3

 眩しすぎる日がやや西側に傾きかけた頃合い、クラリッサはアロヒュリカの小舟を降りた浜にたどり着いていた。


「……クラリスか」


 椰子の木の下に膝を抱えて座っている、布を被った人影がつと顔を上げる。彼の横には、何やら荷物の積まれた小舟──行きに乗ってきたものより一回り小さいものが置いてあった。

 クラリッサは小さく肩を竦めてから、申し訳なさそうに眉尻を下げる。


「ごめんねツィカ、遅くなっちゃって。待ったでしょ」

「いいや、そんなことはない。むしろ、思っていたより早かった」


 そう告げるツィカの頬には、白い髪の毛が張り付いている。ここに来たばかり──という風には見えない。

 恐らく、彼はずっと待っていたのだろう。クラリッサが食事を振る舞われている間も、一人きりで。

 クラリッサは無言でツィカに手を差し出した。彼はすぐにその意図を理解したのか、手を取って立ち上がる。


「その舟は?」


 ちら、とクラリッサは視線を移ろわせる。小舟には漕ぎ手もかいも見当たらない。漕いで帰る──となると、かなり難しいだろう。そもそも、人が乗れるような隙間がない。


「アロヒュリカの方から、当分の食糧や生活用品をもらった。お前もいるから、いつもより多目なんだ」

「へえ。気が利くねえ。櫂はつけ忘れてるみたいだけど」

「今は干潮だから、俺の住まいまでは歩いて行ける。──ひもがくくりつけられてあるから、片方を引っ張ってくれないか」


 見れば、ツィカの言う通り干潮なのか、海水は引き海はほぼ砂浜のような状態になっている。これなら、北端の島へは舟を使わずとも戻れそうだ。

 クラリッサはうなずくと、舟にくくりつけられた紐の片方を持った。ツィカと共にそれを引きながら歩き出す。


「……お前は、アロヒュリカのところで過ごすのかと思っていた」


 海水を含んだ湿り気のある砂を踏みしめていると、ツィカが唐突に切り出した。

 クラリッサは目をぱちくりとさせてから、まさか、と笑う。


「ありがたい話ではあったけど、知らない人の中で過ごすのって結構しんどいからさ。お気持ちだけいただいておいたよ」

「あいつのところならば、少なくとも北端の島より豊かだ。美味いものも食べられるし、満ち足りた生活を送れる」

「でも、ツィカがいないじゃないか。あたしは君に恩返しも出来てないのに、離れるなんて出来ないよ」


 今度は、ツィカが目を瞬かせる番だった。

 相変わらず焦点は合っておらず、頼りなさげにぶれている。しかし、彼はどうにかクラリッサの姿を捉えて、僅かに震えを帯びた声色で言う。


「あの島の者たちは、皆お前を歓迎している。少なくとも、邪険にはしない。俺はあまりわからないが……きっと、話していて楽しいと思える者もいるだろう」

「いやあ、歓迎するかなあ? だってあたしは肌が白いし、太陽神様からは拒まれる存在だ。案外、大事にされるのは初日だけかもしれないよ?」

「それはないだろう。お前は、俺とは違うから」


 ふるふる、とツィカは首を横に振る。

 意外と頑固なんだな、と思いつつも、クラリッサは彼の言い分がわからない。しかし頭ごなしに否定する訳にもいかなかったため、どうして、と苦笑いしながら問いかけた。


「……お前が島を訪れても、しるしはなかった」


 これに対して、ツィカは初めて見せる──どこか拗ねたような顔でそう答えた。

 これにはクラリッサも少々面食らうが、言葉までは奪われない。


「しるし──って?」

「ネツァ・フィアストラの御心みこころだと、島の者たちは言う。俺がこの島を出ると、必ずと言って良い程海や天気が荒れるから……危険な存在が近付いていることを、ネツァ・フィアストラが危惧しているのだと、皆信じている」


 だがお前にはそういったことがなかった、とツィカはうつむいた。


「今日、お前と共に島を出たが、不思議なことに何も起こらなかった。海は穏やかで、空は真っ青に晴れていた。お前は、ネツァ・フィアストラに受け入れられ──そして、フィアスティアリに害を為すとは見なされなかったのだろう」

「そうは言われても……。あたしってばもともと晴れ女だったし、今更のような気もするなあ」

「……少なくとも、ネツァ・フィアストラを信じるカペトラ族の者たちはお前を受け入れるべしと判断したに違いない。だから、あのように歓待していた」


 俺とは違うんだ、と──ツィカは念を押すように繰り返す。

 それでも、彼がクラリッサを拒絶しているようには見えなかった。これまでほとんど崩れなかった無表情は揺らぎ、珍しくこの白い少年に人間らしさを与えていた。

 クラリッサは口を開いたり閉じたりをしばらく繰り返し──やっとのことで、唇を動かす。


「……人の住んでいる島に行くのは、好き?」


 問いかけられたツィカは、薄い唇をそっと噛む。足は止めずに、住まいへ一歩一歩近付きながら、彼は何かを堪えるような顔つきをした。


「もしそうなら、君は運が良いよ、ツィカ。あたしがいれば、その徴とやらは起こらないんだろ? だったら、今度からあたしと島へ行けば良いんだよ」


 クラリッサは微笑み、からりとした声で言った。場違いな程、明るい声だった。

 ひゅ、と白い少年は幽かに息を飲む。何度か瞬きを繰り返せば、真っ白な睫毛の先から伝ってきた汗が流れ落ちた。


「それは──果たして、許されるのだろうか」

「んー、それはまだわからないかな。でも、やってみる価値はあると思うぜ? 好きなこと、やってみたいこと──そういうのを我慢するのって、なかなか堪えるものだ。いくらツィカが我慢強くても、良いことじゃあないと思うな」


 気付けば、二人は北端の島の砂浜にたどり着いている。海は潮が満ち始め、日はだいぶと傾いていた。

 ここで、ツィカは唐突に足を止めた。満ち始めた潮は波となり、聞きなれた波打ち際の音が耳に入る。


「──クラリス、お前は」


 布を被ったツィカの顔は、うつむいていることもありよく見えない。しかしまじまじと見るのも何となくはばかられたため、クラリッサは普段通りに彼を見つめる他なかった。

 何秒、過ぎたことだろう。

 ツィカは何やら言いあぐねている様子で、口をぱくぱくさせていた。被った布をぐっと掴み、一層顔を隠す。


「…………いや、何でもない」

「ええっ、そりゃないよツィカ!」


 続きを待っていたクラリッサは、全身から力が抜ける思いだった。ここで有耶無耶うやむやにされては、何となく腹の据わりが悪い。

 ツィカは一体、何を言おうとしたのだろう。隠し事が上手なようには見えない彼が誤魔化そうとする程のことだ、きっと軽々しい話ではあるまい。

 クラリッサはしばらくツィカの横顔を凝視していたが、当の本人はもうその話題に触れるつもりはなさそうだった。彼は再び前を見据えて、ねぐらに向けて歩き出す。


(……ま、元気が出たならいっか)


 詮索したい気持ちはあったが、またツィカを落ち込ませたくはない。──いや、落ち込んでいたのかはわからないが、彼がうつむいている姿はあまり見たくなかった。

 小さく肩を竦め、クラリッサもまた足を動かす。いずれまた、ツィカが話してくれるだろうと、自分自身に言い聞かせながら。

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