姉さんとホットミルク

 ホラー映画を見る、と姉が言いだしたとき、止めようか少し考えた。

 昔は興味本位でそういうのを見ては、夜に風呂だのトイレだのへ俺を連れまわしていたから。十秒に一回「そこにいる?」と訊かれて、いるいる、と返すだけの時間を何度も過ごした。

 とはいえ、姉ももう二十五だ。さすがに怖くとも俺を引きずり回すことはないだろうし、そもそも、俺に閲覧を制限する権利はない。

 ので、自由にさせた。わざわざコンビニで烏龍茶とポップコーンを買い込んでいた。形から入るタイプなのかもしれない。サブスクで配信中の映画を選ぶ様子を、俺も後ろから眺めた。呪怨を見るらしい。大丈夫かな。







「ひゃ~~~~~~こ、こわ、こわ……」

「案の定だよ」

「ゆ、ゆっ、優生一緒にお風呂入ろ? せ、背中洗って?」

「要求重ねてくるじゃん。ヤダ入んないよ。怖がり、昔より悪化してない?」

「といれいけない、も、もれちゃうよお」

「最悪だよ~」


 取り急ぎトイレに連行して閉じ込め、扉の前で「ここにいるから!」と声を張り上げた。昔取った杵柄というのか、一連の動きがかなり洗練されていたと思う。風呂に入らせるのにもさらに同じ手順が必要だった。俺の方は、浴室に向かおうとすると姉が縋りついて止めてきたため、朝起きてからシャワーを浴びることになった。


「じゃあ寝るけど、電気消していい?」

「つ、点けててって言ったら、点けててくれる?」

「俺電気点けたまま寝れない。常夜灯点けとくから。ほら」

「あっ薄暗くて怖い……」


 おやすみ、と俺が横になれば姉も観念したのか、少しして布団にもぐる衣擦れが聞こえてきた。なんとなく、頭までもぐっているんだろうなあと思った。







 寝苦しくて目が覚めた。冬なのに、布団の中が妙に蒸し暑い。それに、なにか柔らかいもので胴体を押さえつけられているみたいに、身動きが取れなかった。首や手足は動くから金縛りではなさそうだけど。


「いま何時……」


 枕もとのスマホで確認したところ、時刻は二時過ぎ。いわゆる丑三つ時だ。姉の見ていた映画を思い出してちょっと背筋が冷たくなる。

 めちゃくちゃ怯えている人がいたから平気だっただけで、俺だってホラーが得意なわけじゃない。頭を振って恐怖を隅に追いやろうとする。


「……あっついな。なにが……」


 胴回りの布団がやたらかさばっているような。片腕をもたげて、布団をめくった。

 スマホのライトに照らされ、黒い球体が腹の横に転がっているのが見えた。それから、腹部に回る白い腕。

 人が俺にしがみついていた。

 っ、と悲鳴を喉で押さえる。横で姉が寝ているはずだから。あんなに怖がっていた人を夜中の二時に起こすのもかわいそうだ。そっと床のほうに目をやる。

 姉が使っている敷布団は、しかしもぬけの殻だった。くしゃりと毛布がわきにのけられている。


「姉さん……?」


 俺、いまひとり?

 急に心細くなった。彼女がいたところで、きっと事態を解決に導いてくれるわけじゃないけれど。でも側にいてほしかった。


「ね、姉さんトイレとか? 姉さん? どっかいるー……?」

「……んー……」


 腹に抱き着いている誰かが、俺の声でもぞりと身じろぎした。髪が流れ、俺の方から見て顔があらわになる。

 蜻蛉の羽のように睫毛が薄く震えるのが、暗がりでもわかった。瞳が開く。


「ゆーせー、呼んだ……?」


 姉だった。

 落ち着いて考えてみれば姉以外ないというか。おばけなんているはずないし。寝ぼけていたこともあって無駄に怯えてしまったことが、今更恥ずかしくなった。


「ゆーせー……?」

「よ、呼んだけど、平気。ごめん起こして…………いや、アレ?」そういえば。「なんで姉さん、俺のベッドいるの?」

「ん゛ー……」


 まだ眠たげに目をこすり、まばたきして、姉はあまり頭が回っていない様子でこて、と首をかしげた。俺の胸に髪が滑って広がる。姉のシャンプーのはちみつみたいな匂いが布団の中に広がった。

 どうして姉さんは、こんなにいいにおいがするんだろう。女の人だからだろうか。こころなし血色のいい寝起きの唇がつたなく言葉を紡ぐ。


「映画……おもいだして、怖かったし……」

「俺が引きずり込んだとかじゃないんだ。なら、そこはいいけど……。姉さん、今から自分の布団戻って寝れる? や、だってほら、暑いしさ」

「今日、さむい、よ……」

「俺の布団使っていいから」

「それは……優生が、さ、さむいんじゃ」

「いいから気にしなくて。そうだ牛乳飲む? まだ残ってたよね?」

「え? あ、あったと、おもうけど」

「レンジぶち込んでくるから待ってて」

「優生?」


 姉の腕の下から抜け出す。布団の外はいっそう冷えて感じられた。

 あたたかい牛乳を手に戻ると、俺の勢いに流された姉がベッドの上にちょこんと座って待っていた。俺の差し出したマグカップを両手で受け取る。黒い大きな瞳が上目で俺を見る。


「優生はいらないの?」

「俺はいいよ。怖くて寝れないとか、ないし」

「ご、ごめんね……」


 姉の横に腰かけた。ふう、ふう、と彼女が息を吹きかけるたび、膜を張った表面がゆれる。姉は猫舌だった。それこそ猫みたいに、舐めるように牛乳の嵩を減らしていく。眠気を噛み殺しながらその光景を眺めていた。頭がぼーっとして、まだ夢を見ているみたいに現実感がない。


「寝れそう?」

「うん……。ごめんね。お、起こしちゃって」

「いいって」


 口の端が汚れているのを拭いてやる。

 それから歯を磨かせて、布団に寝かせ、彼女の枕元に胡坐をかいた。「優生?」と困惑気味に俺の名前が呼ばれる。


「寝るまで、ここにいるから」

「ええ、えっと」

「また布団入ってこられても困るもん。だから、寝て。子守唄いる?」

「いらない……」

「目え閉じて」


 やっぱり言われるまま、流されて、彼女は目をつむった。電気を消してから、その手を取る。今日は体温の高い手がためらいながら俺に応じた。柔らかい掌から、小鳥みたいにかすかな脈拍が伝わってくる。耳を澄ましていると次第に彼女の呼吸が深く変わった。

 寝た? とささやく。返事は帰ってこなかった。暗さへ次第に目が慣れて、姉の白い顔がぼんやり浮くように映る。

 膝を寄せる。側へ手をついた。頬へ、鼻先を摺り寄せた。あまり顔に肉がついている方ではないのに、姉の頬はまろくてふわふわしている。彼女の息が首にかかって背筋がくすぐったくなった。

 胸が小さい手で絞められるみたいに苦しい。せつなく、ため息が出た。

 変わっている自覚はあるけれど、俺は姉に面倒なことを言われるといつも、ちょっと堪らない気持ちになってしまう。理由もきっかけもよくわからなかった。昔から振り回されて、適応したんだと思う。だから俺は、周りに案じられているよりは、姉との同居が案外苦じゃない。

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