3
今となってはすっかり見慣れてしまった洞窟の岩壁が真っ先に視界の中へ飛び込んでくる。数度瞬きをしてから、クラリッサは己が置かれている状況を朧気ながら思い出した。
(……寝てたのか、あたし)
最悪な夢見だ、と思ったが、声には出さなかった。ツィカの住まいでだけは、汚い言葉を遣いたくなかったのだ。
耐えられない程ではない頭痛に顔をしかめながら、クラリッサはおもむろに身を起こす。体の節々が痛かったが、二度寝する気にもなれない。もう二度と体験したくない出来事の再演という、あまりにも趣味の悪すぎる夢の続きなど御免だった。
「……ツィカ?」
小声で呼び掛けてみたが、返事はない。きょろきょろと視線を巡らせると、少し離れたところで膝を抱えている彼の姿が目に入った。どうやら座ったまま眠っているようだ。
恐らく、彼は眠りに落ちる寸前までクラリッサの様子を見ていたのだろう。自分の寝床にも入らず、硬い岩壁に背中をくっつけている。そのような姿勢では、後々体を痛めるだろうに。
(やっぱり、心配かけちゃったよなあ……。良い大人が泣きわめいて、情けないこと)
いっそ忘れてしまえたら良かったのだが、クラリッサの記憶力はそう都合良く働いてはくれない。意識を失う前の出来事は、しっかり記憶に残っている。
大の大人がみっともなく大泣きという、これ以上大きくなってどうするのだと突っ込まれそうな醜態を晒すクラリッサを前にしても、ツィカは引かずに受け止めてくれた。ひとしきり泣いて
ふう、とクラリッサは息を吐き出して、自分の腹にかかっていた布をツィカにかけてやった。大陸に比べて温暖なフィアスティアリだが、体を冷やさない保証はない。クラリッサなりの気遣い──というか、この布はもともとツィカのものなので返しただけであった。
(……少し散歩でもしようかな)
思い立ち、クラリッサはそろりそろりと物音を立てないように気を付けながら岩窟を出た。ツィカにはゆっくり寝て欲しかった。
外に出てみると、ちょうど東の空が紫色に色づいていた。太陽はまだ出ていないが、それなりに明るいため視界は悪くない。散歩するにはちょうど良い状態だった。
いつもツィカと二人で歩いている道は酷く静かで、クラリッサは世界に独り取り残されたような心地すら覚えた。そうでないとわかっているのに、一抹の寂しさを感じずにはいられない。どれだけ人間の醜悪さを
確固とした目的地は決めていないはずだったが、クラリッサの足は自然と海辺に向いていた。ちょうど夜明け前なのだし、地平線から昇る太陽を眺めるのも悪くない。それに何より、他に行きたい場所がなかった。
途中の小川で喉を潤し、クラリッサは程なくして砂浜に足を踏み入れる。まだ日光を浴びていない砂に熱はない。もつれそうになる足を踏ん張り、クラリッサは波打ち際まで歩いた。
「もうすぐ、かな」
足を止めて地平線を見遣れば、うっすらと白み始めている。日の出までもう間もなく、といったところか。
ざざん、ざざん、と規則正しく寄せては返す穏やかな波が、クラリッサの爪先を濡らす。一応サンダルを履いては来たが、足裏を守るためのものだし、手作りの素朴な作りなので防水性はお察しであった。
「……ネツァ・フィアストラ。
僅かに顔を出した朝日、それを司るという異境の神を思い、クラリッサは誰にでもなく呟いた。
フィアスティアリに流れ着いてから、随分な時間が経ったように思う。しかしそれはクラリッサの人生に比べればほんの一瞬のことで、そしてこれからの大部分を占める訳でもない。クラリッサは大陸の人間で、それゆえに故郷へと帰らなければならないのだ。彼女の居場所は、ここではないから。
無事に大陸に戻れたとして、それから自分はどうするのだろう、とクラリッサはふと考えた。
きっと行きに乗っていた船のことは、既に公に知られているに違いない。クラリッサは行方不明者として扱われているか、捜索が打ち切られて死んだことになっているかのどちらかだろう。
後者だったら色々と面倒だな、と思うが、別にそれでも構わなかった。むしろ都合が良いかもしれない。クラリッサ・ナイトハルトではない自分として生きていけるなら、案外悪くない今後を送れるのではないかとも思う。様々な噂と醜聞の内に消えていった歌姫としての称号など、今のクラリッサにとっては重荷にしかならない。
──歌は、歌い続けたかったけれど。
「──」
すう、と息を吸い込んだ。まだ涼しさを感じさせる空気が、胸いっぱいに飛び込んだ。
クラリッサは腹の底から声を出し、昨日の祭祀で捧げられた祭歌を歌った。大陸のどの言語にも似ていない、フィアスティアリの古語。今はもう、儀礼でしか遣われない言葉を、クラリッサは目の前の光に向けて紡ぎ出す。
きっと、この言葉の真なる意味を知る者はもういないのだろう。カペトラ族が連綿と受け継いできたとはいえ、何から何まで正しく継承されるのは難しい。大体の意味は伝えられたというが、その内に秘められた意味合いはどうだろうか。この歌を作った者の意思は、今でも知れ渡っているのだろうか──。
クラリッサは喉を震わせる。劇物によって傷つけられ、手術を経たそれは、かつてのように極めて高く澄んだ音を出せはしない。広かった音域は狭められ、すぐに限界へたどり着いてしまう。
声が掠れる。息が苦しく、胸が痛む。もうこれ以上は出せないと、体が訴えている。
それでも、クラリッサは歌うのをやめなかった。まだ歌っていたかった。
歌うのは楽しい。心が軽くなる。上手い下手など関係なく、クラリッサは気持ち良く歌えたならそれで良かった。それだけで、満足出来ていたのだ。
他者からの評価を、体面を気にして、勝ち負けにこだわって。のびのびと歌いたくて、縛りばかりの田舎ではなく、もっと広いところで自由に歌いたかっただけなのに、クラリッサはいつの間にかかつての楽しみを忘れていた。そのことに、たった今気付いた。
何故、忘れていたのだろう。自由な声を失ってから気付くなんて、皮肉なものだ。
ひゅう、と咳に似た息が吐き出される。もう無理だ、やめてくれと止められているような気分だった。このままでは声が裏返るどころか、以前のように咳き込んでしまう。
まだ歌は終わっていないのに。最後まで、歌いきれていないのに。途中でやめなければならないなんて、クラリッサは嫌だった。最後の一節まで、声が枯れても歌いきりたい。それだけ歌うことが好きで、好きで好きで堪らないのだ。それを、やっと思い出せたのだ。このままで終わることだけは、絶対に──。
「──!」
不意に、背中から抱き締められた。クラリッサの口からははあっ、と息の塊が漏れて、その後に遅れて喉の痛みがやって来た。
肩で息をしながら、クラリッサはそっと振り返る。白い髪の毛が頬を
「ツィ、カ──どうして、ここに」
息も絶え絶えに問いかければ、彼は仄かな微笑みを浮かべるだけだった。体を離し、クラリッサの両手に己の指を絡めながら、おもむろに口を開く。
そこから紡ぎ出されるのは、祭歌──先程までクラリッサが歌っていた歌の続きだった。
ツィカの声は男性のそれとは思えない程の高さだった。先程までクラリッサが保とうとしていた音程とほぼ同等とも言えた。彼の歌声は伸びやかで朗々と響き、震えや揺らぎを内包していない力強いものだった。
彼は接いでくれたのだ。クラリッサが止めてしまった歌を。最後まで歌いきろうとしてくれているのだ。
クラリッサは再び息を吸い、数段低い声を出した。主軸となる音程からは外れているが、それはツィカの歌声と重なってえもいわれぬ調和を生み出していた。
即興の重唱に、ツィカはほんの少し戸惑ったようだった。しかし彼はすぐにクラリッサの意図を察したのか、目尻を弛めてさらに高く声を張った。きっと彼にしか出せないであろう、最高の歌声であった。
二人の歌声はしばらく続いた。お互いと、ネツァ・フィアストラだけが聴いている、人少なな場ではあったが、不思議と寂しさはなかった。むしろクラリッサの心は晴れ晴れとして、霧が払われていくような感覚さえあった。
やがて歌は止んだ。最後まで歌いきった二人は
「クラリス、」
先に口を開いたのはツィカだった──が、彼の言葉は途中で遮られた。
に、と悪戯っぽく笑ったクラリッサは、繋いだままの彼の手を強引に引っ張る。突然のことに対応しきれなかったツィカはそのまま体勢を崩し、二人いっしょに浅瀬へ倒れ込んだ。
髪の毛や衣服に海水が染み込む。クラリッサに関しては顔まで浸かる始末だ。海水が目にしみて痛かったが、気にする程の痛みではなかった。
ざばりと体を引き上げられたかと思うと、先程よりも近くにツィカの顔があった。彼は子供のようにきょとんとしていて、無性に愛しさが込み上げた。
「ねえ、ツィカ」
クラリッサは破顔した。頬を濡らすのが海水か涙か、その区別もつかぬまま笑った。
「あたし、君に会えて良かった」
そう言えば、ツィカはその赤い瞳を静かに見開いた。予想外の台詞だったようだ。
ツィカの意表を突けたことに、クラリッサはそこはかとなく達成感を覚える。この少年は無表情でいることが多いから、ちょっとした表情の変化を見られるだけでも楽しいのだ。
だが、この日のツィカはいつもと違った。驚きの後に、彼は微笑んだ。
「……俺もだ。お前に会えて良かったよ、クラリス」
それは見慣れつつある無垢な笑みではなく、複数の感情がない交ぜになったような、酷く複雑な笑いだった。嬉しそうにも見えたし、今にも泣き出しそうにも見えた。
ああ、ツィカは子供ではないのだ、とクラリッサは思った。
ふと、大陸にいるであろう己の子のことを思い出した。まだ片手で数えられる年齢の我が子。結局母の顔も知らぬ彼は、今頃何をしているだろうか。
誰かに抱かれて、子守唄でも聞いていれば良い。そう思いかけた自分に、クラリッサは今更何を、と思う。
彼を捨てたのはクラリッサ自身だ。それが今になって子を思おうとするなど、傲慢にも程がある。
「──クラリス」
数段、強めの声で呼び掛けられた。
見れば、普段は焦点が合わずに揺れている赤い瞳が、真っ直ぐにこちらを捉えていた。ツィカにしては珍しく、拗ねたような、こちらを責めるような色を含んだ眼差しだった。
「余所見は良くない。目の前にいる俺を透かさないでくれ」
クラリッサは瞠目し──ああ、と吐息をこぼした。
そうだ。その通りだ。余所見をするのは良くない。目の前に、大切なものがあるというのに。
「ごめん、ツィカ」
あたしはいつもこうなんだ、とクラリッサはうつむいた。
「あたしはいつも、目の前を見ないでその向こうにばかり気を取られるんだ。それが正しいんだって勘違いして、偉そうなことを言って……そうやってずっと、
「…………」
「ごめんね。ツィカも嫌な思いしてたかな」
「クラリスが謝る必要はない」
言っただろう、とツィカは優しい声で語る。
「俺はお前に出会えて良かった、嬉しかったと思っている。嫌な思いなどするものか」
「……ツィカ」
「戻ろう、クラリス。直に日差しが強くなる。ここに居続けたら日焼けをしてしまう」
ぐ、とツィカに腕を引かれて、クラリッサは立ち上がった。
──が、そのまま体を前に倒してツィカの背に片腕を回す。ツィカの口から、変な音の息が漏れた。
「びっくりした?」
にやりとクラリッサは口角をつり上げる。
「さっきいきなり抱きつかれたから、その仕返し。あたしは君と違って大胆だから、前からでも照れないぜ」
「…………物好きだな」
「お互い様じゃないか」
僅かに赤らんだツィカの頬を見て、クラリッサは満足そうに笑う。それにつられたのか、ツィカもくしゃりと相好を崩した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます