#3 芋けんぴくらいあるわ東京にも!

 川辺を歩くのが好きだった。

 流れる水の音、開けた野辺に吹く風の音。高架を走る車列や鉄道の音。あらゆる環境音。

 その中に身を委ねている間だけは、私でいなくてもいい。生まれてこの方、物心つく以前から続けているで居なくていい。他の何者でもない、大河を流れる一滴のしずくくらい些細ささいな、誰にも省みられないになれる。


 カメラからも、2億4千万の瞳からも。

 そして、なんて生き方を押し付けて植え付けた、最悪な両親の4つの目からも解き放たれる場所。

 それが川辺だった。


 だから、中学卒業を境に、川辺にひとりで暮らしている。

 たったひとり、マンションの一室に息を潜めて。

 晴海しずくじゃない、大河の一滴の雫になるために。


 *


「ずくちゃーん、待ってよー……」


 オリプロ近くでタクシーを捕まえて逃げ切ったつもりが、結果としては失敗だった。

 あの下川ひなたにタクシーをタクシーで追いかけるなんて知恵があるとは思わなかった。テレビも映画もほとんど見ていないくせに、こんなときだけ頭が回るのが忌々しい。


「着いてくんなって言ってんの! アンタ、ストーカー!?」

「だって《ネクスト》のとき、友達って言ってくれたし……?」


 呆れてモノも言えなかった。あんなものは単なる社交辞令で、ひなたの口から晴海しずくのプロフェッショナルなイメージを広めてもらうための方便でしかない。

 それがまさか社交辞令も方便も信じ込むほどのバカだとは。救いようのない脳内お花畑だ。


「じゃあ絶交。しずくとアンタは赤の他人です。バイバーイ」

「そんなあ……」


 下川ひなた。

 《ネクスト》最終審査で見せた強心臓ぶりは「ダークホース」と書き立てたけれど、一発きりのインパクトで生き延びられるほど芸能界は甘くない。一発屋の5年生存率はがん患者よりも低いだなんて言われることすらある始末。


東京ここはアンタの居場所じゃない。とっとと帰れば?」

「帰るってどこに……」

「トクシマだかカゴシマだかとにかく島よ、島に帰んなさい。芸能界なんて窮屈な世界アンタには合わない」

「窮屈なの?」


 嫌味な先輩じみた行動をとるのは嫌だったけれど、何の警告も与えず無視して放り投げる大人にはなりたくなかった。


「想像してみたら? 日本じゅうの人間が、下川ひなたを知ってる状況」


 みんな、芸能界に夢を見る。だから新人の目はいつだってキラキラしていて、サクセスストーリーの主人公にでもなったように浮かれている。

 だが現実は過酷だ。プライベートはなく常に誹謗中傷や殺害予告に晒されて、訴えようにも有名税だ我慢しろと相手にすらされない。同じ人間のはずなのに、人間扱いしてもらえない。

 キラキラしたいだけなら、芸能人になんてなるものじゃない。

 ひなたはひとしきり唸って告げた。


「……うん、想像した」

「で?」

「え?」

「いや、想像して、何を感じたか聞いてんだけど」

「想像するだけでいいんじゃなかったの?」


 前言撤回、警告を与える気も失せて、このバカを放り投げたくなってきた。


「もういい、アンタに言うことなんて何もない……。がんばってアイドルにでも芸人にでもなって……」

「言い忘れてたけど女優志望です!」

「それは無理」


 あの即興劇のとき、先んじて手本まで見せてやったのに、ひなたは真似ることすらできなかった。マシだったのは何か言い出しそうな間の置きかただけ。肝心の台詞はひとことも出てこなかった。

 即興劇で何も言えなかった、その最大の理由は。


「な、なんで女優になれないの?」

「逆に聞くわ。なんで女優になりたいの?」


 知識がない、教養がない、遠慮がない。ないものを並べ立てればキリがない、ないない尽くしの下川ひなたには、女優に一番必要なモノが欠けている。


「ちゃんと考えて。女優なんて生き方が、アンタの人生を賭ける価値のあるものかどうか」


 ひなたにないもの。それは覚悟だ。

 他人のことを言えるのかと問われたら答えに窮してしまうだろうに、他人には簡単に覚悟を問える。自分が、あまりにも愚かで嫌になる。


「難しいこと言う……」

「女優になる覚悟あんのかって聞いてんの。挨拶だけで渡っていけるほど世の中甘くないことくらいアンタだって理解できんでしょ?」


 ひなたは俯いて押し黙っていた。そんな感情表現ができるなら、それを芝居に活かせばいいだろうに。


「まあ、アンタそこそこ可愛いから女優なんてやんなくても困んないって。しずくがイチオシしといてあげる。じゃあね」

「……投げ出したくないよ。一度始めたことだから」


 数時間前の脅し文句が、実感を伴った台詞になって返ってきた。

 低く、声には力なく、悲しげ。しかし強く、炎のように燃える意志が込められていると瞬時に理解する。


「ずくちゃん言ったよね。やりたいって言ったんだから覚悟を示せって」

「もう遅いっての。事務所がないんだから」

「でも、ずくちゃんがいる。見ててくれるよね?」


 時たま遭遇する面倒な絡まれ方だ。挨拶もそこそこに「芝居できるので見てください」なんて一方的に絡んできて、勢いだけのひとり芝居を披露する素人。 

 ひなたもそんな身の程知らずな素人と同じだ。一度は叶いかけた夢をいまだに燻らせているぶん、なまじタチが悪い。


「ならとっとと終わらせて。しずく忙しいから」

「ありがとうね、ずくちゃん」


 だからせめてものやさしさで、燻り続けている女優の夢を砕いてやる。

 粗という粗を露わにして悪し様にあざ笑ってあしらえば、すっぱり諦めて新たな道に進めるはずだから。


「……じゃあ、聞かせて。アンタはどうして芸能界入ったの?」

「それはね……」


 ひなたは胸いっぱいに息を吸い込み、瞑目する。事務所の会議室で披露したしずくのルーティーンを器用にマネているようだけれど、そんなものだけマネても意味はない。

 そう思っていた。


「……私が、叶えてあげないといけないからだよ」


 あのひどいお披露目とはまるで違っていた。

 短いセリフの中に込められた演技力が見事だった——ワケじゃない。たしかに情感はこもっているけれど平凡なものだ。

 なら、この喉に引っかかった小骨のようなむず痒さの正体は。

 なぜこんなに意識を引っ張られるのか。


「……?」


 気づいた。違和感の正体は妙な言い回しだ。

 女優になるなんて夢は自分が叶えるものだ。誰かのために叶えてあげるものじゃない。ましてや「あげないといけない」なんて、まるで他人に強要されているような言い方をするものじゃない。


 他人から、女優になることを強要されている?

 もしかして、この女は——


「アンタの夢は、他人のためなの?」

「肩身だから」

「誰の」

「お母さん。女優になるのが夢だったんだ」


 新人のくせに。ズブのドシロウトのくせに。

 ——どうしてそんなに、悲痛な顔で夢を語れるんだ。


「親の夢を叶えるため? 親のつまんない夢のために自分の人生を賭けてもいい?」

「大切な夢だよ」


 親から託された夢を、子が叶える。親から子へ渡される一子相伝のバトンを繋ぐ、なんて言えば聞こえはいいのかもしれない。

 けど、そんなものは美談じゃない。

 掛けられたが最後、二度と解けない呪いだ。


「バッカじゃないの?」

「うん……」

「毒親って言うのよ、それ。子どもに自分の夢を植え付けて、人形みたいに操るクソッタレな親のこと」

「それは知ってるけど、お母さんはそんなんじゃないよ?」

「どうでもいい。ホントにそれだけが理由?」

「うーん……」

「……言いなさい」


 手が出ていた。ひなたの両肩に掴みかかって、声を荒げてしまう。

 自分を制御できない。落ち着きのない心がざわついて、ひなたの存在を否定したくなる。


 だってこいつは似ているから。

 親が仕掛けた呪いのせいで、女優を目指すハメになってしまった——晴海しずくと。


「い、痛いよ、ずくちゃん……」

「話しなさい、下川ひなた。どうして親なんかのために女優目指すの?」


 認められない。認めたくない。

 親に人生を仕組まれた晴海しずくが、親なんかのために人生を賭けようとしている下川ひなたの幸せなど。


 ——全否定してやる。


「親は大事にすべきだから? 孝行娘だって思われたいから? 親に感謝したいから? 志なかばで死んだ親の夢を叶えてあげるのが美談だから?」

「それもちょっとはあるけど……」

「そんなもの全部——」

「でも一番はね? うー、これ言うの恥ずかしいんだけど……」


 ひなたは躊躇いがちに微笑んでいた。


「女優なら、なんにでもなれるからだよ」

「は……?」


 否定してやる。そう息巻いていたのに、ひなたの口から出てきた言葉は、想像の斜め上どころかはるか彼方へ飛んでいった。


「何、それ……?」


 腕のチカラが抜けた。「恥ずかしー」とキャーキャー叫びながら、ひなたは頬を真っ赤に染めている。意味が分からない。


「実はね? 私ホントはパティシエでピザ職人でアパレルで、美容師で宇宙飛行士でしょ? それに看護師とか公務員や弁護士、デザイナーや作家も捨てがたいしー。あ、それと芋けんぴ屋さんになるのも夢なんだ!」

「芋けんぴ……?」

「東京にはないの? あのね、サツマイモをほそーく切って油で揚げて砂糖で絡めた——」

「芋けんぴくらいあるわ東京にも! ていうか看護師に公務員に弁護士? 資格の専門学校か!?」

「でも、教わったんだー。女優ならなんでもなれる。全部叶えられるよって。だから私、女優志望です!」


 ひなたはいともたやすく、役者の真理を言ってのけた。


 女優はなんにでもなれる。

 カメラのレンズや第四の壁の向こう側でなら、硝煙を燻らせ引き金を引く殺し屋にも、江戸は吉原花街の花魁にも、あるいは性別の壁を超えて男性にも、さらには人間をやめて動物や妖精、あるいは神にすらなれる。

 無尽蔵かつ無限大な創造力で創られた物語という名の箱庭で、自分とはまったく違う別の存在になれる。

 そしてなにより、ひなたにとって女優の夢は——


「……アンタにとっては、手段なのね」


 ——なることが目的じゃない。女優はあくまで通過点だ。

 ひとひとりぶんの人生じゃ到底抱えきれないほどある無数の夢を、演技や芝居で叶えることだ。それは役者という肩書きがほしいだけのニワカとは違う。役者になることがゴールの素人とは違う。


 ——同じだ、しずくわたしと。


「ねえアレ、晴海しずくじゃない!?」

「ホントだー! 隣の子もかわいいー! 芸能人かな? 声かけちゃう!?」


 名を呼ばれてドキリとした。声色からして一般の視聴者だ。咄嗟に表情と仕草、立ち居振る舞いを営業用のものに変える。

 芸能人はイメージ戦略が命。これでどこからどう見ても晴海しずくだ。背筋をピンと伸ばしてしゃなりしゃなり歩こうと思った矢先のことだった。


「えー! ずくちゃんのファンの方だったんですか!? すごい偶然ですー!」

「ほんぎゃーッ!?」


 脳内お花畑あらため資格の専門学校、下川ひなたがモブに過ぎない一般人に大声で話しかけている。そればかりか握手までしていた。ヒくほどの笑顔で。


「ひ、……?」

「ドラマ見たことあるんだって! ずくちゃんのファンの人だよ! よかったね!」


 何を普通に会話しとんじゃこのボケが!


「お、応援ありがとうございますね。ひ、ひなちゃんちょっと……」

「実は私も芸能人なんです! 今は全然お仕事ないですけど、いつかきっと立派な芋けんぴ屋さんになるので楽しみに待っていてください!」


 モブ2人組はきょとんとした様子でひなたを見ていた。

 女優の、役者の真理が飛び出して感心してしまったけれど、ひなたはあくまでドシロウトだ。芸能人の基本のキすらできていない。そもそもそれでは、芋けんぴ屋さんが夢の女だと思われる。


「じゃ、じゃあ失礼しますね? ひなちゃん行こっか!」


 結局、近くにある自宅までずるずるとひなたを引きずって行くことにした。こんなバカを家に上げたくはなかったけれど、自宅の近くで「ずくちゃん」を連発されたらたまったものじゃない。

 芸能人はイメージ戦略が命。ツルむ仲間だって戦略のうちだ。


「下川ひなたです! 下川ひなたをよろしくお願いいたしまーす!」


 選挙演説ばりに叫んだひなたの名前は、その場に居合わせた人々の記憶に刻み込まれたのだった。

 芋けんぴ屋さんを目指している女の名として。

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