界は、単調増加型の関数でできている訳じゃないんだよ。無秩序に振動して、けれども減衰していき、平衡する。上でもなく、下でもなく、最終的にはバランスの取れる位置で落ち着く・・・」

「つまり、無になるって言いたいの?もしくは・・・振動しながら増大し、最後は発散、大爆発ね。これも無になると言ってもいいかもね」


「よく分かってるじゃないか。さすが、琴子だ。お前と飲むのは本当に楽しいよ」

「合わせてあげてるだけよ。それに、なあに?良彦のくせに偉そうに。誰が、あなたに数学やら理科やら、教えてあげたと思ってるの?」

 琴子は、意地悪く、微笑んだ。


「お前、この年になっても、まだ、それを言うかあ。まあでも、赤点ばっかりだった俺が高校卒業できたのは、確かにお前の功績以外の何物でもないけどさあ」

「分かってるならよろしい。でも、あなたもよく頑張ったわよね。わたし、あなたが高校、辞めちゃうんじゃないかって、ずっと気を揉んでた時期もあったんだから」


「そうだなあ。確かに、俺が持ち直せたのは、本当にお前のお陰さ。それは感謝してるんだけど、せっかくだからもうちょっと行けたらよかったのになあ。ほんの、あともうちょっとで、国公立行けたのに。親に無駄に苦労をかけてしまったよ。それだけがちょっと心残りだったな。・・・あ、いや、それはお前のせいなんかじゃなくって、俺の努力が足りなかったんだよ」


 良彦もグラスを新しくし、彼も自分のボトルからスコッチを注いで、それをぐいっと煽った。

「・・・って、何十年前の話してんだか。意外と俺、根にもつ方なのかな。俺らの世代では、男の三大コンプレックスって何だっけ。学歴だろ、身長だろ、あと一つなんだったかなあ・・・」


(その分、ちゃんと出世して取り戻してあげたじゃないの)そう言おうと思ったが、琴子は口をつぐんだ。良彦は父親を早くに亡くしていて、残された彼の母も数年前に他界したばかりだった。琴子の家と良彦の実家は近いが、良彦はあまり家には帰らないし、親孝行をしたというような話を聞いたこともなかった。しかし、彼の母はいくつになっても、良彦と琴子の子供の頃の話をするときだけは楽しそうだった。良彦は、今、こうやって、それなりにまっとうに生きてる。それだけで、お母さんは喜んでると思うわよ・・・、琴子は、心の中でそう呟き、別の台詞を口にした。


「良彦君、今日はえらくブルーじゃないの。マイナス思考、かなり入ってるぞお。まだ飲み始めたばかりなんだから、酔ってる訳じゃないんでしょ。疲れてるんじゃない?仕事、大変なの?」


 バーの店主がカウンターに出て来て、氷と水のセットを二人の中年カップルの前に置いた。

「私も話にまぜてくれよ。飲みたい人は自分で勝手に作ってね。客も来ねえし、もう店に鍵かけちゃうね。ゆっくり飲ろうか」


 *************


「わたしは、あなたとあなたの家族が羨ましいと思うけどなあ」

「本当にそう思ってる?」


「あなた、ぶっちゃけ年収いくらなの?」

「上下が激しいから答えにくいけど平均するとたぶん二五くらいなんじゃないかなあ。」


「外資系企業の役員なんてやってても、それくらいなんか。」

「外資だからって一括りにはできないよ。業界にもよるし、会社にもよるしな。でも分かるだろ。子供も一人は、アメリカの大学にまで行かせて、夫婦揃って本当は興味もないし、価値も分からないくせに、たっかい外車にしょっちゅう乗り換えて、無駄に都心に駐車場をいくつも借りて・・・。」


「あら、それって人からうらやましがられることを分かってるからこそ出る台詞よね。・・・でも、そりゃあ、いくらもらったって貯金なんてできないわねえ」


「それにさ、俺らなんて、毛唐の手先みたいなもんだよ。決して人から羨まれるようなもんじゃない。虚勢を張って、外には出さないけどさ、皆ビクビクしながら働いてるのが本当のところだし、会社だっていつまであるか。うちも買収に買収を重ねて大きくなってきた会社だしな。小心者の集まりだよ。俺も含めてな。ま、買収されなくても、アメリカ本社の社長が辞めるときは会社を売るだろうしな。ときどき、何のために働いているんだか、分からなくなるときがあるよ」

 良彦は、自嘲の笑みを浮かべた。


「琴子こそ、どうなんだよ。二三区とは言え、あんな田舎で毎日働きづくめで、質素な暮らししてさ・・・。歯医者の開業医ってもうかるんだろ?」

「他人の汚いところを触る仕事は、給料が人並みよりは割高だって、昔から決まってるのよ。そこそこは頂いているわ。でもね、差し引きすると手元には残らないのよ。全然、楽な暮らしじゃあない。親の借金もまだ少し残ってるし、クリニックのリフォーム代―――古かったから建て替え並みのお金がかかったのよ―――、新しい機械やシステムを導入するためのイニシャルコストと維持費、クソ生意気な歯科助手に払う人件費に・・・」

「ははは。本音が出たな」


 良彦は、話題を変えてみることにし、店主に話を振った。

「そう言えばさ、マスターは、どこの出身だったっけ?」

「私は浜松だよ。大学で東京に出てしまったのが運のツキだったねえ。四年間、こんなとこで学生なんかやるとさ、もうちょっと都会にいたいなって思っちゃうんだよね。幻想だよ。東京なんて物が高いだけで、ここじゃなきゃ手に入らない物なんてないんだし、むしろ地方都市の方が物価も安くて、地方でしか手に入らない物や幸せなんてたくさんあるのに、それが分からなかったんだよ。これが、若さ故の過ちというものなのか・・・」


 琴子がすかさず言葉を返す。「坊やだからさ」

 店主も負けてない。「自分だって、お嬢ちゃんじゃねえか」

 琴子はさらに言い返す。「雑魚とは違うんだよ、雑魚とは」


 ガハハハハ。マスターと琴子は口を開けて大笑いをしている。

「お前ら、同世代のオタクだな。あーキモい、恥ずかしい」

 良彦は、彼らをそうやっていじった。


「それが分かるお前さんも同類だよ。飲め、同士よ!」

 そう言って、琴子は良彦のグラスに、どぼどぼと酒を注いだ。

 何の話をしているのか、分からなくなってきた。良彦はトイレに立った。


 *************


 彼は用を足して戻ってくると、レジ付近に設置してあるタオルウォーマーの扉を自分勝手に無造作に開け、おしぼりを取り出してから席に戻った。顔を拭く。


「は~。気持ちいい」

「いい?良彦君。いくら常連だからってここはあなたのお部屋じゃないのよ?これだから、おじさんは嫌だよねえ、マスター」

「かまやしないよ、どんどん使っておくれ」

 彼らよりいくつ程年上だろうか、おそらく還暦近いであろう風貌の店主は、むしろ嬉しそうにそう答えた。


 良彦は、大阪の中堅私大を出た後、東京に戻り、複数の外資企業を渡り歩いてきた。若い頃はコンプレックスが強かった。それが自分をそのような道に進ませたのだろうか、彼は思う。彼の出身大学は、知名度はあるものの、第一志望ではない学生が集まる大学であっため、学歴―――出身大学名に関してコンプレックスを持つ者が多かった。一方、一家の長女として生まれた琴子は、都内の国立歯科大に実家から通い、卒業後は親の家業を継いだ。練馬の外れで小さな歯科医を営んでいる。良彦の中学から高校時代の同級生だった彼女は、学業も生活態度も真面目で、道から外れるようなことはしないのだが、彼にとって、彼女は考え方や言動がユニークで普通の女とは違って見えた。長年の付き合いで、ずっと戦友のような友情を抱いてきた。


「はいよ。これ、差し入れ」

 マスターは、芋焼酎の瓶を二人の前に置いた。


「いつも、気前がいいねえ。マスターも大変だろ。払うからいいよ」

「いいってことよ。気にしなさんな。わたしゃね、もともとは、ここの雇われマスターだったんだよ。十年くらい前だったかな、オーナーが店を閉めることにして、売りに出したんだけど、買い手がつかなくってね。お前にやるよ、って、捨て値で店ごと譲ってくれたの。借金はないから、その日の暮らしができればそれでいいの」


 琴子は店主の顔を感心した様子で見つめた。

「へー、そうなんだ。わたし、これから社長さんって呼ぶね」

「やめとくれよ。いつ来るか、来ないんだか、よく分からないバイトがいるだけなんだから」

「秀樹さんのこと?」

「残念ながら、うちに来てくれるのは、あいつくらいなもんだよ。ま、でも、うちではまともなバイトを雇う余裕もその必要性もないから、全然、いいんだけどね」



 琴子は、にこにこしながら、マジックを手に持ち、キャップを開けると、自分のジョニ赤のボトルに線を入れて、日付を書き込んだ。彼女が店に来ると、店主はボトルだけでなく、油性マジックも出す。飲みすぎないようにするための、彼女の習慣だった。

「良彦君、今日はこの線まで飲んだら帰るわよ。マスター、今日は秀樹さんは来ないの?最近、会ってないなあ」

「あいつは、今日は理美ちゃんのとこだって。まったくよくやるよ。何人の女の子の婚期を逃させたら、気が済むんだか。若い頃は、ケンカになってぶん殴ってやったこともあるけど、ま、相手の女の子がそれでいいって言うんならそれでいいかって、最近は気にならなくなったなあ」


 店主は、自分の同級生がいつも若い女性と付き合っていることに不満があり、よく愚痴をこぼしていた。そういえば、マスターの色恋沙汰は聞いたことがないな、良彦はそう思った。顔色がよくて年には似つかわしくないほどの健康的な白さを保ち、細面で、まるで韓流スターのような顔立ちをしているマスターは、もてるだろうに。


「彼―――秀樹さんは、もう働く気はないの?」

「もう宮仕えはたくさんなんだってさ。大学時代の同級生、ま、つまり私の同級生でもある訳なんだけどね、その奥さんと離婚して、会社もやめて、それっきりだね。再婚するつもりも、微塵もないらしいよ」

 そう言うと、店主は手に持った焼酎のロックをくいっと飲んだ。



 店のたった一人の従業員の秀樹は、店に来ると、たまにいる。そして、深夜になると女の子が迎えに来て、べろべろに酔った彼を引きずって、共に帰ることが多かった。ギターが得意で、各地のジャズバーや結婚式場などから仕事が入ったときだけ働くというライフスタイルを送っていることを本人から聞いている。ただ、今の彼女の理美には、良彦も琴子もまだ会ったことがなかった。


 いつの間にか、琴子は、マジックで新しい線を一本、ボトルの瓶に書き足した。

「今度こそ、ここまでなんだから」

「明日、休みなんだろ。どうせもう電車もないんだし、気にすんなよ。それ、次回のときのためにとっときなよ」

 良彦は新しいグラスに氷を入れ、マスターが差し入れた焼酎を注いで、彼女に差し出した。


「わたしを酔わせて、どうしようって言うのよ。この代償は高くつくぞ」

「お前が俺たちより先に潰れるわけないだろうが。万が一、お前が潰れても店のソファか、路上に放っぽって、捨て置くだけだよ。ほらほら、我慢は体に毒だよ」


「ちっ」彼女は舌打ちを打って、良彦を睨みつけ、しかし、良彦が作ったロックを一息で飲み干した。


 ガタガタ、チリーン、チリーン。


 鍵を閉めたはずの店のドアが何者かに揺すらされて音を立て、扉の上部に備え付けてある鈴が鳴っている。


「はいよ」

 マスターがドアの鍵を開けに行く。


「ハーイ、皆さん。やってますか~」

 常連客の一人の米国人だった。皆からは、Jと呼ばれている。彼らも名刺をもらったことがあったが、本名は、Jなんとか、という名前なのだが読めなかったので、自然にこの店での愛称は『J』と定着した。


「来やがったか。毛唐の外人野郎め」

「外人じゃないデース。ワタシの妻は立派なニッポン人デース」

 Jは、日本語が流暢だが、あまり喋りたくないようで、わざとふざけた口調になることが多い。むしろ、店では英語を使うことの方が多いかも知れない。マスターと秀樹は、クリスチャンの外国語系の学校を出ているし、琴子も良彦も、堪能とはいかずとも英語ができない訳でもなかったので、どっちでもよかった。自分たちが英語を使いたいときは使うし、Jに日本語を使うことも多い。Jとしても、どちらの言葉で話しかけられても気にしていないようだった。故に、会話は二ヶ国語が混ぜこぜの状態になるのが常であった。


「Jさんよ。今日も、可哀そうな日本の労働者たちから搾取してきたんだろ。まあ、座んなよ。俺らもそろそろ飲みなおそうかって思ってたとこだったんだ」

「何言ってんのよ。帰るわよ」

 琴子が良彦の言葉を遮る。新しいグラスを作りながら。


「その手は何なんだ。飲む気まんまんじゃねえかよ」

 良彦も、店主の差し入れの焼酎を飲み始めていた。


「ワタシは搾取なんてしてマセーン。ヨシヒコだって似たようなもんデショ。」

「俺らの国の連中から部品を安く買い叩いて、アメリカのためのジャンボジェットや戦闘機を作るなんて、そんなゲスな商売はしてねーよ。そして、今度はそれを日本に出来レースで、無理矢理に買わせるなんて、最低だぜ、おめえらは」


 Jは、飛行機メーカーの社員だった。日本の重工メーカーから飛行機部品を仕入れるのが仕事だ。買い付けの購買担当のようなものだろう。


 すると、琴子は、Jの味方をし、良彦を責め立てた。

「Jは、そんなに悪いことしてないわ。それに、日本が飛行機を買うのは、国と国の外交的な問題でしょう?歴史の問題でもあるわ。人のことばっかり言って、良彦の仕事ってなあに?外国のソフトを定価の何倍もの値段で日本に売りつけて円を巻き上げてる。あなたの方が悪人よ。外貨を稼がなきゃいけないのに、あなたは売国奴だわ。すぐ人を辞めさせてしまって、まっとうな雇用すら産んでない。Jの仕事の方が、よっぽど日本のためにはなってるわよ」


「うるせー、琴子のブス」

「ブスだとお。お前は、男子中学生か。てか、今の時代、ガキでもそんなこと言わないわよ」


「バーカ。ブスじゃないやつに、ブスって言うかよ。返す言葉がないからブスってしか言えなかったんだよ」

「大人になんなよ、パパを何年もやってきたんでしょ?」


「お前に言われなくても分かってるよ。しかし、お前って、めちゃくちゃ言うよなー。悔しいけど、ぐうの音もでんわ。一刀両断で斬り伏せられる、ってこういうことを言うんだろうな。そこまで言われると、逆に気持ちがいいくらいだ」

「あら、喜んでもらえて嬉しいわ。もう少し、虐められてみる?」

「琴子様、お気持ちだけで十分です・・・」


 良彦は、肩を落とし、カウンターテーブルに突っ伏した。その肩にJが手をかける。

「まあまあ、仲良く飲みまショウ。世の中に、必要のない仕事なんて、アリマセーン。ヨシヒコもコトコもワタシも、みんなお互いに支え合って生きているんデース」

「そんなきれいごと、聞きたくねえよ・・・。でもまあ、とりあえず乾杯しようか」

 ちょうど、店主がJに生ビールのジョッキを持ってきたので、良彦はそう言った。


 *************


 始発が動くのを待って、彼らは店を出た。Jは、店主にタクシーを呼んでもらい、それに乗ったが、二人は徒歩を選んだ。店は池袋駅からかなり外れたところにあり、良彦と琴子は、三十分以上の道のりをゆっくりと歩き続ける。適当に電車を乗り継げば、もっと早く着くのだろうが、これでいいのだ。いつものことだ。


「は~。帰りたくないなー。」

「また、何言ってんのよ。しっかりしなさいよ、パパ。今日は日曜日でしょ。ちゃんと家族サービスしろよ」


「琴子、本当に酒強いよな。お前が酔っ払ったところ、見たことないよ」

 良彦は、何度言ったか分からない、いつもの台詞を口にした。


「琴子は、これからどうするの?」

「まずシャワーよね。それから午前中は、家のことやって、午後は少し眠るわ。日曜日はゆっくりすることにしたんだ。本当は、たまには学会にでも出て新しい技術も学ばなきゃなんだけど、最近、なかなかモチベーションが上がらなくって。町医者なんだから、そんなに頑張らなくってもいいでしょう?」

 琴子はそう言うが、良彦は、彼女が真剣に仕事に取組み、患者のためにと日々、技術を研鑽していることは知っていた。


「お前は偉いなあ。本当によくできた女だ」

「またあ。男とか女とか関係ないでしょう。でもね、旦那が亡くなってから、ハリがないのよね。たまに虚しくなるわ。何のために、こんな風にコマネズミのように働かなければいけないんだろうって。わたしがいなくても誰も困らないわ。歯医者の数は、コンビニの数よりも多いんだから」

「患者は、琴子の病院をわざわざ選んで来てくれるんだろう?」


「そうね。それはありがたいんだけどね。でも本当に大事な治療は、仕事のうちのほんの一部だけなのよ」

「仕事って、そういうもんだろ。数えきれないほどのつまんない仕事に囲まれている中で、一つでも価値を見出せることがあるのなら、それは遣り甲斐がある仕事って言えるんじゃないの?」

「良彦のくせに偉そうに」

 琴子は、そう言って笑った。良彦も、そりゃそうだ、俺が偉そうに言えた義理じゃないよな、そう思った。


 駅に着き、そこで別れた。琴子は西部池袋線へ、良彦はJRの改札口に向かった。


 次は、来週か、再来週かな、良彦はそう思った。二人で約束をして飲みに行くことはなかった。そこに飲みに行ったら、相手がいる。いないこともある。まだ酒は残っており、一晩中飲み明かした彼の体はふらついていたが、気持ちの良い朝日の中を歩いたせいか、心は少し軽くなった。

 

 

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