4
程よい風の吹く、曇りの日であった。
クラリッサは舟に荷物を詰め込み、ふうと息を吐いた。彼女の私物はほとんどない。詰め込まれたのは日持ちのする食糧や、これからの航海に向けた道具だ。もともと持ってきていた荷物は、きっと今頃海の底。運が良ければ、海上をぷかぷか漂ってどこかに流れ着いているかもしれない。
「クラリス殿」
額の汗を拭っていると、後ろから声をかけられた。クラリッサは振り返り、なあに、とおどけた調子で返す。
「どうしたの、アロヒュリカさん。何かご用?」
「このような日くらい、真面目に受け答えしていただきたいものです。見送りに決まっているでしょう。あなたは大切な客人なのですから、最後まで真摯に対応するのが首長のつとめです」
「……それにしては、結構な人数だね? 内密にって言ってた癖に」
にやりと口角をつり上げたクラリッサに、北の首長は致し方ないでしょう、と肩を竦めた。
彼は付き人の他に、妻であるメクティワ、家で働いている下男下女を連れていた。先日の祭祀に比べれば大勢と言える人数ではないが、事前に知らされていた内容──出来るだけ南の島に知られないよう内密に出航させるというもの──からは
特にメクティワがいるのは、クラリッサとしては意外なことだった。彼女の気持ちを考えれば当然のように思えるが──あの首長も人の心を解しているということだろうか。絶縁状態と言っても良い弟との見送りを許した夫に、メクティワは何を思っているだろう。
にやつくクラリッサに、アロヒュリカはわかりやすく嘆息する。しかし不快に思っているようには見えず、むしろ幾分か肩の力を抜けているようにも見えた。
「これでも絞った方なのですよ。島の民たちはあなたを慕っていましたから。特に女衆を宥めるのは大変でした。そこに子供たちも加わる訳ですから、本当に骨が折れる思いだった」
「あはは、お疲れ様。でもありがたいことだよ、あたしとしてはね。モーワンさんや、この島の人たちには色々お世話になった訳だしさ。──あっ、あとは他の島の首長さんたちもね。フィアスティアリのこと、たくさん教えてもらえたし」
この場には来ていないが、クラリッサとツィカの出航を影ながら支援してくれたのはテテカシュとウェフェルだ。彼らが己が島の者たちに命じて造らせた舟は、帆船の形をしていながらも白子のツィカに合わせて屋根が設えられている。大陸東部の楼船にもよく似た形状の特注品である。
彼らが何を思って二人を送り出そうとしているのか──あれこれ邪推してもきりがない。気にならない訳ではなかったが、せめてフィアスティアリにいる間だけは素直に感謝しようとクラリッサは決めた。せっかく助力してくれたというのに、不信感を抱くだけでは申し訳ない。
勿論、これは南の島の首長であるチャムペカフにも言えることなのだが──やぶ蛇は避けたいところだ。何も言わないことにしておこう。
「あ、あの……クラリス様」
首長たちの顔を順繰りに思い浮かべていると、今にも消え入りそうな声が耳に入った。言うまでもなく、メクティワのものだ。
夫の背中に隠れるようにしていた彼女は、おずおずとした仕草で前に進み出た。アロヒュリカはそんな妻に普段よりも幾分か穏やかな眼差しを向けている。それにメクティワが気付いていれば良いのだが──今の彼女には難しそうだ。この様子だと、自分のことだけでいっぱいいっぱいといったところだろう。
「わ、私……出立にあたって、お渡ししたいものがあるのです。大したものではございませんので、不要であれば受け取らずとも構わないのですが……」
そう言ってメクティワが差し出したのは、貝殻で作ったと思わしき飾りだ。色とりどりの紐を編み込み、ビーズと共に巻き貝の殻がぶら下がっている。使いどころによっては、装身具にもなりそうだ。
クラリッサはへえ、と声を上げた。何度かうなずきながら、メクティワからの贈り物を見つめる。
「綺麗だね、メクティワさんの手作り?」
「はい、恐れながら……。フィアスティアリ流のお守りです。身の安全を願い、漁に出る方々に家族から渡されるものです。海に出るのは、とても危険なことですから……カペトラ族は、初めて漁に出る際に必ずこういったものを手渡されるのです」
「……なるほどね」
クラリッサは訳知り顔でうなずくと、メクティワから飾り紐を受け取らずにおおい、と舟の方に駆けていった。
「クラリス殿、どこへ──」
「どこへってアロヒュリカさん、こそこそ舟の中に隠れてる照れ屋さんのところにだよ! ──ツィカ、隠れてないで出ておいでよ! 君だけ仲間外れにできる訳ないだろ!」
舟の影に体を屈めていたツィカは、クラリッサに手を引かれてよろめきながら転がり出てきた。どうやら見送りが終わるまで、隠れてやり過ごすつもりでいたらしい。
アロヒュリカやメクティワは少し驚いた程度だったが、他のカペトラ族はツィカが姿を現した瞬間に多かれ少なかれ皆一様に
それでも、せめてツィカとメクティワの前では暗い表情など出来ない。クラリッサは舞台に立つような心持ちで、ツィカを前へと進み出させた。
「メクティワさんから贈り物だって。舟を漕ぐのは君なんだから、お守りは君が受け取るべきだよ」
「クラリス、しかし俺は──」
「……エツィカシュイム、あまり時間をとるものではない。受け取るなら早くしなさい」
メクティワと関わってはいけないと馬鹿真面目に自戒しているらしいツィカは、首長に急かされてやっと姉の手に触れた。自分の方が細いかもしれないのに、壊れ物を扱うような手付きだった。
「あ……ありがとう。大事に、する」
姉上、とでも言いかけたのだろうか。不自然に
メクティワは何も言わなかった。一度だけ顔をくしゃりと歪ませてから、ぱたぱたと足早にその場を去っていった。彼女が笑ったのか、それとも泣き出す寸前だったのか──クラリッサは、一生かかってもわかる気がしなかった。
「クラリス殿、そろそろ」
こそりとアロヒュリカに耳打ちされる。目立たないうちに出航してしまおうという心づもりだろう。
さすがにツィカ一人で舟を出させる訳にもいかないため、集められた男衆たちが準備に取り掛かる。風の力と潮の流れに乗るまで、彼らが後ろから舟を押してくれる手筈になっている。今はそれほど潮が満ちている訳ではないから、沖に入る前に上手く舟が動かせる状態になれば溺れる心配もなさそうだ。
「……クラリス殿。無事に大陸に戻れたらで構いません。どうか、我々の窮状を世間に伝えてはくださりませんか」
男衆と共に準備に励むツィカをぼんやり眺めていると、切実な顔をしたアロヒュリカからそう請われた。他の民には聞かれたくないのだろうか、先程よりもずっと声を落としていた。
「……そういえば初日にも言ってたね、アロヒュリカさん。このままじゃ、カペトラ族は消滅するかもしれない……って」
「直接的な表現はお止しください。これでも、皆には隠し通しているのです。……村落に混乱が広まれば、酷いことになるのは目に見えていますから」
アロヒュリカは目を伏せた。
「たしかに、外部と接触することで、我々はより高度な文明を持つと自負する大勢に傷つけられるかもしれません。それを逃れたのが、我々の祖先なのですから。彼らはもう二度と同族が傷つけられることのないようにと、フィアスティアリを選んだ……それは私も理解しています」
「でも、もう限界なんだよね。アロヒュリカさんの見立てだと」
「……はい。ですから、あなたが唯一の希望なのです、クラリス殿。あなたから口添えしていただければ、我々は新たな道を得られるかもしれません。たとえそれがネツァ・フィアストラの教えに背く行為だとしても──私はカペトラ族を守りたい。存続させたいのです」
ですからどうか、とアロヒュリカは両手を組み合わせた。その姿は、神に祈る姿勢に似ていた。
今日が曇りで良かったと、クラリッサは今更ながら思う。姿の見えてはならない唯一神も面倒だが、形ある神というのもなかなかどうして扱いづらい。そこにいるのだと認識してしまうと、見られているという強迫観念に追い詰められるのではなかろうか。
ああ、アロヒュリカは本気なのだ。改めてクラリッサは、彼の思惑を感じ取った。異境の人間に故郷の命運を託さなければならない程に、アロヒュリカは追い詰められている。聡明であるが故に、若いながらフィアスティアリの重責を一身に担っている──。
「……まあ、最善は尽くそうと思うよ。あたしは一般人だから、大した影響力はないけどね」
視線のみですがり付いてきたアロヒュリカから、そっと目線を外しながら答える。痛々しくて見ていられなかったのだ。
アロヒュリカは静かな声で、どうかお願いします、と返す。その短い言葉に全てが詰まっているようだった。
「──クラリス、出航の支度が出来た」
たたっ、と軽やかな足取りでツィカが駆けてくる。視力が特段良い訳ではないというのに、慣れたものだ。
「それじゃ、アロヒュリカさん。改めてだけど、色々と助けてくれてありがとう。こっちでお礼らしいお礼が出来なくてごめんね」
「良いのですよ、お礼など……。あなたが無事に大陸へ戻れたのなら、私はそれだけで構いませんから。どうか、末永くお元気で」
「……うん。アロヒュリカさんも、メクティワさんも……フィアスティアリの皆も、達者でね」
平生よりも控えめな笑みを浮かべてから、クラリッサはツィカと共に舟へ乗り込む。それ以降、アロヒュリカから何か言葉がかけられることはなかった。
「舟を出すぞ!」
男衆の中から声が上がる。彼らは船尾につき、掛け声と共に舟を力一杯押した。
フィアスティアリが離れていく。一月にも満たない滞在であったが──一抹の物寂しさを覚えて、クラリッサはそっと振り返ろうとした。
(……いや、やめよう)
──が、何事もなかったかのように彼女は前を向く。これから繰り出す大海だけに、意識を集中させる。
ツィカが振り返っていないのに、自分だけフィアスティアリを顧みる訳にはいかなかった。
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