馬鹿だから分からん。
鈴ノ木 鈴ノ子
馬鹿だから分からん
夜の街で春を売る。
春にも売り方がある、安く売ればしくじり、高く売ってもしくじる。要は加減が大切なのだ。
つかず離れずを繰り返して、安全な客を持ち続ける。
3年の女子高生、柏木梨花にとって災難だったのは、吐き気が続いたことだった。真逆と嫌な予感が走り、数日後に買った簡易検査キットのレッドラインに絶望した。
誰が相手かなんて判りはしない…。
つわりは酷くて、吐き気は治らなかった。
客はそんな彼女から離れて行き、ついには誰とも連絡が取れなくなった。まあ、感のいい奴は気づいていたんだろうし、後ろめたい行為に逃げたのだ。
梨花の家族はバラバラで帰宅しても誰一人いない、食卓も、リビングも、暗く、使われた形跡はない。
最後に食事をしたのはいつだったろうと、考えながら久しぶりに帰宅した我が家で朝を迎えた。
リビングに降りて、カーテンを開けて空気を取り込む。庭は雑草が生い茂りゴミが散乱していた。埃を払ってソファに座り込むと、胃のあたりがムカムカしてきて、近くにあったゴミ箱へ吐く。
食べていないから、胃液だけが、吐き出された。
梨花いるのか?
空いている窓から男が顔を出した。
なによ、ばか文太。
大柄で体格の良い幼馴染、隣に住む鉢巻文太だ。と言っても、最近は全く付き合いはない。
再び、吐き気が込み上げてきて私が激しく嘔吐すると、文太は慌てて駆け寄ってきた。
だ、大丈夫なのか?
大丈夫にみえる?馬鹿なの?
馬鹿だから分からん。
そう言いながら彼は私の背中を優しく撫でる。
幼い頃に家から逃げ出すたびに、文太の家の前で泣いていると、彼はどんな時もすぐに家から出てきて同じように背中を撫でてくれたのを思い出した。
変態、やらせないからね。
そんな度胸は持ち合わせてないよ。
嫌味を言ってみたものの、その摩る優しい手を離さないで欲しかった。
水飲むか?
うん…。
あー。ちょっと待っててね。
立ち上がってキッチンを見回した彼はそれに絶望したようで、窓から外に出て行くとペットボトルとコップを持って帰ってきた。
ほら。
あ、ありがと…。
心底からのありがとうなんて、最後にいつ言ったか。
隣に座った彼の重みでソファが沈み込む。
病院いくか?
病気じゃないし…。出来ちゃっただけだし…。
心配そうにこちらを見る彼に、私はさらりと事実を伝えた。私がことをしていることは彼も知っている。
そうか。
そうかで終わり?馬鹿なの?
馬鹿だから分からん。
そう言ってソファから立ち上がった彼は、再び窓から外へと出て行った。
あは、呆れられた。
投げやり言って私はソファで横になった。彼のぬくもりがまだ残っていた。久しく流していなかった本当の涙が溢れ出して私は声を押し殺して泣いた。
しばらく泣いて、私は立ち上がるとキッチンへ向かう。
さて、死のう。
お腹の命には悪いけど、育てるなんて無理だし、なにより体を売れなきゃ食べてもいけない。親は連絡すらまともに取れない。この状況なら死んでも良さそうだ。
ほとんど使われていないキッチンは、優しい思い出も楽しい思い出もなく無機質だ。
引き出しから使われることのなかった真新しい包丁を取り出して、梨花は両手で柄を握ると刃を胸に当てた。
うぅ…う…うぅ…。
自分の身勝手もある。でも、こんな最後なんてと考えると涙が再び溢れてきた。食器棚のガラスに映る自分の姿は情け無くて私は目を逸らした。
手が震え、歯はガチガチと音を立てる。涙はポロポロと溢れ、死の恐怖に全身が震え始めた。
なにしてるんだ?
後ろから文太の声がした。
な、なにしてるか、わ、わからないの…。ば、ばかなの?
震え声で答えると文太は困った顔をしながら、いつものように答えた。
馬鹿だからわからん。
ゆっくりとこちらへ来ると、私の手から包丁を取り上げた。そして震えている私を、その太い両腕で厚い胸板へと引き寄せてゆっくりと優しく抱きしめた。
私は身勝手にその胸でひたすら昔のように泣きじゃくった。
今、私はこの家にいる。
リビングは綺麗に掃除しているし、キッチンも大分使い慣れてきた。庭は雑草を抜いてゴミを捨て綺麗な芝生が惹かれている。
ほとんど帰ってきていなかった家に、私はあれからずっと暮らしている。
ただいま。
おかえり。
リビングに文太がスーツ姿で現れた。高校を卒業した彼は今や立派な社会人だ。あれから数ヶ月が過ぎていて、私のお腹も徐々に大きくなっていた。
体調は大丈夫か?
見てわかんないの?馬鹿なの?
ダイニングテーブルの上に、ようやく作り慣れた手料理を並べながら私は彼に言う。
馬鹿だからわからん。
笑顔でそう言って彼は2階へ向かった。着替えて降りてくるのだろう。
あの後、私は学生結婚をした。
文太は私をあのまま抱えて自宅に戻ると、彼の母親の前で私を指差して、嫁にするし、子供もできる、と言い放った。
呆然とする母親に対し、文太はさらに言う。
女を大切にしろと教わった。生涯かけて大切にしなきゃならん女性です。
彼は母子家庭の育ちで、彼の母親はどちらかと言えば元ヤンの部類に入る。呆然としていた彼の母親は足早に文太の前に立つと思いっきり平手打ちをした。
それはもう、素晴らしい音がするほどたった。
テメェ、もう一編言ってみろ。
文太は同じセリフを再度言った。
再び、平手打ちが響くと、次に母親から発せらた言葉は私の予想の遥か彼方を行くものだった。
よし、やってみせんかい!
そう息子にきつく言うと、文太の母親、陽毬さんは私の前にでしゃがみ込み、私の目をじっと見た。
父親はわかんの?
本物の元レディースの睨みは怖い。
わ…わかりません。
か細く答えてしまうと、さらに怒鳴りが入ってきた。
はっきり答えんかい!
本職ではないかと疑いたくなる迫力だ。
わかりません!
もう自棄になって大声でしっかり目を見て言う。
なら、よし!
え!?
陽毬さんは清々しいほどの笑みを浮かべて納得すると、料理をしに戻っていった。後から聞いた話なのだか、文太は先天的に精子ができない病であり子供を作ることは不可能、それどころか母親としては一生独身で過ごすのだろうと考えていたそうだ。文太もまた、そのつもりでいたらしかったが、私を見て決意したそうだ。
父親のことを聞いたのは、後々揉めないためらしい。
そして色々とあったが、乗り越えに乗り越えて今に至っている。
文太が戻ってきて席に着いた。私も合わせて席に着く。
いただきます。
ハミングして思わずお互いに笑う。
ねぇ、文太。
なに?
私のこと好き?
好きだよ?梨花はどうなの?
大好きに決まってるでしょ?馬鹿なの?
馬鹿だからわからん。
ふふ。分かるまで頑張らせるから。
多分、一番の馬鹿は私だ。
馬鹿だから分からん。 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki
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