4

 夜は好きだ。特に今宵のような、静かで凪いだ夜は。

 しかし、夜闇に安堵を覚えるはずのツィカだが、この日はその相貌を憂いにかげらせている。


「……クラリス」


 彼の見つめる先には、すやすやと眠るクラリッサの姿があった。

 彼女を起こさないようにと気を遣ってか、ほとんど吐息のような声色でツィカはそっと呟く。普段ならクラリッサよりも先に眠りにつく彼だが、今日は寝付きが悪いのか寝具であるこもの上に寝転がることもせず、眠るクラリッサの側に座っている。

 クラリッサがフィアスティアリに流れ着いてから一週間以上──あくまでも大陸での曜日感覚なのでツィカにとっては十日前後である──が過ぎた。彼女はあまり望んでいないようだが、アロヒュリカたちにも歓迎され、少なくとも北部地域のカペトラ族からはその存在を受け入れられている。最近はアロヒュリカに連れられて、北の島を訪れることが多くなった。

 きっと、ここにいるよりも満ち足りた生活を送れるはずだろう。同世代の者と触れ合い、親しくなれるかもしれないだろう。

 それなのに、クラリッサはこの北端の島で過ごすことを望んだ。アロヒュリカから誘われているだろうに、それをわざわざ断ったのだ。それも、恩人であるツィカに恩を返しきれていないからという理由で。

 クラリッサからしてみれば、それは道理として当然のことだったに違いない。命を救われたからには、好き嫌いを抜きにしてもツィカの側で彼を助けなければならないと思っただけかもしれない。

 それでも、ツィカにとって彼女の行動は純粋に嬉しかった。今まで、自分の側にいようとした人間など、身内を除けば皆無だったのだから。

 扇状に広がるクラリッサの髪の毛を、ツィカはそっとすくう。白子アルビノである彼の視界は常にぼやけているが、彼女の髪の毛が放つ輝きはかすまなかった。


「……ネツァ・フィアストラの色だ」


 アロヒュリカや、大半のカペトラ族が聞こうものなら怒られそうだと思いつつ、ツィカは誰にでもなくこぼす。

 ネツァ・フィアストラ。それは一般的に太陽神とされるが、もともとは大陸にいた存在ということもあり、ツィカは一概に人智を超えたものとして見ることが出来なかった。

 おおよそ、カペトラ族にとって英雄とも言える──彼らを迫害から救い、フィアスティアリまで導いた人物が、死後に神格化されたものであろう。

 生まれてこの方神の存在を間近で感じたことのない白子は、現実的な──敬虔けいけんなカペトラ族からしてみればひねくれた考えを持っている。それは彼がフィアスティアリにおける異物だからという理由ではなく、単純に存在するかわからないものを手放しで信じる気になれないからであった。

 それでも、この時のツィカはクラリッサの髪の毛を見てネツァ・フィアストラの名前を持ち出して形容した。そうするしかなかったのだ。何せ、ツィカはフィアスティアリの外に出たことがないのだから。もともと不器用で口下手なこともあるが、応用の利いた表現などごくごく限られたもの。詰まるところ、語彙力が乏しかった。

 フィアスティアリにおいて、ネツァ・フィアストラは美しいものとして扱われる。金色のものは特に好まれ、ネツァ・フィアストラの視線──すなわち日光の色として崇められ、重要視される。カペトラ族の身体に刻まれる入れ墨が金色なのも、ネツァ・フィアストラにあやかったものであるが故だ。

 神の存在に疑問を抱いているツィカだが、金色自体は好きだった。度々見かけるその色は美しいが、ツィカの身近には置かれない。置くことを許されない。羨ましいと思う気持ちが、遠い金色をより眩しく見せているのかもしれなかった。

 白き肌の者。カペトラ族にとって、忌避すべき者たち。

 かつて侵略者としてカペトラ族を迫害した彼らも、クラリッサと同じように金色の髪の毛を有していたのだろうか。ツィカはふと考えた。

 もしそうならば、皮肉なことだと思う。そして、クラリッサがフィアスティアリの者たちから一定の信頼を置かれていることに対して、より納得出来るような気がする。


「……ネツァ・フィアストラ。お前は、この女をどうしたい」


 虚空を睨みながら、ツィカはどこにいるかすらわからぬ太陽神に問いかける。

 ネツァ・フィアストラは、フィアスティアリに害なす者をことごとくはね除けるという。それゆえにフィアスティアリ近海は荒れることが多く、その過酷な天候から無人島も多い。昔は船上で暮らす漂流民と交流していたというが──彼らが定住の地を持たなかったのは、一定の場所に集落を置かないことで時化や嵐による共同体の破壊を避けるためとも噂されている。

 だが、クラリッサはネツァ・フィアストラに受け入れられた。彼女がフィアスティアリに流れ着き、今こうして生きていることには、ネツァ・フィアストラの思し召しがあるのではなかろうか──。

 自分らしくない、とツィカは目を伏せる。白い肌に陰を落とす睫毛も、一本残らず白糸のように色を持たない。

 クラリッサは、故郷に帰るべきだとツィカは思う。少なくとも、見知らぬ辺境の土地で生を終えるなど、あってはならない。

 だが──果たして彼女の故郷だという大陸は、クラリッサにとって安らぎの与えられる地なのだろうか?


「…………」


 無言で、ツィカはクラリッサを見下ろした。寝息を立てる彼女の唇──そこから直線上に、視線を下げる。

 無防備に晒された、クラリッサの首筋。そこには、生来のものとは思えない直線──恐らく傷跡だろう──が存在している。

 先刻、尋常ではない様子を見せた彼女だが、ツィカに対して何も語らなかった。それだけ詮索されたくない事情があるのだろうと、ツィカもツィカで深追いせずにその場を後にした。

 しかし、ツィカにはわかる。クラリッサには、何者かに傷つけられた過去があるのだろう。

 クラリッサは己を歌姫だったと語った。専門の養成所に通い、そこでは面倒なこともあったと。

 大陸での人間関係がどのようなものか、ツィカにわかるはずもない。だが、クラリッサが傷つけられ、苦しい思いをしなければならない土地だというのなら、彼女がフィアスティアリに流れ着いたこともネツァ・フィアストラの導きではないかと思わずにはいられなかった。

 何も言わず、ツィカはクラリッサの頬を撫でる。壊れ物に触るような、恐る恐るといった手付きだった。


「……願わくは、彼女の日々が穏やかであらんことを」


 それは、何に対する祈りであろうか。

 クラリッサの寝顔を見下ろしながら、ツィカは消え入りそうな声で囁いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る