ダメダメお姉さんの介護記録あるいはワンルームという名の胎内

猫村空理

姉さんと生春巻き

「実家から追い出された」と、姉がいくつか県を跨いだ俺の家を訪ねてきたのは半年前のことだ。晩夏の熱をまだ覚えている。

 俺の姉の芥川ホコリは、昔から要領が悪かった。


 アパート、二階、203号室。

 三和土に靴を脱いでそろえ、顔を上げると衣服山盛りの洗濯籠がふらふら脱衣所を出てくるところだった。見るからに危なっかしいよろけ具合をしていた。横から籠をかっさらえば、衣類の向こうからあらわになった彼女の瞳が幾度かまたたく。手持ち無沙汰の腕をふよふよと浮かせて、言葉を探しているらしい、数秒の間。気弱な視線が上目がちに俺へ注がれる。


「ゆ……ゆ、優生。お、おかえり」

「ただいま、姉さん」


 笑って返せばほっとしたように彼女の雰囲気が緩む。彼女はコミュニケーションも苦手だ。俺にすら吃る癖が抜けないくらい。

 抱えなおした洗濯物の、湿ってぬるい匂いが俺を包む。







「姉さん、洗濯物これ干しちゃっていい?」

「え、え、いや、わたしがやる……」

「いいよ、洗ってくれただけで」

「やあ、でも……」


 すぼめた肩がもじもじ揺れていて、いかにもなにか言いたげだった。黙って言葉を待つ。言い淀んでいる時の姉は、まるで自分の意見を遮ってほしがっているようにも見える。それでも根気強く無言を貫きながら、俺は彼女を甘やかしているのか、突き放しているのか、どちらなのかと考える。答えは出ない。


「あ、の、下着……を」


 やっと絞り出されたのは、飲食店で店員を呼んでも十中八九来てくれないだろう蚊の鳴くような声だ。


「下着?」

「自分でほ、干したい」

「あ~、じゃあ一緒に干す? 二人でやれば早く終わるし」

「……う、うん」


 俺の提案に姉はひとつ頷いて、床に置いた籠をまさぐり始める。絡まったまま無理やり取り出そうとして、ピザのチーズみたいにずるずる伸びる衣類を、俺も慌ててほどきにかかった。冷水だけで洗ったらしく、冷たい衣類を干し終わったあとの指がかじかんでいた。


「寒ッ」

「うん」


 俺に返事をしながら、彼女は指をしきりに揉む。彼女は筋肉量が少なく末端冷え性だ。身体の前で組み合わされている手を、ほんの思いつきで上から握ると、冷え切った俺の手よりさらに低い温度が掌の中に広がった。彼女の手が一拍遅れて少し跳ねる。妙に動物的で黒目の大きな瞳に俺を映し、困惑の色を浮かべていた。


「あったかい……ね?」

「そっちが冷たいんだろ。筋肉無くて。俺は朝走ったりしてるもん。姉さんも今度一緒に来る?」

「それはヤダ……」


 はっきり拒否されてしまった。彼女は運動が苦手だ。この性格とどんくささだと、体育の授業もさぞ大変だっただろうなと思う。マラソン大会の日、びりっけつでなんとかゴールした姉が足の痛みに泣きながら帰ってきたのをよく覚えている。閑話休題。

 ともかく、今日は寒い冬の日だ。そろそろ初雪が降るのだという。ほんの少し熱が移った姉の手を放してやって、袖をまくる。


「晩ごはん、なに? 買い物行ってきてくれたんだよね。俺も作るわ」

「え、えーと、生春巻き」

「生……」


 それだけ? と口にするか悩んで、結局飲み下した。言ったら委縮させそうだ。でも、生春巻きなんて言ってしまえばサラダの一種だし、夕食がサラダだけって結構悲しい。姉はあまり気にした様子がない。彼女は案外テキトーな食生活で生きていける方だった。あと、半年前まで実家で生活していたから、金銭感覚がふわふわしている。


「なに買ったの? レシートある?」

「あ、お財布に、は、入ってる」


 具体的な金額を見て思ったのは、ライスペーパーとかチリソースって高いんだな、ということだった。当たり前だ。需要が少ないものほど値段も上がる。経済学の初歩。

 別にこのくらいで怒りは湧かない。彼女はアルバイトで得た収入のほとんどを生活費に充てている。俺にもバイト代や実家からの仕送りがあって、短期的に見れば余裕がある暮らし向きだった。

 ただ、彼女のために常識を説くべきなのか、外でもいろいろ言われているだろう彼女を家の中でまで追い詰めるのは間違っているか、いつも判断しかねる。俺は20年しか生きていないのでどうしても経験則が足りない。

 ぐるぐる悩みながら、結局はなあなあで。不格好な猫の手で野菜を切る姉と並び、エビを解凍したり鶏肉をゆでたりした。下ごしらえを終えてみると結構な量になる。


「生春巻きなんて俺作ったことないな」

「つくりかたお、教えるよ。ライスペーパー、水にくぐらせると柔らかくなるの」袋から出そうとして一枚破いた。「こ、こうやって、中身のせて……あとは普通の春巻きと同じ……」

「おー、わかった!」


 最終的に俺は十四個、姉は六個を完成させた。俺と違って経験者らしい彼女が作ったものは、どう見ても不格好で破れていたり中身の配分がおかしかったりして、その不確定性が俺にはとても楽しい。

 そういうことで今日の夕食は生春巻きのみだった。身体が冷えたためしばらく二人でストーブに当たった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る