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「──先程は、ありがとうございました」


 食事が済み、諸々が片づけられ静かになった四阿にて、メクティワは深々と頭を下げた。

 彼女の正面に座すクラリッサは、目をぱちくりとさせる。


「えっ、何、いきなりどうしたの? お礼を言うのは、むしろあたしの方だと思うんだけど」


 食後、二人きりで話がしたいから残ってくれないか、とメクティワに頼み込まれ、クラリッサはお腹いっぱいで動けないなどと周囲の者に言い訳をしてその場に残った。下人たちは後片付けに、アロヒュリカは他にすべきことでもあるのかさっさと四阿を離れていった。

 そして皆が立ち去った後、メクティワに頭を下げられたという訳だ。

 首長の妻はいいえ、と首を横に振る。肌よりも黒い髪の毛がさらさらと揺れた。


「私は、あなたに感謝しなければなりません。本当なら、何かお礼の品をお渡しするべきなのでしょうが──私の力が足りないばかりに、何も与えられない。無力な人で、ごめんなさい」

「待って待ってメクティワさん。お礼を言われたと思ったら謝られるとか、もうどうして良いかわからないよ。あたし、何かお礼を言われるようなことってしたかな?」


 心当たりがないまま話を進められては、さすがのクラリッサも付いてはいけない。まずは感謝するに至った理由を確かめなければ。

 問いかけられたメクティワはというと、はっとした表情をしてから申し訳なさそうにうつむく。何故だか自分が悪いことをしてしまったように感じられて、クラリッサは居心地悪そうに頬を掻いた。


「その……エツィカシュイムのことです。あの子のもとで過ごしたいと、クラリス様がおっしゃってくださいましたから。私から、お礼を言わねばと思って……」

「えっ」


 もじもじしながら答えたメクティワには悪いが、クラリッサはすっとんきょうな声を出してしまった。


「いやいや、あれは個人的な理由というか……。お礼を言いたいのはあたしの方だよ、メクティワさん。あたしの我儘わがままに助け船を出してもらえるなんて、これっぽっちも思ってなかったからさ」

「いえ、いいえ」


 そのようにおっしゃらないでください、とメクティワは弱々しく反論した。


「私は……エツィカシュイムを一人の人間として扱っていただけただけで、それで十分お礼をするに事足りるのです。あの子のもとにいたいとあなたがおっしゃった時、どれだけ嬉しかったことか……。ですからどうか、私に頭を下げないでくださいませんか」

「ええと……メクティワさん、ツィカとはどんな関係なの? アロヒュリカさんは、ツィカはどこにも属さない……カペトラ族の範疇に入らない存在だー、みたいに言ってたけど……」


 クラリッサの言葉を聞くや否や、メクティワはさっと顔を青くさせた。そして、悲しげに目を伏せる。


「そう……ですね。ええ、そうなのでしょう。あの子は弾かれ者です。白く生まれたというだけで、カペトラ族という共同体から疎外されてしまう、可哀想な子」

「…………」

「でも……それでも、あの子は私の大切な弟。同じ母から生まれた、かけがえのない同胞きょうだいです」


 そう告げるメクティワの眼差しには、先程までは感じさせなかった芯がある。姉の顔であった。

 たしかに、言われてみれば似ているところもあるかもしれない──とクラリッサは思った。顔立ちはあまり似通ってはいないが、柔らかそうな髪質や華奢な体つきはツィカのものとも共通している。


「弟は──エツィカシュイムのことをまったく恐れていないと言えば、きっと嘘になりましょう。私も、白き肌の者は怖い。罪を許されざる者は、その身に悪徳を宿していると言われていますから」

「……でも、君はツィカのことを心配しているよね。それだけで、他の人とは随分違うように思えるけど」

「……このようなことが言えるのは、あなたの前だからですよ。私は、旦那様にさえも、弟の処遇について口出しが出来ない……」


 私は弱い、とメクティワは悔しげに呟いた。

 きっと、並々ならぬ苦労をしてきたのだろう。クラリッサがそう憶測する程に、メクティワの表情からは悲壮感が漂っていた。

 ぐ、とクラリッサは唇を噛み──そして、その場の空気など知ったことかとでも言わんばかりに、そういえば、と場違いな声を出した。


「ツィカのところにいたら、あたしの身の安全が保たれるみたいな話になってたけどさ。あの子って、もしかして許嫁いいなずけとかいるの? あたしより年下に見えたけど、既婚者だったりする?」


 クラリッサの貞操ていそうが守られるという、本人からしてみれば笑ってしまいそうな理由でツィカのところに滞在することが許された。しかし、幸運だと思う反面、クラリッサは疑問を覚えずにはいられなかった。

 どことなく浮世離れした雰囲気を漂わせているツィカではあるが、若く健やかな少年であることに変わりはない。性欲が皆無──とは言い切れないだろう。それなのに、先程は誰もがメクティワの意見を(不本意そうではあったが)受容しているように見えた。それどころか、反論の声ひとつ上がらなかった。

 あまり突っ込んではいけない話題だとは思うが、どうにも気になる。それゆえに、クラリッサはメクティワが自責と自己嫌悪でしぼんでしまう前に話の主軸を切り替えようとしたのだった。

 僅かに焦りを含んだクラリッサからの質問に、メクティワは唇を震わせる。そして、先程よりも消え入りそうな声で答える。


「……いいえ、あの子は未婚です。そもそも、誰かとつがうことすら許されてはいません。まかり間違っても、エツィカシュイムがフィアスティアリで伴侶を得ることはない」

「だったら、余計やばくない? 頼み込んでおいてこんなことを言うのも何だけどさ、欲求不満かもよ、そんなに我慢させられてたら。そんな風には見えなかったけど、ツィカだって男の子だ。手を出さないとは限らないと思うよ」

「……いいえ、出せません。そのようなこと、出来るはずもない……!」


 見れば、メクティワの顔色は極めて悪かった。黒い肌でもわかる程に、彼女は憔悴しょうすいしきっている。

 尋常ではない、とクラリッサは思った。大丈夫、と声をかけようとした──が、次の瞬間にメクティワは口を開いている。


「エツィカシュイムは、生殖器を切り取られているのだから──!」


 どくり、と。

 クラリッサの心臓が跳ねる。全身を巡る血液が沸騰ふっとうし、その全てが熱く燃え上がるような心地さえ覚えた。

 メクティワの言うことが真実ならば──ツィカは、去勢されたということになる。


(ただ白いというだけで、あの子は)


 しかし、クラリッサはそれを表には出さない。

 何度か深呼吸を繰り返し、かつて歌姫と呼ばれた女はメクティワに向き直る。その顔には、もとの明朗な笑みが張り付けられている。


「──そっか、そういうことなら納得がいったよ。教えてくれてありがとうね」

「く、クラリス様……」

「さ、戻ろうメクティワさん。あんまり席を外してたら、アロヒュリカさんに睨まれちゃうよ」


 メクティワは数秒間戸惑いを見せたが、クラリッサの言わんとするところを理解したのか控えめにうなずいて答えた。終始笑顔のクラリッサとは対照的に、彼女の表情はあまりにも不安げで──目の前の女に怯えるような目をしていた。

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