姉さんとスーパーと禁酒
「ゆーせーゆーせー、た、高そうなお肉、売ってる」
「高そうじゃなくて高いんだよ、今日はダメね。そんなの俺だって食いたいけどさあ」
「あと、パックのお寿司、半額だった」
「マジ?」
一緒に買い物に出ると姉はちょっとはしゃぐ。俺が荷物を持つから、両手が空いて身軽なせいだろうか。彼女に物を持たせると転んだり落としたりどこかに忘れてきたりで、申し訳ないけど俺が管理した方が楽だった。
弾むような足取りは、幼稚園児みたいではたから見ていて不安になる。体幹が定まっていない。あと靴ひもがほどけそうだ。なんかもう、いろいろ転びそうだなと思った時には案の定スパーンと右半身からスッ転んでいた。魚の水揚げみたいな転び方で、運動神経のなさを視覚から理解らせられた。
「あーあ、大丈夫?」
「う、うう、うん……」
差し出した手におずおずつかまる。けど一向に体重をかけてこないので、俺が代わりに引っ張り上げた。わあ、と驚いた調子で危なっかしく立ち上がる。
「靴ひも、今結んでおきなよ。そのままだとまた転ぶよ」
「うん、あ、ありがと……」
「あと」スカート履くのもうやめたら?「……や、なんでもないや」
正直しっかり中身が見えた。タイツ越しでもわかるもんはわかる。尻がめっちゃデカ、いや、いやいや。忘れよう、忘れた。
あとはその場で姉がもちょもちょ靴ひもを結ぶのを待った。頑張ってはいたが縦結びだった。ほどけないならいいと思う。
心なしかおとなしく歩く姉とスーパーを回り、半額寿司を確保し、野菜の値段を確認する。にらが安い。あとセロリ。でも、セロリってキーマカレー以外のなにに使うのか俺にはいまいちわからない。
「姉さん、セロリ使う料理って何が……」
「――あぇっ」
突然、彼女は胸を突かれたような声を発して立ちすくんだ。
軽く腕を引いても根が生えたみたいに動かない。開いた睫毛を震わせて、俺でもないどこかを凝視している。視線の方向へ俺も顔を向ける。
店内には客が行きかっていてわかりにくかったけれどおそらく、彼女が見ているのは若い男だった。姉と同じか少し年上くらいの、肩幅が広く、フットワークが軽そうな男性。姉とは接点がなさそうなタイプだ。
「どうしたの、姉さん知り合い?」
「う、あ、う……うん。大学の、さ、サークルの……」
「サークルって、姉さん何やってたっけ」
「ラグビー……」
「マジ⁉ 吹っ飛ばされておしまいじゃん」
「ま、マネージャー……だよ」
「ああ、まあそっか」
そりゃそうだと納得するが、ラグビープレイヤーのサポートもそれはそれで似合わない。おそらく体育会系の圧し強めな勧誘を断り切れなかったとかだろう。
カエルが砂漠で暮らすみたいな過酷なこと、やめておけばいいのに。サークルの中で明らかに浮いている姉の姿がありありと想像できた。実際に、ろくな目に遭ってこなかったようで、男を見つめる姉の身体は少し震えている。
彼は商品棚に沿ってゆっくりこちらに近づいてくる。ラグビーをしていただけあって逆三角形のたくましい体つきだった。男でもちょっとビビる外見だ。
人二人分の距離まで来たとき、突然姉の喉がひゅうッと鳴った。視界からすとんと彼女が消える。
屈みこんでしまった彼女の、しゃくりあげるような呼吸が止まらない。肩が弾んで上下する。過呼吸だ。見開いた目に涙があふれてまなじりを濡らす。
「ね、姉さん?」
慌てて野菜用の薄いビニールをひったくる。乱暴に開いて彼女の口元へ押し当てた。震える力ない指が袋の端をつかむ。頼りないビニールが呼気の分、膨らんでしぼんでをせわしく繰り返す。悲鳴みたいな呼吸音が痛ましい。しゃがんで姉の肩を抱く、俺の視界に汚れのないスニーカーの先が入ってくる。
「あれ、きみ、芥川サン? なに大丈夫?」
「は、ひ、ひっ、ひゃ」
「カコキュー? なんか、体弱いんだっけ。昔もよくソレなってたよね」膝をかがめ、男が姉の顔をのぞき込む。一重の怜悧な目だ。接近したことで一層ガクガク震える手に、彼の武骨な手が重ねられた。「ホーラ、落ち着いて。深呼吸してー」
「っ、あ、ひっ」
俺の手の下で姉の身体が暴れた。過呼吸の収まる気配はない。元凶(と思しき人)に触れられているんだから当然だ。
そっと男の手を押しのけると、そこで初めて彼の視線が俺の方を向いた。
彼に顔を背け、姉の目を後ろから片手でふさぐ。背中を覆うように抱きしめる。恐怖でかたくこわばった身体の感触。
「大丈夫だから。俺の声聞いて。ゆっくり、吸って……吐いて」
「ふっ、う、うぅ……」
耳朶へ吹き込んだささやきに従って、姉は懸命に呼吸を制御しようとする。気づけば周囲にはずいぶん人が集まってきていた。喧騒から隠せるように、彼女の身体をもっと深く抱き込む。
「番犬みたいだね。彼氏?」
笑みを含んだ声で男が言った。しゃがんだまま頬杖をついて、俺たちを眺めていた。笑うと犬歯がのぞいて一層剣呑な雰囲気になった。
「……弟です」
「エー弟クン? 似てねえ~ハハ。お姉ちゃんと仲いいんだ?」
「仲がいい」という語に、ふと揶揄や嘲笑の色が乗った、気がした。愛想笑いで返す。
その間に、徐々に姉の呼吸は正常に戻り始めていた。身体を抱き、目を片手で覆ったまま、ゆっくり彼女を立たせる。
「……あの、俺たちもう行きます。姉の調子も悪そうですし」
「そう? わかった、お大事に。近くに住んでるなら、また会うかもね」
「さあ……。姉さんあなたを見るなり過呼吸になってしまったので、会わない方がいいのかもって、俺は思います。昔姉となにかあったんですか?」
「楽しいことしかしてないけどなあ。飲み会とか、よく来てもらってたよ」
君のお姉ちゃん酒弱いよね、と最後に吐かれた一言が内にこびりついて胸がむかむかした。
「ということで、禁酒です」
「な、なんで……?」
生来の吃音症ではなく、純粋な困惑でどもった声だった。
家に戻ってきてあたたかいお茶も飲んで、やっと顔色が多少良くなったところだ。
「家の外で飲酒すべからずの法」
「法令じゃなくて、り、理由を……」
「だってさっきの、どうせ飲み会関連のトラウマでしょ?」
彼女はちょっと瞠目して、唇を結んだ。その反応が答えを言っているようなものだった。
たぶん泥酔して家に連れ込まれたとかその辺だ。標的になる様子が容易に想像できる。見た目はそれほど悪くないうえ、ちょろくて、押しに弱い。そのうえ酒にも弱いのだからどうにかするのなんてもっと簡単だ。ニュースになるタイプの事件に巻き込まれてないだけ幸運だと思う。
「姉さん、お酒断ったりとかできないでしょ。だから、最初から飲まない、ていうか、そういうとこに行かない」
「う、うん、それはいいけど。あんまり今は、さ、誘われることもないし」
「とかいって先月も同窓会なかった? 頻繁に集まりすぎなんだよね。俺が迎えに行けたからよかったけどあの時も自分の足で歩けてなかったしそういえば前もさ」
「わ、わかった、わかったよー。これから、全部断るから」
「お願いね? 俺がいつもフォロー行けるわけじゃないんだから」
「うん。め、迷惑かけて、ごめん、ね。……その」そこでなにか言いよどんで、もじ、と指先をいじり始める。「お酒、一人で飲みに行くのもダメ?」
「全然ダメだけど」
「じゃあ、さ、酒屋さんで試飲って、もらっちゃった分は?」
「え? そんなことしてるの? 断って!」
「じゃ、じゃあ、優生と一緒にで、出掛けた時……!」
「それは……!」流れでダメ、と言いそうになって直前でブレーキを掛けた。「まあいいか。そういう時は俺、飲まないようにするし」
「じゃあ、い、今から……」
「ダメです、晩ごはん買ってきたじゃん。今日はパックのお寿司。禁酒」
「うえ~」
明らかにしぼむ様子を見ながら、この人案外お酒が好きだったんだなと思う。こんど、なにか買ってみようか。
ダメダメお姉さんの介護記録あるいはワンルームという名の胎内 猫村空理 @nekomurakuri
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