2 よくある話と、あまりない続き




 雫の意気込みは、本物だった。

 芳乃は「来年にがんばれ」のつもりだったが、雫は「来年がんばった」のだ。

 屈辱の十四日が明けると、雫はさっそく準備に取り掛かった。

 まずは知識。お菓子作りの本をありったけ図書館で借り、読み込み始めた。

 次に道具。本気でチョコを作るには、専用の器具が必要になる。

 たとえば調温作業テンパリング。チョコの扱いの難しさは、微妙な温度差で性質を変えることにある。湯せんで溶かすのはそのためだ。温度管理は必須で、温度計を備えた専用ヘラもある。

 幸い、雫の家庭は裕福だった。ながらく勉強以外に興味を示さなかった娘が、料理に目覚めたことに両親は喜んだ。勉学に差し支えない範囲という条件付きで、必要な道具を惜しみなく買い与えてくれた。

 たちまち台所には様々な製菓器材が並び、チョコレート専用の冷蔵庫が運び込まれた。

 手作りチョコの原料は、クーベルチュールと呼ばれる製菓用チョコである。カカオ分の多いダーク、乳製品を加えたミルク、カカオ分の少ないホワイトの三種が存在する。手作りチョコの基本はこれらの配合と加工だが、果物や菓子など、他の食材と組み合わさることで、バリエーションは無限に広がっていく。

 その果てしない世界へ、雫は独学で飛び込んだ。

 入試目前の受験生、いやそれ以上の熱意で専門書を読み込み、日夜、台所に立ち続けた。

 その傾倒ぶりを心配した芳乃だが、じきに慣れてしまった。

 よく考えれば、勉強が料理に変わっただけである。これが雫の平常運転なのだ。

「それに毎日、チョコが食べられるし」

「食べてもらわないと、捨てるしかないしね」

 かくして、放課後、雫の家でお茶をするのが芳乃の日課になった。

 夏が過ぎ、秋が終わり、雫はめきめきと腕を上げていく。

 まず口溶けの悪さがなくなった。ぼんやりしていた甘さの輪郭が鮮明になり、組み合わせの素材に合わせた、微妙な調整もこなすようになった。

「すごいよ、雫。プロみたい」

 芳乃最大級の賛辞だったが、雫は納得しなかった。

「こんなレベルじゃ駄目。私の気持ちが伝わらない」

 自分の恋の熱量に見合わない。そう言いたいらしい。

 幸い、先輩にはまだ彼女がいない。時間はまだある。

 年を越え、ついにバレンタイン当日が訪れた。

 雫は悩んでいた。納得のいくチョコが、ついに完成しなかったのだ。

「でも、今日渡さなかったら、先輩卒業しちゃうよ?」

「そうだけど、でも……」

「大丈夫だよ。雫がどんだけがんばったか、わたしは知ってる。

 先輩にもぜったいに伝わるから」

 親友に押し切られる形で、雫は告白することを決めた。


 そして当日。芳乃の段取りで、校舎裏に先輩が呼び出された。

 しかし、そこに雫が現れることはなかった。

 自分のチョコに、いや自分自身に、自信が持てなかったのだ。

 芳乃は後悔した。雫の性格はわかっていたはずなのに。

 待ちぼうけを食わせたことを芳乃は先輩に詫びたが、雫のことは言わなかった。 

 雫の名も、秘めた想いも知ることなく、先輩は卒業していった。

 


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